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d i a l o g u e


THAI



熱帯の陽に灼かれた肌を撫でる午後の微風が心地よかった。


「僕はそもそも運命なんてものがあることを信じてないんですよ」

コーヒーカップのソーサーの端を歩き回っていた小さなアリを指に乗せ、じっと見つめながら彼がこんなことを言った。

「どうして?」

「だって運命って、暗黙のうちに何者かによって人生に敷かれた、目に見えないレールみたいなものでしょ。もしもそんなものが本当にあって、僕たちはそんなものの上を歩かされてるんだとしたら、それはサイコロも振らないで、すでに決められたゴールに向かって、ただ人生ゲームのコマを進めてるようなものじゃないですか?」

僕は素直にうなずいた。

「だって生きてると、ふいに道を外れてしまうことだってある。そして道を外れてしまったことによって、きっとその先に思いも寄らない出会いなんかが待ち受けてて、その出会いによって人生が大きく好転することだってあるのかもしれない。そもそも旅ってそういうものでしょ?」

確かに僕は彼の言う通りだと思った。旅は裏切りの連続だ。そしてその旅の裏切りは、今まで頭の中でクルクルと回っていた地球儀をいとも簡単に塗り替えてしまう。塗り替えられるたびに頭の中の地球儀はほんの少し大きくなり、新たに書き込まれた道はやがて思わぬ方角へと走り出し、旅は無限の可能性を秘めてどこまでもはてしなく広がっていくんだ。

「でもそれは運命なんかじゃない。それはただサイコロを振り間違えただけなんだ。だって僕たちがこの街にやってきたことだって、何もかもがただレールの上を歩かされてたんだとしたら、旅をする意味なんてないじゃないですか?」

僕は彼の話に適当に相槌をうちながら、彼の手の上を小さな足を忙しなく動かしながら歩き回っているアリの行方に目が離せなかった。

「それに第一、僕たちがどんなに苦労して、どんなに努力したって、運命は僕たちの力じゃあ変えられないんだから。そんなバカなことってないでしょ?」

とうとうアリは彼の薬指から中指の先に達したところで、突然、指先からポトンとテーブルの上に落ちた。

「ゴメン。何だっけ……?」


   *


ホテルの名前はリヴァーイン。メコンの川岸に建つ。


ホテルの薄暗いロビーの奥、カウンターの脇を抜けると、そこに小さなダイニングがある。質素な格子柄の煤けたクロスが掛かったテーブルを白いプラスチックの椅子が取り囲み、低い漆喰の天井には年代物の扇風機の大きなプロペラが回る。床にはタブリーズでもハマダーンでもない、薄っぺらな紛いもののペルシャ絨毯が敷かれていて、わずかながら施工の杜撰な床の軋みを緩和している。

またマホガニー色のペンキが塗られた西洋風の手摺りの外、折り畳み式のガラス窓は大きく開け放しになったままで、そこに熱帯の陽射しにはおよそ不似合いな、深紅のビロードのカーテンが重く下がっていた。


我々は奥から2番目のテーブルに向かい合い、山盛りのパイナップルと熱いコーヒーという、およそ不似合いなものをオーダーした。山盛りのパイナップルの皿の隅には塩の入った小さな皿がひと皿。

コーヒーカップは4つ。これはこのあたりのお決まりらしいのだが、コーヒーには必ず熱いお茶が1杯ついてくる。それがなぜか、いつでも決まってコーヒーと同じコーヒーカップに入っていて、コーヒーを注文するとテーブルの上にコーヒーとお茶の入ったコーヒーカップがひとつずつ並ぶ。そしてコーヒーをおかわりすれば、また同じコーヒーカップに入ったコーヒーとお茶が運ばれてきて、テーブルの上でコーヒーカップは二進法で増えていくのだ。

この熱いお茶には微かに花の香りがした。確かこの国には「ラミン」と呼ばれる美しい名前のお茶があるらしいが、このお茶がそうなのか僕には分からない。


そして我々のテーブルのわき、開け放たれた折り畳み式のガラス窓の外には、どこまでも高く広がりゆく青天の下、鬱蒼とみどり生い茂る草むらの向こうに、乾季の最後の、眩く狂おうしい輝きに包まれた大河メコンが横たわっている。

その赤茶けた巨大な水のかたまりは、遠く下流から吹き上げる午後の微風に小さな波を逆立てながら、音もなく、極めて悠然と、浅い午睡の吐息のような微かな速度で確かに低地へむかって動いていた。

それはまさに水が流れているというよりも、すべての「時」そのものを押し流しているかのような、圧倒的な流れだった。そんな遠い輪廻の記憶を反芻するような水の流れを見ていると、ふとどこか体の奥深くで、己れの人生の中に流れ去った数々の時の断章が、確かな五感の記憶とともに僕の心を揺り動かした。


ナコンパノム。ここはタイの東北の国境の街。メコンを隔てて対岸がラオスだ。この街はもともと長くラオスのヴィエンチャン王家の一族に統治されていて、古くは伝説上の国コートブーンの都だったと言われているが、今この街にはそんな面影はどこにもない。眩しい陽射しに黒い日陰。生温かい風に犬の昼寝。バンコクにはない遅い乗り物。そんな、メコンが流れていること以外には何の取り柄もないこの小さな街に我々がやって来て、今日で2日目だ。


   *


彼と出会ったのはほんの3日前、バンコク中央駅のチケット売り場でのことだった。もちろんそれは運命なんていう大それたものじゃない。そう、それは4月13日のせいだったのだ。


そもそも僕は10日間という休暇をなんとか掻き集め、ようやくバンコクの空港に降り立った時点では、翌朝、中央駅から列車に乗り込み東北の突端の街ノーンカイへ行き、そこからメコンを渡りラオスのヴィエンチャンへ行くつもりだった。このインドシナの小国の首都が今回の旅の目的地、ゴールだったのだ。

かくして僕はラーマ1世通りに建ついつものホテルにバッグをおろすと、予定どおり、「トゥクトゥク」という名前だけは愛くるしいが、実際はオート三輪に屋根と座席を取り付けただけというタイ原産の吹き曝しのタクシーに乗り込み、ノーンカイまでの列車の席を確保すべく中央駅へと向かった。

ちなみにトゥクトゥクという妙な名前は、このおんぼろオート三輪の立てるエンジン音を愛称として呼び慣わすことになったものらしいのだが、どう贔屓目にみても「トゥクトゥク」なんていう軽やかな音などではなくて、僕には何度聞いても「バリバリ」とか「ブリブリ」といった、いたって暑苦しい音にしか聞こえない。まあとにかくイヌの鳴き声が「ホックホック」と聞こえるタイ人には、この耳触りな音も「トゥクトゥク」と軽やかに聞こえるらしいのだが、やはり僕はこれに乗らないとバンコクに来た気がしないのだ。

4月のバンコクはあいかわらず息苦しく狂暴な熱気に包まれていた。しかし年間を通して温度計の目盛りが20度から40度の間をさ迷っている、1年中夏のようなこの国にも一応の季節はあり、なんと一番暑い季節はまだこれからやってこようとしている。照りつける炎昼の太陽が車道を灼き、人々の長い午後が歩道の日陰に寄り添うようにして連なり、トゥクトゥクの吹き曝しの座席にはそんなバンコクの熱気と喧騒が突風となって吹き抜けていった。


僕を乗せたトゥクトゥクはその後も順調に、ラーマ1世通りからクルンカセム通りへと突っ走っていく。トゥクトゥクはまたその小ささゆえにとても小回りのきく乗り物で、車の隙間であろうが狭い路地であろうが、まるで迷路の中に落とされたハツカネズミのようにチョロチョロと雑踏を掻き分け、せっせと目的地を目指すのだ。

クルンカセム通りの脇にはパドゥンクルンカセム運河という、このデルタの街に最初に造営された由緒正しき運河が、早すぎる都市の発展のサイクルに乗り遅れたまま悪臭を放ちどす黒く横たわっていて、その運河の向こうに間もなくして中央駅の大きな駅舎が現われてきた。

聞くところによるとバンコク中央駅ホワランポーンの駅舎は、もとは飛行船の格納庫だったらしいのだが、そのドーム型の外貌は西欧のどこかの駅を思わせる実に格調高い建造物だ。トゥクトゥクは終点を目前にして最後の追い込みに一気に加速すると、ついに駅の車寄せに滑り込むようにして急停車した。


20バーツ紙幣を2枚。運転手に約束どおりのお金を手渡しそのまま丸い列柱のならぶ正面玄関から中へ入ると、コンコースはあいかわらずの人混みで溢れかえっていた。高いドーム型の天井いっぱいに行き交う人々の立てる物音が大きな残響となって跳ね返り、天窓のガラスを通して差し込む熱帯の日射が、ここに押し込められた熱気をさらに気怠く不快なものにしている。一瞬にして背中から汗が流れ出した。

ここバンコク中央駅はタイ全土へと伸びる鉄道の始発駅だ。ランナータイ王国の古都、北のチェンマイへと伸びる北線。カンボジアとの国境の街、東のアランヤープラテートへと伸びる東線。マレー半島を通り、南のシンガポールへと伸びる南線。そしてラオスとの国境の街、東北のノーンカイへと伸びる東北線。そのすべての列車がここバンコク中央駅から発車している。

またここは同時に、生まれ育った土地を離れ仕事を求めて首都へ流れ込む、出稼ぎ者にとっての終着駅でもあるのだ。したがって西も東も分からずに出てきた出稼ぎ者を専門に扱う仕事の斡旋人が始終うろついていると聞いた。もちろん中には途方に暮れている少年少女をつかまえ歓楽街へ売り飛ばす悪徳な斡旋人もいて、ここバンコク中央駅の雑踏の中には危うい複雑なドラマが交差しているのだ。

僕はそんなコンコースの雑踏を掻き分けすかさず前売り券売場へと向かった。この駅のチケット売場は、当日券は左手の壁際に、前売り券は右手の売店の奥の極めて地味な一角にある。前売り券売場は場所と同様、その造作もまた古びたカウンターに古びた木の長椅子といういたって地味な一室なのだが、熱気にむせ返るコンコースとはうって変わってここだけは別天地のように冷房がきいている。ふと入り口の脇を見ると欧米人らしきバックパッカーがふたり、地面に座り込み大きなバックパックにもたれかかって足を投げ出したまま、この灼熱のデルタの中でようやく楽園に辿り着いたといった顔をしてスヤスヤと眠りこけていた。


「フル?」

僕はさっそくカウンターの中の駅員に明朝のノーンカイまでの座席の件を告げると、彼は特によく調べもせず即座に一言「フル」とだけ答えた。

「満席なのか……」

確かに冷静に考えてみると、いくらなんでも今日の明日というのもいささか性急すぎた。移動手段の目まぐるしく発達した東京で暮らしていると一事が万事、性急になってしまっていけない。この国を旅する以上、この国の時間の流れというものを受け入れなくてはいけない。そう少し反省して僕は素直にノーンカイへ行くのは明後日の朝の列車にしようと思い直す。

ところがだ。なんと明後日の朝も満席だった。そして明々後日の朝も、またその次の日の朝も満席だったのだ。

「なんてことだ……」

休暇はどう転んでも10日間しかない。これでも溜まりに溜まった仕事を徹夜をして片付け、かなり苦労して掻き集めた10日間なのだ。11日目の朝には予定どおりデスクの上で仕事が待ち構えているはずだ。休暇の延長ができない以上、そう何日もこの国の時間の流れを受け入れようなんてうかれたことも言っていられない。

どうにかして、とにかく可能なかぎり早くノーンカイまで辿り着かなくてはとカウンターに首を突っ込みしつこく迫る僕に、駅員はまったくやっかいな客だといった表情で「ほら見てみろ」と、カウンターの上のカレンダーを指差した。見ると、カレンダーには赤く色分けされた日付が並んでいる。

その日付を目にした途端「しまった」と後悔した。実は僕はもう随分と前になるが、確かに一度この時期にバンコクに居合わせたことがあったのだ。そんなことなどすっかり忘れてしまっていた。

ソンクラーンだ。タイでは1年に3回の正月があり、1つ目が西暦の正月「ピーマイ」、2つ目が中国暦の正月「トゥルッチーン」、そして3つ目がタイ暦の正月「ソンクラーン」なのだが、この3つ目の正月が始まるのが4月13日だったのだ。

そしてこの国も他国の例にもれず、ソンクラーンの前後は長い正月休みになり、多くの人々が里帰りをする。したがって特に出稼ぎ者の多いバンコクでは、それぞれの故郷へ向け彼らの大移動が始まるのだ。よりによってやっかいな時期に休暇をとってしまった。


ちなみにソンクラーンは、サンスクリット語の太陽が双魚宮を出て白羊宮に入る日「サンクラーンタ」を語源としていて、もともとこれはインドの春分行事だったらしいのだが、この日には晴着を着込んで寺院へ出かけ、仏像に潅水し、旧年の恩を謝し、新年の幸多からんことを願う。そしてこの水はまたこういった仏像の他にも、僧や家族、友人、隣人などにも振り掛けられ、共に新年の寿ぎを祝うのだ。

確かにこのようにして心良き信徒たちが、清廉と初日に光り輝く仏像の頭に今日という日の清なる水をハラハラと振り掛ける有様は、ただそれを傍で見ているだけでも、なんだか自分までもが仏国土の恩寵に包まれているような気にもなる。ところがこのソンクラーンという正月は、そんなしめやかなものでは決してないのだ。

ちょうど僕はあの日も、例のごとくにトゥクトゥクを走らせオリエンタルへ向かっていた。それはまもなく豊穣の雨季をむかえようとするうだるように暑い朝だった。僕を乗せたトゥクトゥクは、とある狭い路地の奥でガクンとスピードを落とし、うらびれた家の建ち並ぶ角を曲がり始めた。僕はその時何気なく、角の家の戸口でバケツに水を汲んでいる女と目が合う。その瞬間だった。彼女は手に持ったバケツの水をいきなり僕めがけてぶちまけた。

「……」

一瞬にして僕はずぶ濡れに。唖然としている僕を見て女と運転手は笑い転げ、これが僕のソンクラーン初体験だった。

まったく冗談じゃない。しかしこれはまだまだほんのプロローグにすぎなかったのだ。道を歩けば水鉄砲を手にした子供たちに追いかけられ、立ち止まるとバケツや洗面器を持った人々に取り囲まれ「ハッピーニューイヤー」という掛け声とともに頭から水をぶっかけられる。やれやれ誰もいなくなったなと安心していると、水の入ったドラム缶を積んだトラックが傍を通りかかった瞬間にまたずぶ濡れに。

しかし雨季を目前にしたこの時期、日中の気温は40度近くにまでも昇り、濡れた衣服はまたたく間に乾いてしまう。この乱痴気騒ぎも、いよいよこれからむかえる農耕の季節の恵みの雨を願い、豊作を祈る彼らにとっての大切な儀式なのだ。

しかしいくら大切な儀式だとはいえ、そんな物騒なバンコクにいてまたずぶ濡れになるのはもうまっぴらごめんだった僕は、一刻も早くこの街を脱出しなくてはと思い立った。

「うかうかしてはいられない……」


   *


予期せずしてすでに起きてしまったこと。それがもはや時計の針を戻すこと以外にはなすすべがないのであれば、そんなことはとっとと忘れて先に進む。それが旅の鉄則だ。

旅は帰ることを大前提にしている。だから旅にはスタートがあり、そしてゴールがあるのだ。ちなみにスタートはまだしも、少なくとも旅のゴールは、その旅が自分にとってどういうものなのかという、その旅というものの捉え方によって違ってくる。たとえば旅は非日常だと考えると、旅は故郷へ帰り着かなくても、その旅の非日常が日常になった瞬間そこで旅は終わる。

すなわち、そもそも旅とはゴールにたどり着くことじゃなくてその過程なのだ。したがって旅はその過程、ようするにスタートからゴールまでという時間の制約がある。もちろん、そんなことなどまったく考えないというのもひとつの旅のスタイルだが、少なくとも僕は星の運行を仰ぎ見て風に身をまかせて漂泊するような、そんなカッコいい孤高の旅人じゃない。いたって現実的な男なのだ。日本を出国する前に予約しておいた、ラオスのヴィエンチャンからバンコクまでの飛行機には絶対に乗りたいし、もちろん今回の休暇の最終日、バンコクから成田までの飛行機に乗り遅れてしまえばケームオーバー、アウトだ。

そこで僕はすかさず旅の仕切り直しをすべく、前売り券売り場のベンチに座りバンコクの地図を広げた。列車がダメならバスがある。確かバンコクのバスターミナルは、その行き先によって何箇所かに分かれていたはずだ。そこで僕は目的地のノーンカイへと向かう、東北行きのバスターミナルの場所を地図で確認することにした。


するとそんな時だった。


なんだか少し騒がしくて何事かと思い目をやると、つい先ほどまで僕が首を突っ込んでいたカウンターに、同じように暑苦しく首を突っ込んでいるヤツがいた。真っ白なTシャツをチノパンの上にタックアウトし、素足にテバのサンダルをはいている。その目に映るもの、どれをとってみても何もかもが真新しい、そんな今朝、卵からかえったばかりの孵化したてのヒヨコみたいな生っ白い若造は、まず間違いなく日本人だなと思った。

地図を確認しながらしばらく彼らのやり取りを盗み聞きしていると、どうやら彼も僕と同じ状況のようだった。駅員に何度も「フル」と言われ、それでもめげずにカウンターにしがみついていて、駅員も、今日はまたどうしてこんなに無知で物分かりの悪い日本人が立て続けにやってくるんだといった、半分、呆れたような顔をしてウンザリしている。

「おい諦めろ。もう当分バンコクからは出られないぞ……」

東北行きのバスターミナルの場所を確認し終わった僕は、チケット売り場を出る際、彼の後ろを通りかかったついでに、あえて彼に聞こえるようにそう独り言を呟き通り過ぎた。

「ちょっと待ってください。それ、いったいどういう意味ですか?」


   *


僕はここ近年、トゥクトゥクの座席の奥からバンコクの通りを眺めているといつも、メーターを搭載しエアコンをきかせたタクシーの数がめっきり増えたなと思う。僕が初めてこの街に降り立った頃はこんなではなかった。確かにタクシーというものはあるにはあったが、メーターを搭載したタクシーなど皆無で、運賃は市場の買物と同じく運転手と乗客との駆け引きによって決まり、そしてその数もトゥクトゥクの数に比べて圧倒的に少なかった。

実はこの「バンコク」という地名は、湿原の樹木「マコーク」が生い茂る水辺の集落「バーン」を意味していて、その名の示す通り、ここはかつて鬱蒼とした熱帯の蘇生に覆われた広大なデルタだったのだ。

そんなデルタに生まれたこの街には、当初、豊かな水量を利用して運河「クロン」が網の目のようにめぐらされ、人々の生活は水によって結ばれていた。そしてやがてクロンは道「タノン」へと姿をかえ、タノンからまた小さな路地「ソイ」がきざまれると、人々の移動手段も、クロンをめぐる小舟からサムローへと移り変わっていく。サムローの「サム」とは数字の三、「ロー」とは車輪のことで、これは三輪の自転車に座席を取り付けた、いわゆる人力車だ。

しかしこの人間の筋力によって動く悠然とした乗り物は、この街の近代化に相応しからざる邪魔者として60年代初頭にはとうとう禁止されてしまうことになる。こうしていよいよこの街の人々の移動手段も、化石燃料によって動く高速な乗り物へと移り変わり、その後もとどまることを知らないこの街の近代化に比例し、高速な乗り物はさらに高速な乗り物へとどんどんと移り変り、今ではそれが行き場をなくし澱んだ運河の水のように、狭いアスファルトの道路の上にあふれかえり慢性的な渋滞と排気ガスによる大気汚染に悩まされているのだ。

「今日トゥクトゥクに乗るのはいったいこれで何度目なんだ……?」

生まれてこのかたタバコは一度たりとも口にくわえたことがない、そんな僕のキレイな肺が、きっとこのバンコクの汚染された空気で汚されてしまったに違いない。座席に吹き込む熱気と汗で肌にはりつく土埃をハンカチでぬぐいながら、ふとそう思った。

となりの座席では、ヒヨコが吹き込む午後の熱風に前髪を揺らしながら、目を細め眩しい通りの様子を眺めている。


「じゃあ、その正月が終わるまで、もう身動きできないってことですか?」

「まあ、そういうことだ」

バンコク中央駅のチケット売り場で後ろから追いかけてきた彼に、この国の正月の恐ろしさをかなり誇張して脅してやった。

「ということは、もう僕たちはこのままバンコクにいるしかないってことなんですね……?」

「いや。僕は列車がダメだったからバスでバンコクを出るよ。これからバスのチケットを買いにバスターミナルに行くんだ」

「エ〜っ、それってひとりだけズルいじゃないですか。僕も一緒に行っていいですか?」

というわけで、バンコク中央駅の前から彼とふたりトゥクトゥクに乗り込んだ。


   *


ところで彼はこの春、大学を卒業したばかりなんだそうだ。どうしてまた大学を卒業したばかりの彼が、よりによってこんな時期にネクタイにスーツ姿で新入社員をしていないで、こんなところで素足にサンダルをはいてウロウロしているのか。少し不思議だったが、あえてそれ以上のことは聞かなかった。

僕は余程のことがあって必要に迫られない限り、相手が自ら話さないことはあえてこちらからは聞かないことにしているのだ。話したくなったら黙っていても話すんだろうし、話さないということは話すほど重要なことではないのか、もしくは話したくない、触れられたくないことなのかもしれない。

だから僕は相手が自ら話さない限り、あえてこちらからは何も聞かない。それは僕の節度であって、僕なりの礼儀でもあり、また僕の自己防衛でもあるのだ。実は僕は月のように絶対に裏側を見せないで生きている。僕はそういう男なんだ。だから僕は自分の裏側を探られないために、相手の裏側も探らない。

彼とトゥクトゥクの後部座席でしばらく話をしていて「コイツなかなかいいヤツだ」と思ったのは、彼が僕のことを何も聞いてこなかったからだ。それは単に彼が僕にまったく興味がなかっただけなんだろうが、僕にとってこういう距離感は心地いい。

「これ、けっこうイケますよ」

彼がトゥクトゥクの後部座席で、手荒な運転にバランスを崩しながらバッグの中からチョコレートを取り出し、ひとつ僕にくれる。やはり思った通りなかなかいいヤツだ。


   *


我々を乗せたトゥクトゥクは、マンダリンオレンジのような熱帯の太陽がわずかに西の空に傾き始め、淀んだ息苦しい熱気が肌にまとわりつきだした、そんな気怠い午後のデルタの街をひたすら風をきって突っ走った。

実をいうと東奔西走した甲斐もなく、かなり期待していたバスという救世主にも時期が時期だけにあっけなく裏切られ、どの路線も満席だった。そこで最後の望みを託して我々が向かったのが航空会社のオフィスだったのだ。


「飛行機ですか……」

「もしかして、飛行機、怖いのか?」

「まさかそんなわけないじゃないですか。今回バイト代をかき集めて全財産を持ってきたけど、まだ旅が始まったばかりなのに今から飛行機だなんて、そんな贅沢しちゃっていいのかなって思って……」

「なるほど、そういうことか」

「でもここまで来たんだから、僕、航空会社のオフィスまでお供しますよ」

「おい、お供って……。じゃあ腹も空いてきたから、あとで一緒に晩飯でも食べようぜ。それで君も一食分お金が節約できるだろ?」

というわけでバスターミナルの前から彼とふたり、またトゥクトゥクに乗り込んだ。


「飛行機で行く」ということは、列車やバスの何倍もの運賃を支払うということで、その差がオフィスの様にもよくあらわれている。ここまでハンカチで汗をぬぐいながら駆け回っていた列車やバスのオフィスとは違って、そのお金のかかったオフィスの真っ白な内装が目に眩しかった。

僕はさっそくカウンターの中から微笑みかけているスタッフに「ノーンカイまで行きたい」と告げると、彼女はノーンカイには空港がないので近くのウドンターニーまで飛行機で行き、そこから鉄道かバスで向かうことになると説明しながら、おもむろにコンピューターを操作し始めた。

「フル?」

またしても「フル」だった。もう朝から嫌というほど耳にしているこの悪夢のような言葉に一瞬めまいがしたが、ここまでくると僕もそう簡単にあきらめるわけにはいかない。そこでバッグの中から地図を取り出してカウンターの上に広げ、ノーンカイの近くで飛行機の印のついているところを片っ端からチェックしていった。

しかし彼女の口から返ってくるのは依然として「フル」だった。「フル」という言葉を聞くたびにノーンカイからどんどんと遠ざかり、もう半ばあきらめかけてきたそんな時、タイの東の突端、ノーンカイからはるか遠くはなれたとある空港への一便にようやく空席がみつかった。しかもそれは当夜の便で、それに乗るにはこの場で即決し急いで空港へ駆け付けなければ間に合わない。

「ウボンラチャタニー?」

一度も聞いたことがない地名だった。でもソンクラーンが終わるまでバンコクに足止めをくらうことを免れるのであればもうどこでもいいという心境になっていた僕は、もちろんその場で即決した。


   *


ウォレットからクレジットカードを出して決済しようとしたその時、僕はふと思い立って、今その空席は何席あるのかたずねてみた。すると彼女はまたコンピューターを操作し、今のところ2席あると教えてくれる。

振り返ると彼はチョコレートを食べながら、ラックに並んでいるパンフレットを手に取ってながめていた。

「おい、飛行機の空席が今ちょうど2席ある。もしよかったら君も一緒に行くか。飛行機代は僕が出してやる。卒業祝いだと思えばいい」

「エっ、マジですか。でもそんなことしてもらっていいんですか。さっき会ったばかりなのに……」

「行くのか行かないのか早く決めろ。時間がない。この席を誰かが買ってしまったらアウトだ」

「行く、行きます。お供します!」

「おい、お供って……」


「ウボ、ン、ラ、チャ、タニーって、いったいどこですか?」

彼が航空券をシゲシゲと不思議そうに眺めながら聞いてきた。

「いやあ、実は僕も知らないんだ。ひとつだけ分かってることは、タイの東の端っこにあって、もうカンボジアの国境に近いってことだけだ」

「へ〜え、知らないところに行くって、なんだかワクワクしますね?」

彼のアーモンド型の目が輝いた。

「おい、そうだ。こんなところでモタモタしちゃあいられないぞ。飛行機に乗り遅れる」

そこで僕はウォレットの中から100バーツ紙幣を3枚出して彼に手渡した。

「よく聞くんだぞ。これからは時間との勝負だ。まずこのまま急いでホテルに戻って荷物をまとめてチェックアウトする。そしてすぐにタクシーに乗って空港へ向かうんだ。ドンムアン空港の国内線ターミナルだ。タクシーの運転手にちゃんと国内線だって言わないと、タクシーはまず間違いなく国際線ターミナルに行くから気をつけろ。もし国際線ターミナルに行ってしまったら、そんなところで迷子になってる時間はない。国際線と国内線のターミナルとはどこかの階に連絡通路があってつながってるから、その通路を探して急いで国内線ターミナルに来るんだ。この300バーツはタクシー代だ。間違ってもトゥクトゥクなんかに乗るんじゃねえぞ。バンコク市内から空港までは、いつもだとタクシーで高速道路を飛ばして1時間くらいで着くけど、ラッシュアワーに巻き込まれると一時間じゃあ着かない。とにかく飛行機の搭乗時刻までに空港に辿り着くんだ」

「了解しました。隊長!」

「おい、その隊長はよせ……」


それからは目も回る忙しさだった。航空会社のオフィスの前からまたトゥクトゥクに乗り込み急いでホテルへ戻り、部屋の中に散らかしていたものをバッグの中に押し込んでチェックアウトするやいなや、今度はホテルの前から慌ててタクシーに乗り込み高速道路を突っ走って空港へ駆け付け、こうしてなんとか無事に彼とふたり飛行機に飛び乗ったというわけなのだ。


   *


真っ赤なネオン管が輝いていた。


我々を乗せたタイ航空030便は、定刻を40分ほど過ぎたところでようやく着陸体勢に入った。もっとも、ほとんどタイムテーブルの時刻通りに発着することのないこの国の飛行機にとって、40分程度の延着はまずは定刻と呼べる時刻なのかもしれない。それはサンドイッチとカップケーキという簡単な機内食の後の、食後のコーヒーの冷める間もないあっという間の飛行時間だった。

やがて我々は機内のスピーカーから伝い始めたアナウンスに従い、テーブルを折りたたみ、倒したシートをもとの位置にもどし、それぞれ着陸の準備を始める。乗客はおそらく全員がタイ人だ。日本人はまず間違いなく我々だけだった。

窓に額を押しつけ見下ろすと、眼下にはすっかりと夜の闇の底に沈んでしまった真っ暗な大地の中に、朱い、小さな街の明かりが砕けた埋み火のように散らばっている。機内から見下ろす時の、あのバンコクの夜の胸騒ぎするような輝きとは違い、その疎らな光の瞬きにはどこか人の温かみさえ感じた。

ウボンラチャタニー。僕はこの眼下に広がる街のことを、この名前以外、何も知らない。


ネオン管のその眩い光の連なりは、滑走路のすべてを覆いつくす気怠い熱帯の夜空の一角に、空港の名前を明々と刻印していた。

「ここは国際空港なのか……?」

よく目をこらして見てみるとそのネオン管の連なりは、まずタイ文字で「ターアカートサヤーン・ウボンラチャタニー」と空港の名前を記した後、続いて英文字で確かに「ウボンラチャターニー・インターナショナルエアポート」と記している。しかしこのタイの一地方空港がいったいどこの外国へ向け「国際」の扉を開いているのか、僕は知らない。

ふと機内を見ると、シートベルト着用のサインが消えるまでなど待ってはられないといった様子で、乗客たちが早々と手荷物を抱えて狭い通路に集まり始めている。我々もそんな彼らに押し出されるようにして飛行機を降りた。


地方空港の何の期待もいだかせない、ごくありふれた地味な空港ターミナル。高い天井に点る、夜には眩しすぎる朱い照明がロビー全体をくまなく照らし出し、そこにザワザワと行き交う人混みの喧騒をその明かりの下に押し込めている。ふと壁際に目をやると、学芸会の横断幕のようなキラキラとしたモールの縁取りがついた大きな看板が掛かっていて、よく見てみるとそこには派手な蛍光色で「ハッビーニューイヤー」と書かれていた。

その時ふと、僕はいつかこんな正月の空港を確かに見たことがあったと思った。そう、あれはヴェトナムのホーチミン・タンソンニャット空港だ。


僕が初めてホーチミン・タンソンニャット空港に降り立ったのは、中国暦の正月「テト」を目前にした1月の暑く気怠い夕暮のことだった。

広漠とした滑走路の脇には、軍用機を格納した幾棟ものドックが夕闇せまる薄明の中に重苦しく浮か上がり、その不気味な威圧感に思わずゾクッとした。ここは確かにあのヴェトナム戦争の国なんだ。そんな当たり前の事実をまず改めて思い知らされる。

そして、その夕闇せまるホーチミン・タンソンニャット空港の人混みの中には、彼女がいたのだ。僕はバンコクの空港待合室から、ずっと彼女のことばかりを見ていた。

古くから中国の強い影響下にあったヴェトナム人にとって、「正月」と言えばやはりそれは中国暦の正月「テト」を指し、ホーチミン行きの飛行機を待つバンコクの空港待合室は、里帰りらしき多くのヴェトナム人で溢れかえっていた。いくつもの手荷物をだいじそうに抱えた男たちに、真新しい洋服を着込みめかし込んだ女たち。それぞれに、それぞれの幸福感と緊張感を漂わせた待合室の中を行き交う人々の中で、ひときわ目立っていたのがなんといっても彼女だった。

「すっげえ!」

最初、空港のチェックインカウンターで彼女の姿を見かけた時から、僕の目は彼女に釘づけになっていた。すみずみまで丁寧になされた化粧も、きちんとセットされた髪型も、手に持った少しくたびれたルイ・ヴィトンのバッグも、待合室に溢れている多くの女たちと比べ、特にこれといって目を引くということはなかったのだが、なんと彼女はミンクのコートを着ていたのだ。

テトは1年を335日とする太陰暦によるため、毎年、太陽暦の正月とのズレが生じる。だが熱帯のこの国ではいくら太陰暦の正月が太陽暦の正月とズレたところで、突然それが吹雪の正月になるはずもない。あの年のテトは1月下旬。1月とはいってもバンコクの平均気温はおよそ27度、東京の8月の平均気温に等しい。これはそれから向かうホーチミンにしてもしかりで、ミンクのコートなど論外だ。

もしかすると彼女は、どこか遠くの寒い国で成功を掴み取った華々しき凱旋帰国だったのかもしれない。なんだか熱帯の女のパワーにアッパーカットをくらわされたような衝撃だったが、僕の目にも、そんな彼女の姿はとても眩しく光り輝いて映った。

ミンクのコートは、タンソンニャットの簡素な空港ターミナルに入ると、僕の前でスイスイとイミグレーションを通り抜け、ゲートの外で歓声を上げ待ち構えていた出迎えの人々に抱きかかえられるようにして、ホーチミンの夕闇の中に消えていった……。


ウボンラチャタニー空港の到着ロビーに着くと、僕はまず夜の寝場所の確保にとりかかった。

いつも僕は旅に出る際、バッグの中には地図と、必要な情報の箇所だけを破いたガイドブックのページを数枚入れている。でも今回は、よりによってこんなところに来るはめになるとは予想もしていなかったから、ガイドブックはヴィエンチャンとその対岸の街ノーンカイのページしかない。ようするに僕がこの街について持ち得ている情報は「ウボンラチャタニー」という名前以外、何もなかったのだ。

そこで僕はリムジンカウンターのスタッフに「ウボンラチャタニーホテルへ行きたい」と告げた。もちろん僕はそんなホテルがこの街にあるのかどうかなどまったく知らない。でもどこの街でも一軒くらい街の名前のついたホテルはありそうだ。

「ロングレーンウボン?」

すると彼女はちょっと聞き取れなかったといった表情で、ウボンホテルなのかと聞き返してきた。そこで僕が「もちろん!」と答えると、彼女はウボンホテルまで運賃は70バーツかかると説明しながらクーポンらしきものにサラサラと何かを書き込み、その半券を傍で我々の一部始終を覗き込んでいた男にひょいと手渡した。

どうやらうまくいった。でもうまくいったとはいっても、そのウボンホテルというのがこの街に存在していることが分かっただけで、それがいったいどんな代物なのかはまったく分からない。確かにビルマのマンダレーにあったマンダレーホテルは街随一の高級ホテルだったが、ヴェトナムのダナンにあったダナンホテルはお世辞にも高級などと呼べるようなホテルではなかった。まあウボンホテルも「ホテル」と名のつくからには屋根とベッドはあるはずだ。


そして我々を乗せたリムジンが停車したのは、なんとも殺風景な街角だった。

路肩に降り、走り抜ける車もほとんどない薄暗く閑散とした通りの向こうに目をやると、そこには柵で仕切られた公園なのか、それともただの空き地なのか判然としない暗がりが広がっていて、振り返ると、背後には見窄らしい空き家のような真っ暗な建物が連なっている。あたり一面、何もかもが暗かった。

その連なる真っ暗な建物の間の、折り重なるように車が駐車された狭い路地の中を、リムジンの運転手が我々のバッグを手に提げ「早く来い」といった素ぶりをしてひとりスタスタと歩き始めた。急いで後を追った。


ウボンホテルはその狭い路地の突き当たりの、薄暗い表通りから奥まったさらに薄暗い一角にひっそりと建っていた。時代の流れに置き去りにされたままとことん落ちぶれるでもなく、建てられた当時からの余力だけでなんとか今までここに在り続けたといった感じの、妙な存在感と哀感を漂わせた古ぼけたホテルだった。

「なるほど、これか……」

入口のガラス戸は開けっ放しになっていた。これはなにも入口のガラス戸だけに限ったことではなく、ロビーにあるガラス戸はすべて開けっ放しになっている。ようするにわざわざご丁寧に入口を通らずとも、気が向けば出入りはどこからでもできるといった具合なのだ。

そんな薄暗い、いたって開放的で通気性のいいロビーは実に広々としていた。その広さはロビーの造作の殺風景さによってよりいっそう強調されていて、かつてのどこかの社会主義国の集会所のようにまるで色気がない。

入口のすぐ左手の脇を見ると、そこにはこのホテルの小さな建築模型がガラスケースに入れられ、忘れ去られた街の英雄の遺品のように埃をかぶりありがたく据えられている。さらに右手の壁には、この街の巨大な地図が色褪せた街頭看板のように貼り付いていて、その地図の前にはまた、倒産した百貨店からのお下がりといった感じの年代物の大きなガラスの陳列棚がひとつ据えられていた。中を覗いてみると、そこには歯ブラシやシャンプーといった宿泊客が買い求めそうなものが品数少なく、あたかも配給品のように寒々しく並べられている。


そして我々をロビーで出迎えてくれたのはボーイではなく、なんとイヌだった。

白い、綿埃のような小イヌが我々を見るなり、まるで縄張りに侵入してきた天敵を威嚇するかのように二声、三声、牙を剥き出し声をはり上げ、その後はまた何もなかったかのようにロビーの中を歩き回っている。

客に向かって牙を剥くとはまったく生意気なイヌだとにらみ返していると、そのイヌの声に驚き慌ててボーイが起きてきた。そう、ボーイは今の今まで百貨店からのお下がりのガラスの陳列棚と壁との隙間で、小さな木の丸椅子に腰掛け居眠りしていたのだ。

こうして我々のバッグはリムジンの運転手からボーイへとバトンのように手渡され、僕は運転手にお礼を言ってチップを手渡すと、彼はニッコリとほほ笑み表通りに停車してあるリムジンへと戻っていった。


ロビーで小イヌとヒヨコかじゃれている……。

そんなヤツらのことは無視して、僕はさっそく目の前のレセプションカウンターでチェックインした。カウンターに出されたお決まりの書類に、お決まりの事項を書き込む。

「ティアンヤイ?」

「ローレンチャマイ?」

部屋代はエアコンなしで250バーツ、エアコンありで350バーツ。僕はすかさずエアコンありの部屋代350バーツを前金で支払う。

もっともバックパックを背負ってアジアを歩き回っていた頃は、エアコンのついた部屋に泊まるような者は弱虫だと思っていた。その当時そんな僕がもっぱら「好んで」泊まっていたのはドミトリーだった。ドミトリーというのは、広い部屋の中に整然と並べられているベッドのひとつを、1泊分の宿泊代を支払い占拠するというシステムの宿泊施設だ。

たとえばビルマのラングーンのスーレパゴダの近くにあったゲストハウスは、一生、陽の光というものが差し込むことのない薄暗い屍体安置所みたいな広い部屋の中に、金属のパイプベッドがあたかもコンクリートの床に錆びついてしまったかのようにいくつも並べられていた。一応トイレは水洗だった。でも水を流すレバーは壊れていて、毎回タンクの中に腕を突っ込み流した。もちろんシャワーもあった。でもそのコンクリート造りのシャワー室はどこもかしこも緑のコケだらけで、また天井に点る裸電球の周りには太ったヤモリがドッサリくっついていて、毎回それがいつ背中に落ちてくるのかビクビクしながらシャワーを浴びた。そして毎夜、何か食べ物を置いておくと、朝になると決まってネズミに食い散らかされていた。

こんなふうにして、アジアを旅するからにはアジアのすべてを受け入れなくてはいけないなんていう尊大なスローガンをかかげ、暑くて寝苦しい熱帯の夜に汗を流し、実はそんな自分のことを僕は少し尊敬していたのだ。

でも今は、扇風機が熱気をかき混ぜる暑苦しい部屋と、エアコンが冷気を振りまく涼しい部屋があって、あえて扇風機の暑苦しい部屋を選択する理由はない。やせ我慢は若さゆえの美学なのだ。

すると鍵がひとつカウンターに出された。部屋番号は403。よく見るとどういうわけか鍵には、部屋の番号が手彫りされた木製の大きなボーリングのピンがぶら下がっていた。


ロビーにはエレベーターの横にガラス張りの狭い小部屋がひとつあって、そこはさしずめホテルのスーベニアショップといったところだろうか。しかし店員はいない。そしてここもロビーの配給品のガラスケースと似たりよったりで、商品などほとんどなくて店内はまるで夜逃げの後のようにえらく淋しく、営業しているのかどうかも定かではない。またスーベニアショップの前にはレストランのものらしきドアもあるにはあるのだが、なぜかここも真っ暗で閉めきられたままだった。

またもやそんなことごとに一々感心していると、突然エレベーターのドアがプスッと何とも頼りない音を立てて開き、ボーイと3人モソモソと狭いエレベーターの中に乗り込んだ。その時だった。そういえば他の宿泊客に誰にも会っていないことに気付く。ロビーにいたのはボーイとイヌだけだったし、エレベーターの中にも誰も乗ってなかった。もしかすると、このホテルの今夜の宿泊客は我々だけなんだろうかと思いながらふとエレベーターの操作パネルに目をやると、なんとこのホテルは9階建てだった。

「9階建てに、我々ふたりだけなのか……?」

その想像は、再びエレベーターのドアが頼りない音を立てて開いた途端に、まんざらただの妄想ではないのかもしれないと思う。

意味もなくだだひたすら広い廊下。その廊下の天井に取り付けられている電灯は、必要最小限度のものを残してほとんどが消されている。暗く、まるで廃校前の夜の学校のように廊下はヒタヒタと静まり返っていて、ボーイと3人で歩いていても我々以外の人の気配はまるでないのだ。

そんな暗く閑散とした廊下の、整然と連なる客室の奥から3番目のドアにボーイは鍵を差し込んだ。コツンと、鍵に付けられていたボーリングのピンが堅いドアにぶつかる音が、広い廊下の暗がりの奥に遠くこだました。


客室もまさに予想を裏切らない古めかしさだった。

間取りはどこにでもある在り来りなもので、ドアを開けるとまず左手に作り付けの洋服戸棚があり、右手にはバスルームがある。木製の低く簡素なベッドは同じ造りの低いサイドテーブルとともに壁際に。その反対側の壁際には作り付けの鏡とデスクの前に椅子が一脚そえられていて、また奥の重いカーテンが垂れ下がった窓際には、低いコーヒーテーブルを挟んで二脚の低い椅子が、これまた低い荷物台とともに並んでいた。

そしてこの客室もロビーや廊下と同様、実に広々としていてまるで色気がない。ぐるりと見回してみてもどれもこれもが古色を帯びた時代遅れの調度品ばかりで何ひとつとして華やかなものは目に入らない。ただひとつ、煤けた壁に高々と取り付けられている日本製の真っ白なエアコンだけが、どこかからの借り物のように眩しく光り輝いていた。まあ早い話、部屋もかなりボロいのだ。

ボーイは客室の奥の荷物台に我々のバッグを置くと、さっそくエアコンのスイッチを入れ不慣れな手つきで温度調節をしてくれる。そしてここに照明のスイッチがあり、ここにバスルームがあるなどといった分かり切った説明を2〜3した後、僕の差し出したチップを礼儀正しく受け取り出ていった。



「やれやれ……」

ドアが閉まった途端、我々はベッドにゴロンと転がり、一度、大きく背伸びをした。ベッドは少し硬いが決して嫌な硬さじゃない。殺風景な部屋もこうして寝転がって見渡してみると広々としていて気持ち良く、また古ぼけた地味な調度品も見ようによっては落ち着いていて心和む。行き当たりばったりで辿り着いたにしてはまずは上々の快適さだった。

そこで我々は何はさておき、まずシャワーを浴びた。

ドアの脇にあるバスルームは白いタイル張りになっていて、さぞ開設当初は美しかっただろうと思われるが、今ではタイルが白かったことがかえって災いして、すべてが薄汚れなおいっそう古びて見える。

ようするにバスルームもかなりボロくお世辞にも綺麗だなどとは言えないが、やはりこと広さだけはロビーと同様、実に広々としていて、奥にはゆったりとした大きなバスタブが据えられていた。そしてそのバスタブにはちゃんと赤と青の印のついたカランがひとつずつ取り付けられている。それを見て少なからず期待したが、予想通り期待はあっけなく裏切られ、どちらを回してみても水しか出なかった。

しかたなく僕は少し勇気を振り絞って冷たい水で一気にシャワーを浴びた。実は僕は1年中プールで泳いでいるにもかかわらず、水のシャワーほど嫌いなものはないのだが、アジアを旅しているとそんな我儘も言っていられない。


なんとか無事にシャワーを浴び終えた我々は、またベッドの上に転がった。

テレビもなく、ラジオもなく、冷蔵庫もなく、微かに音を立てているものといえば、例の眩しく光り輝いている日本製のエアコンだけだという、なんとも静かな部屋だ。やはりここは首都バンコックからは、はるか遠く彼方の世界なのだ。

ふとそんなことを思いながらベッドに転がったままゴロゴロしていると、目まぐるしく慌ただしかった1日の疲れが出たのか、あやうくそのまま眠ってしまいそうになり寸前のところで起き上がった。まだ眠ってしまうわけにはいかないのだ。これから先の旅のことを考えておかなくてはいけない。

「おい、起きろ。作戦会議をするぞ」

腰にバスタオルを巻いたままベッドに転がりウトウトと眠りかけていた彼を起こし、僕はおもむろにバッグの中から地図を取り出してベッドの上に広げた。

「まずバンコク。つぎに僕が列車で向かうはずだったヴィエンチャンの対岸の街ノーンカイ。そしてここがウボンラチャタニーだ」

地図で確認してみるとその3つの地点は、地図の上でちようど三角形を描いていた。

「それにしても、よくここまで脱線してしまったものですね?」

「そうだな。とにかく僕は最終的にはラオスのヴィエンチャンに行きたいんだ。そういえば君はいったいどこに行くつもりだったんだ?」

「僕はどこでもいいんですよ。もともと何も決めてなかったんで。でもとりあえずひとりでウロウロしてるよりも、隊長について行った方がなんだかおもしろそうな気がして……」

「おい、隊長って……」

そこで僕はしばらく地図と格闘した結果、ここからヴィエンチャンの対岸の街ノーンカイまでたどり着くにはやはり手段はひとつしかないという結論に達した。

「じゃあこうしよう。ここウボンラチャタニーには確かに鉄道の駅がある。でもウボンラチャタニーは終点なんだ。したがって列車に乗っても行き先は一方向、バンコクだ。ただその途中のナコンラーチャシマーでバンコクからノーンカイへ向かう路線と交わってはいるけど、この路線の混み具合は今日もう嫌というほど思い知らされてる。またここウボンラチャタニーには空港もある。でもさっき空港で確認したところ、ここからノーンカイの最寄りの空港ウドンターニーまでの就航はなかった、そしていくらウボンラチャタニーの空港が国際空港だとはいっても、少なくともラオスのヴィエンチャンまでの就航はないだろう。となると残すはひとつだ。ローカルバスで行くしかない。この地図を見るとここウボンラチャタニーからノーンカイまでは国道212号線っていうのが通ってる。だからここからその国道をローカルバスで北上しよう。でもその国道がどんな道で、またウボンラチャタニーからノーンカイまでローカルバスを乗り継いで、いったいどれくらいの時間がかかるのかまったく想像もつかないけどな」

「了解。でもそういうのおもしろそうですね。それに僕ひとりじゃあ絶対にそんなことする勇気ないし、今日バンコクで隊長と出会わなかったら、僕は一生そんな旅をすることはないんだろうなって思うし……」

また彼のアーモンド型の目が輝いた。

「そういえばさっきチェックインしてる時、どうしてふたりで笑ってたんですか?」

「ア〜っ、あれか。部屋はひとつだって言ったら、ベッドはダブルベットかって聞かれたんだ」

「じゃあ僕たち、恋人どうしだって思われたってことですか?」

「だから、冗談だろアイツは僕の彼氏じゃないぞって言ってやったのさ」

「それって傑作!」


   *


ナコンパノムの朝はメコンの対岸からやってきた。

この川岸の小さなホテルを包み込んでいた熱帯の夜空が微かに移ろい始めると、今まで気怠い夜の闇の底に沈んでいた地上のありとあらゆるものが刻々と移り変わる薄明の中、徐々に本来の陰影を取り戻し始める。そしてやがてメコンの対岸、朝靄に遠くかすんだ地平の彼方が眩ゆい輝きによって一気に引き裂かれると、どこからともなくいっせいに湧き立つ無数の鳥たちの囀りとともに、熱帯の大地が大きく呼吸し始めた。

ふと隣のベッドを見ると、彼はまだグッスリ眠ってた。僕は壁際のデスクの椅子を窓辺に置き、ひとりナコンパノムの朝の、目覚めたばかりの大河メコンの流れに見入った……。


「おい、降りるぞ!」

「エ〜っ、降りるんですか。ちょ、ちょっと待ってください……」

2日前、ウボンラーチャタニーからバスで国道212号線を北上している時、彼とふたり急いでバッグをかかえてバスを降りた。そこが、ここナコンパノムだったのだ。

その日の朝、我々は目覚し時計の不愉快な音で跳ね起きると、いそいそと身支度をして部屋を出た。階下に降りると、ほとんど電気の消されている暗いロビーのガラス戸は相変わらずすべて開けっ放しになっていて、夜明け前の青白い薄明りとともに、気の早い熱帯の鳥たちの囀りがロビーの暗がりの中に響いていた。

ロビーに人影はない。百貨店の陳列棚と壁との隙間にも、レセプションカウンターの中にも誰もいなかった。もちろんあの生意気なイヌの姿もどこにもない。しかたなくレセプションカウンターのど真ん中に鍵にぶら下がっていたボーリングのピンを立て、そのまま黙ってホテルを出た。

外は前夜の熱気が嘘のように涼しく、あたりの朦朧とした薄暗さもあって、まるで夢の続きでも見ているようだった。しかしそれでも湿度だけは朝っぱらからしっかりと高くて、そんな肌にまとわりつく湿気の不快さによって、また昨日と何も変わらない、うだるように暑い今日が始まろうとしているという現実に嫌が上でも引き戻されるのだった。

 僕は最後に改めてホテルの外観を見上げ、なんとも哀愁に満ちたホテルだったなと思いながら、彼とふたり、夜露に濡れた車の並ぶ小さな駐車場から狭い路地を抜け表通りへ出た。


すると幸い、トゥクトゥクが1台、路肩の脇に停車していた。運転手は後部座席に腰掛け、ひとり暇そうにタバコを吹かしている。夜明け前のこんな朝早くから、しかもこんな所で待っていて客なんて来るんだろうかと、一瞬、素朴な疑問が頭を横切ったが、そんなことはどうでもいい。

実を言うと早起きしたものの、こんな朝早くに、しかもこんな所で、バスターミナルまで行く乗り物が拾えるだろうかと少し心配していたのだ。それにもちろん、はたしてそのバスターミナルというものがこの街にあるのか、あるとしたらいったいこの街のどこにあるんだろうかということもだ。

少しホッとして、トゥクトゥクの運転手に「バスターミナルに行きたい」と告げると、すかさず「20バーツ」だという返答があり商談は成立した。そして彼とふたり後部座席に乗り込むと、トゥクトゥクはいきなりブリブリと派手なエンジン音を薄明の街に轟かせ発車した。


トゥクトゥクが走り始めて驚いたのは、このウボンラチャタニーという街が想像以上に大きな街だったということだ。

前夜、暗闇の中で通った空港からホテルまでの道は、確かにどこにでもある地方の、どこにでもある夜の淋しい市街地といった感じだったが、我々を乗せたトゥクトゥクは刻々と東の果てから赤らみ始めた大空の下、間もなくして真っすぐに伸びる広く美しい大通りにさしかかった。

大通りは低い植栽の施された中央分離帯によって規律正しく区画されていて、そこにはまた伝統文様の透かしをあしらった実に気のきいた街灯が、朝焼けの空高く連々と連なっている。トゥクトゥクはそんな大通りを、いよいよ目に見えて薄らぎ始めた夜の余韻を吹き消さんばかりの勢いで、ブリブリとひた走った。


「おい、これを着ろ」

やはりいくら熱帯とはいえ、このボロい車体がぶっ壊れそうな猛スピードの中で吹き込む早朝の突風に曝されていると、Tシャツ一枚だけだと少し肌寒い気がする。両足で踏張り、座席から振り落とされないようにしてバッグの中からブルゾンを取り出し、隣で震えている彼に手渡した。

「ありがとうございます。熱帯だっていうのに朝ってこんなに寒いんですね。実は僕、油断して上着を持って来てなかった……」

と、そんなことを話していると、トゥクトゥクは突然グルリと向きを変えて大きく反対車線にまわり込んだかと思うと、いきなり歩道の脇に急停車した。

その衝撃であやうく座席から転がり落ちるところだったが、見ると早くもバスターミナルに到着したらしい。目の前にバスが1台停車していた。しかしそのバス以外には、ここを「バスターミナル」だと呼べるようなものは何ひとつとしてなく、ただの街外れといった光景だった。

とは言え目の前に停車しているバスは、僕がここに来るまでに思い描いていたものよりも、はるかに立派なバスだった。広く大きな窓にグリーンとホワイトに塗り分けられたボディ。車底には荷物を入れるハッチがありエアコンも付いているようだ。前方に回って見てみるとフロントガラスの中のプレートには、タイ文字で「ムクダハン」と行き先が書かれていた。そこでバックの中から地図を取り出して国道212号線を目で辿ってみると、確かに途中にムクダハンという街の名前があった。

バスのチケットは、どうやらすぐ脇の建物の1階で売っているらしい。一見、町工場の倉庫のように見えなくもないが、薄暗い入り口付近には待ち合い用の古びた木製のベンチがあり、その奥に同じくらい古びた木製のカウンターがひとつ据えられていた。

さっそくカウンターの中を覗いてみると、人当たりのよさそうな係員が笑顔で対応してくれる。ウボンラチャタニーからそのムクダハンまでの運賃は75バーツなんだそうだ。彼女は僕の下手なタイ語を注意深く聞き取り、手元の座席表に何かサラサラと記入した後、チケットに座席番号を書き込みにこやかに手渡してくれた。

その時、座席表の最後列に色分けされた箇所があることに気付き、ついでに「これは何か?」と指差して尋ねてみると「ホンナーム」という答えが返ってきた。「ホン」とは部屋、「ナーム」とは水。もちろんこれは風呂ではなく、そう、ホンナームとはトイレのことだ。なかなか快適なバス旅行になりそうだ。


まずはここまで順調に事が運んでいるが、あまりにも順調すぎて、時計を見るとバスの発車時刻までにはまだ30分以上もあった。そこで我々はバスの発車時刻までの間ここで朝食をとることにした。幸運にも朝食は目の前で調達できる。

「目の前」というのはなにも通りの向こう側などではなくて、このバスのチケット売場の脇のことだ。入り口付近に、ブリキの缶で風防を作った小さな焜炉や炭火の入った大きなドラム缶を並べ、オバさんがひとり眉間にシワをよせせっせと何かを焼いている。また側に置かれた氷の入ったクーラーボックスの中には、コーラやジュース、ミネラルウォーターといった冷たい飲み物も用意されていた。

ブリキの缶の風防の中の小さな焜炉では、竹串に刺した肉などを焼いている。そして炭火の入った大きなドラム缶の上には金網、と言うよりは鉄格子がのせられていて、ここでは2種類のものを焼いていた。

まず「カオチー」。これはタイの東北お決まりのファストフードで、蒸したモチ米を丸い円板状にかため、それにナンプラーで味をつけた溶き卵を塗って炭火でこんがりと焼いた、手っ取り早く言うと焼きおにぎり、いや焼きTKGのようなものだ。

つぎに「カオニャオピン」。これも手っ取り早く言えば焼きチマキということになのだが、これを「チマキ」と表現していいものかどうかは少し悩む。だが形状といい味といい、やはり一番近いのはチマキだ。

おそらく一口に「チマキ」と言っても、我々日本人は2種類のものを思い描くに違いない。中国料理の炊き込みご飯の入ったチマキと、端午の節句の甘い葛の入ったチマキだ。ではここで焼いているチマキはどちらに近いのかと言えば、答えはどちらにも遠からず、近からずといった感じなのだ。

形状は中国料理のチマキのように、ずんぐりとした三角形をしている。だが、ここで使われている葉は笹の葉ではなくバナナの葉で、包んだ葉の端は小さく短い竹串で止めてある。そして味は端午の節句のチマキのように甘い。実はバナナの葉の中に包まれているのは、甘いココナッツミルクで蒸したモチ米で、これをバナナの葉ごと炭火でこんがりと焼き上げるのだ。

眉間にシワをよせ、暑苦しい火のそばで次から次へと忙しく焼いているオバさんの「何にするのか早く決めなさい」とでも言いたげな目付きに追い立てられ、結局、僕はカオチーとカオニャオピンを両方ふたつずつ買い、さっそくベンチに腰掛け彼とふたり食べ始めた。

カオチーは表面にぬられたナンプラー味の溶き玉子が焦げてカリカリとしていて香ばしく、中はしっかりとモチ米のモチっとした食感が残っていて美味しい。

カオニャオピンは焦げて茶色くなったバナナの葉をむくと、甘いココナッツミルク味のモチ米はネバネバと柔らかいモチ状になっていて、中にはまたバナナのような、またイモのようなものが入っている。バナナか、それともイモなのか、そんなことは一目瞭然だろと言われそうだが、実は焼いたバナナの味は焼いたイモの味ととてもよく似ているのだ。でも僕にとってはとりあえずバナナでもイモでもそんなことはどっちでもよくて、これも文句なく美味しい。


「そういえば隊長って、トゥクトゥクに乗る時、値切らないんですか?」

彼がカオチーを夢中になって食べながら聞いてきた。

「するよ」

「でもさっきしなかったじゃないですか。僕、タイでトゥクトゥクに乗る時は、まず半額から運賃の交渉をしろって教えられて来たんで」

「20バーツだったからな。おそらく首都バンコクとウボンラチャタニーのトゥクトゥクの運賃の相場は、明らかに違ってると思う。そう考えても20バーツは安いなって思ったんだ」

「それでしなかった?」

「そう。こんなことを言うと、お前みたいなヤツが物価を上げてるんだって非難されそうだけど、僕はね、外国人の値段っていうものがあっていいって思ってるんだ」

「外国人の値段?」

「だって、もしも僕が東京でトゥクトゥクの運転手をやってて、外貨をたんまり持った浮かれた外国人がやってきたら、2倍も、3倍も運賃をふっかけてやると思う」

「確かに言えてる。それ、僕もやります」

あっというまにカオチーを食べ終わり、カオニャオピンにカブりつきながらそう言って彼が笑う。

「中にはね、料金を交渉で決めるアジアの人たちは、値切ったり値切られたりするのを楽しんでるんだなんてことを言う、自称、旅の上級者もいる。でもね、それはとんでもない間違いだ。だってみんなフラフラと浮かれて遊んでる旅行者なんかじゃなくて、家族をやしなったり、生活のために働いてるんだから」

「言われてみるとそうですね」

「もちろん、明らかに法外な料金をふっかけられることもある。そういう時は僕も徹底的に値切る。でもね、自分で納得できる程度の、少し高いかなって思う程度の料金なら、僕はあえて値切らないことにしてるんだ。それが僕の外国人の値段なのさ」

「なるほど」

「僕にとっての旅の楽しさって、やはり人との出会いなんだ。それは誰かと恋に落ちたりするようなそんな甘い出会いだけじゃなくて、市場でバナナを売ってるオバさんとの出会いも、トゥクトゥクの運転手のオジサンとの出会いも、僕は旅先でのすべての出会いを大切にしたいんだ。料金の交渉も、やり取りしている内にお互いの信頼感が生まれると、いいところで落ち着くもんだ。だから僕は頭ごなしに無闇に値切り倒して、お互いに嫌な思いをしたくないんだ。それによって失うものって、きっとお金よりも大きいんだって僕は思う」

「ア〜っ、それってすごくいい考えですね。僕、忘れないでおこう」

そんなことを言いながら彼がカオニャオピンをたいらげた。

「それにしてもこれマジ美味しかったですね。僕もうひとつ買ってきます。隊長もいります?」

「いや、僕はもういいよ。ありがとう。でも、おい。くれぐれも、こんなもん値切るんじゃねえぞ!」

「ハ〜イ」

というわけで、彼がまたふたつ目のカオチーとカオニャオピンをあっという間にたいらげ、時計を見るとバスの発車時刻までなんとまだ20分もあった。


パンツのポケットからチケットを取り出し、そこになぐり書きされている実に読みずらい数字をなんとか解読すると、我々の座席は乗車口を入ってすぐの最前列だった。網棚にバッグを押し込み座席に腰掛けると、間もなくして運転手と車掌が乗り込みいよいよバスは発車した。ほぼ定刻通りの発車だった。

「思えば僕、こんなふうにバスに乗るのって、たぶん修学旅行の時以来だ」

「僕は時間の制約さえなけりゃ、バスは2番目に好きな移動手段だ」

「なんでですか?」

「バスは街の中を走る乗り物だ。ようするにバスは、そこに暮らしてる人たちの日常の中を走ってるわけだからな。バスが停車するたびに乗り降りする人たちの日常に触れられる。それが楽しいんだ」

「なるほど。じゃあ隊長が1番好きな移動手段って、いったい何なんですか?」

「それはもちろん決まってるじゃないか。徒歩さ」

「徒歩ですか?」

また彼に笑われた。

 こうして我々は、まだ街全体が微かに夜明け前の青白い光の余韻につつまれている頃、予定通りウボンラチャタニーの街中にあったバス乗り場からバスに乗り込み、国道二一二号線を北上し始めた。


バスは走り出してすぐ大きくUターンすると、そのまま三叉路を一気に右折する。熱帯の太陽はとうとう東の彼方に姿を現わし、決して派手とは言えないウボンラチャタニーの地味な街角を、何か真新しい晴れやかな色合いに染め分けていた。

そんな車窓に流れ始めた早朝の輝きに染まる街の様子を眺めていると、改めてこのウボンラチャタニーという街の大きさに驚かされた。つい先程、右折した三叉路の突き当たりにあったのは確かに大学だった。通りすがりに一瞬「カレッジ」という英文字が目に入った。

この国に初めて大学が設立されたのは1917年のことだ。これは時の王ラーマ5世の命によって王室内に設けられた官史養成学校を前身としていて、その偉大なる王の名を取り「チュラロンコン大学」と名付けられた。また1934年にはチュラロンコン大学から政治、法学部が独立しタマサート大学が設立され、さらに1942年には同じくチュラロンコン大学から医学部が独立しマヒドン大学が設立されるなど、近代国家タイの進歩と発展と共に数々の大学が設立されていくことになる。そして1964年、北方の古都チェンマイにチェンマイ大学が設立されたのを皮切りに、それまで首都バンコックに限られていた大学の設立はいよいよ地方へと広がっていったのだ。

しかし「地方」とは言っても、当然それはある程度の規模を有した都市のことであって、やはりウボンラチャタニーは空港といい、大学といい、僕の予想をはるかに上回る大都市だったようだ。


車掌はバスの発車とともに職務を開始した。乗車口に立ちドアを開け、道路脇の通行人にむかって声をはり上げている。ようするにこのバスは客が手を挙げたその場所が停留所というわけで、どこでも乗り降り自由なのだ。そんな努力の甲斐あってか、そうこうしている内に3人、新たな乗客が増えた。

彼はその後もしばらく乗車口に立ち自分の職務を遂行していたのだが、やがてもう新たな客の乗車が望めなくなったのか、声をはり上げるのをやめてドアを閉めると、おもむろに頭上に取り付けられているテープレコーダーにカセットテープを入れプレイボタンを押した。そして車内に流れてきたのは、お決まりのタイのポップスだった。

この国のバスにはだいたいこういった音響機器が搭載されていて、これは運転手や車掌の趣味なのか、いつでも決まって車内に流れてくるのは歯に沁みるように甘いタイのポップスだ。バスの車窓に流れるタイの風景には、やはりタイのポップスがよく似合う。

運転手はそんな甘いメロディーにドップリと浸りながら、早朝の国道212号線を北上すべくいよいよ一気に加速し始めた。その時ふと何気なく運転席のスピードメーターを見ると、なぜかスピードメーターの針は、終始、時速10キロを指したままだった。


かくしてバスがウボンラチャタニーを発ちしばらくすると、車窓に流れる風景の中に、自動車や電化製品といった外国企業の大きなロゴが貼り付いた、真新しいコンクリート造りの工場らしき建物が目につき始める。まさにどこにでもある地方都市の、どこにでもある郊外といった風景が、広く美しい舗装道路に沿ってどこまでも続いていて、「平均化」という名の近代化がこの国でも確実に進行していることを知る。

しかしそんな風景は見る見るうちにはるか後方へと遠ざかり、バスがさらに加速するにつれて都市の気配は急速に薄らいでいった。そして車掌がカセットテープをA面からB面へと裏返しにする頃には、もう車窓の風景はすっかり変わってしまった。

このあたりにはもはや都市の気配など完璧に消え失せ、右も、左も、どこもかしこも乾ききった大地が遠く地平線の彼方まで広がっている。そんな光景もせいぜい1時間もすると見飽きてしまい、ふと隣を見ると彼はすでに窓に寄りかかったまま完全に熟睡していた。


その延々と繰り返される眩しい大空と乾いた大地という単調極まりない光景が、あたかもエンドレステープのようにいつ終わるともなく続いていたそんな時だった。僕は急いで熟睡していた彼を叩き起こし、ふたりバッグをかかえてバスを降りた。

「隊長、ここ、いったいどこなんですか?」

「どこなんだろうな。僕も知らないんだ」

「ヒェ〜っ、どこだか知らないのにバスを降りたんですか?」

「そうだ」

「なんでまた突然こんな何もないところで。ほら、バスもう行っちゃいましたよお……」

「あれだ」

「あれって?」

彼が僕の指差す方角に振り返った。

「メコンが流れてるんだ」

そう、メコンが流れていた。バスの車窓に繰り返されていた乾いた大地が突然終わり、大河メコンが視界に現れた。だから咄嗟にここで降りなくてはと思い、僕は急いで彼を叩き起こしてバスを止めた。

「オ〜っ、あれがメコンなんですか。ちょっとやられたって感じだなあ……」

「じゃあ、とりあえずこのままこの川岸の通りを歩いてみよう。向こうの方に街並みが見える」

「了解!」


こうして彼とふたり大河メコンを眺めながら川岸の通りを歩いていて、間もなくして辿り着いたのがこのホテル、リヴァーインだった。

「おい、今夜はここに泊まるぞ」

「エ〜っ、泊まるぞって、ここですかあ。なんでまた、よりによってこんなボロいホテルに?」

それは3階建てのモルタル作りの小さなホテルだった。外壁のモルタルは長年の風雨とカビでどす黒く変色していて、3階から1階まで取り付けられている鉄の外階段は、すでに塗装も剥げ落ち完全に錆びついていて今にも崩れそうだった。

「名前だよ」

「名前ですかあ?」

「そう。メコンの川岸に建つホテルの名前がリヴァーインだなんて、あまりにも出来すぎてるじゃないか。だからどうしても今夜はここに泊まらなくちゃ」

「それってもうかなり意味不明だけど、隊長って、意外にもロマンチストなんですねえ……」

「ロマンチスト?」

彼が妙な顔をして笑っている。

「おい、意外にもってどういう意味だ?」


ロビーに人影はなかつた。

奥を見ると古めかしいレセプションカウンターがひとつあるものの、不気味なまでに静まりかえっていて人のいた気配すらない。脇の鉄の格子扉も近い過去に閉められた形跡はなく、漆喰の天井の埃をかぶった扇風機といい、何もかもがいつの頃から忽然と錆付いてしまったかのように動きを止めていて、ただどこからともなく吹き込んでくる、メコンの川面を渡る湿り気をおびた生温かい午後の微風だけが、南国の陽に灼かれ少しほてり始めた僕の肌をかすめ去った。

そんなガランとした誰もいないロビーで、僕は何度も大声をはり上げたのだがいっこうに応答はない。もしかするとこれはすでに廃業してしまったホテルの残骸だったのかと、そろそろあきらめかけてきた頃、突然、背後からドタバタと階段を掛け降りる物音がした。振り返ると、やけに歯の白い16〜17の少年が、息を切らせ立っていた。

そうされることに少し戸惑いをおぼえるほど嬉々とした、その歯の白い少年に案内されて知ったのだが、やはりロビーのレセプションカウンターは過去の記憶の産物として据え置かれていただけで、実際のレセプションカウンターは玄関脇の狭い階段を上がった2階にあった。かといってそれが特に新しいわけではなく、1階のカウンターとほとんど大差はない。

どうやら客は我々だけのようだった。舞台の書き割りのような、薄っぺらい板張りの狭い廊下の左右に小さな部屋がいくつかあり、どの部屋もきれいにベッドメイクされたままドアも窓も開けっ放しになっていて、誰もいない部屋の奥で窓辺に下がる薄汚れたカーテンだけが真昼のメコンの川風に気怠く揺れていた。

そして部屋はといえば、まず左手に建て付けの悪い引き戸の洋服戸棚があり、右手のドアを開けると、そこはただビニールのシャワーカーテンで仕切られているだけのバスタブのないバスルームになっている。簡素な木のベッドの側には、簡素なサイドテーブルの上に簡素なランプがひとつ。また壁際のデスクには小学校から盗んできたような木の椅子が1脚そえられていて、何もかもが古臭く、何もかもがボロい。しかしテレビもなく、ラジオなく、冷蔵庫もなかったが、意外にも壁には年代物のエアコンが取り付けられていた。

ベッドの薄っぺらなマットレスには、一応、洗濯はされているようだが糊のきいていない使い込まれたシーツが敷かれていて、そこに彼がバッグを胸に抱えたまま居心地悪そうに腰をおろし、少し引きつったような顔をして笑いながら部屋の中を見渡している。するとまた歯の白い少年が嬉々としてやって来て、ペットボトルの水を2本と蚊取り線香をベッドのサイドテーブルの上に置くと、年代物のエアコンのスイッチを入れてくれた。どうやらエアコンは飾りではなかったようだ。

そして部屋の奥、バラの花模様の趣味の悪い薄汚れたカーテンを開き窓を開けた途端、この部屋の様相は一変する。鬱蒼とみどり生い茂る草叢の向こう、熱帯の真昼の輝きにかすむ大地をなめるようにして、大河メコンがその輝きを水面に揺らめく小波に照り返しながら、はるか遠く上流から流れ着いた水を静かに下流へと押し流していた。それはまさに、メコンの川岸に建つホテルだからこそ得られた絶景だった……。


   *


メコンはまさに大河だ。


総全長4620キロメートル。これは世界第11位、アジアでは中国の揚子江に次ぐ第2位を誇る長さだ。そしてかつてこの長い長い軌跡には、アンコールやラーンサーンを始めとする数々の王国が興亡を繰り返し、その燦然たる栄華の残香を今もなおここに生きる人々の血の中にとどめている。

ではこの大河、メコンはいったいどこから流れ出しているのか?

地図を開きその壮大な軌跡を遡ってみると、流れはやがてチベットのタングラ山脈の東部北側、標高4968キロメートルの湿地ルプサパスに行き着く。しかし意外なことに、こういった地理的事実が世界に知られるようになったのは実に新しいことなのだ。ようするにメコンの流れは永らく深い靄に包まれたまま、人々の誤伝と誤信の中で迷走していたのだ。


〈中央アジア奥地の、夢の大河メコンの水源ついに発見!〉


こんな見出しがアメリカの新聞の紙面を飾ったのは、なんと1995年4月のことだった。この年の前年の9月17日の夕刻、フランスとイギリスの合同調査隊がチベットの湿地ルプサパスに辿り着き、そこをメコンの水源と断定したというのだ。


そんな山間の湿地で産声を上げた小さな流れは、チベットの雪嶺から沁み出す雪解け水を集め、また同じような生まれたての小さな流れと交わりを繰り返しながら東南へ向かい、中国雲南の深い渓谷へと流れ込む。

ちなみにこの大河は最初から「メコン」とは呼ばれているわけではない。水源からチベットのチャンドウあたりまでは「折曲川」と呼ばれ、そして中国雲南でさらにその名を「瀾滄江」と変えるのだ。

瀾滄江は雲南で、森林に降り注ぐ豊富な雨水を抱き込み刻一刻と水量を増し、深く渓谷をえぐりながらひたすら南へ南へと滑走し続ける。そしてついに瀾滄江がその名を「メコン」と変えビルマの北端をかすめ去ると、そこに広がるのはかのゴールデントライアングルだ。「ゴールデントライアングル」すなわち黄金の三角地帯というこの豪奢な名は、かつて世界屈指のアヘンの産地に与えられたものだ。


そんな怪しいケシの花揺らぐ一帯を通り抜けると、メコンは突然、大きく東へと向きを変えてラオスの深山の間に間を巡り、やがてみどり濃き河岸段丘に開いた美しい古都ルアンプラバンに辿り着く。

ところがメコンは、この風光明媚な古都を通り過ぎ大きく南へと向きを変えると、間もなくしてその流れを激変させることになる。このあたりから取り巻く景色は次第に峻嶺迫る深い山峡となり、今まで洋々と流れていた水は一気にその狭間になだれ込み、立ちはだかる岩礁に激流が砕け、逆巻く浅瀬が船底をえぐる、メコンは船の命運を分ける航行の難所をむかえるのだ。

その昔この難所に遭遇した数少ないヨーロッパ人の残した記録を見てみると、荒れ狂う激流に揉まれ、川面に突き出した沈没船の残骸や、川岸にうごめくワニやトラの影に怯えつつと、まさに決死の思いでの航行だったようだ。


しかしメコンのこの気紛れは長続きはしない。流れが再び大きく東へと向きを変え、左岸に現在の首都ヴィエンチャンの街並みが現れる頃には、それまでの奔流は嘘のように静まりかえっている。

そしてメコンはいよいよここから、遠く北方にアンナン山脈を望みつつおよそ900キロメートル、ラオスとタイの国土に境界線を引きながらインドシナ半島をゆるやかに蛇行し始める。

ここまでくると川幅も飛躍的に広くなり、ヴィエンチャンあたりでほぼ800メートル、今、僕の目の前に広がるナコンパノムあたりでほぼ1キロメートルと、メコンはようやく大河としての風格を揺るぎないものとするのだ。

 しかしメコンはこの眠るような、悠然とした流れのままはるか太平洋の河口まで辿り着くわけではない。眠りは早くもラオス南端で醒まされることになる。その兆しはここナコンパノムを過ぎたあたりから徐々に現れ、しばらくすると両岸は次第に断崖となって流れに迫り、メコンは再び川幅を狭めていく。

そしてここでまたもやメコンは、古来「ケマラートの急瀬」として世にその名が知られていた、岩礁と急流が荒れ狂う航行の難所をむかえるのだ。しかしこの急瀬もまだほんの兆しでしかなく、とうとうメコンはラオス南端に差し掛ったところで「コーンの大瀑布」となって一気に炸裂する。

コーンの大瀑布は実に混沌とした滝だ。ここにきて川幅を十数キロメートルにまでも膨れ上がらせたメコンは、立ちはだかる無数の岩塊よって幾筋もの分流へと引き裂かれ、その千々とした流れがあるところでは幅900メートルにわたって両翼を広げ、巨大な滝と化し20メートルの高処から水煙を巻き上げ落下し、またあるところでは複雑に入り乱れた無数の段状の滝を作り、その濁流が白波を立てなだれ落ちるのだ。


こうしてメコンはラオス南端で一気に炸裂すると、流れはそのままカンボジアへと流れ込んでいく。そしてこの大瀑布を最後にしてようやく静まりかえるかに思えたメコンは、そう思ったのも束の間、行く手にはまたケマラートの急瀬と共に世にその名が知られていた「サンボールの急瀬」が出現する。サンボールの急瀬は実に激烈かつ大規模なもので、乾季にはいたるところに岩塊が露出し、雨季には激流が怒涛となって荒れ狂い、それがなんと37キロメートルにもわたり続くのだ。

しかしこの激烈な急瀬を切り抜けると、メコンはついにトゲを抜かれた龍のように静まりかえる。左岸にはかつて「カンボジア語とラオ語とインドネシア語が出会う場所」と呼ばれたクラチェの街並みが広がり、ここから太平洋の河口まではなんと500トン近い船舶の航行が可能になるのだ。そしてクラチェを過ぎ「チャム人の住む街」コンポンチャムに入ると、いよいよそこから下流域がかの「メコンデルタ」だ。

このあたりは約6000年前、沖積世初期には海底だったらしい。そこにメコンが上流からもたらす肥沃な土砂が幾千年もの間、止めどなく流れ込み、49520平方キロメートルという広大なデルタが生まれたのだ。そしてそのデルタの北端にメコンに寄り添うようにして広がる美しい街並み、それがカンボジアの首都プノンペンだ。

メコンはそんなプノンペンの美しき街並みをさらに美しく彩りながら緩やかに流れ去り、肥沃なデルタの中を南へ南へと流れ続け、いよいよ最後の国ヴェトナムへと到達する。

そしてメコンは、ここでさらに気紛れな氾濫を繰り返しデルタに畏怖と豊穣をもたらしながらひたすら南進を続ける内に、また幾筋かの流れに枝分かれし始める。こうしてついに煌めく「九尾の龍」と化したメコンは、その濡れた銀鱗を光り輝かせ大きくひとうねりすると、とうとう眩ゆい熱帯の河口から蕩々と太平洋の大海原へと流れ出すのだ。

雪深きチベットの山間で産声を上げた小さな流れが、中国、ビルマ、ラオス、タイ、カンボジア、ヴェトナムと、6ヶ国に及ぶはるか4620キロメートルの長く劇的な旅を終え太平洋へ流れ出るまでに、雨季で3週間、乾季でなんと3ヵ月もの時を要するという。


メコンはまさに大河だ。


   *


この日の朝は、陽が高くなり始めたというのに一向に起きる気配のない彼を叩き起こし、ホテルのダイニングで遅い朝飯を食べた。

我々は、もう手を伸ばせは川岸の草叢に手が届きそうな、そんなメコンの輝きが眩しく照り返る窓辺のテーブルに向かい合った。テーブルには大きく開け放たれた窓の外から、心地いい真昼の風がサヤサヤと吹き込んでくる。その風には微かに、川岸から湧き立つ青い草叢の匂いの入り交じった、生温かい湿り気をおびた川の匂いがした。

我々は、もう手を伸ばせは川岸の草叢に手が届きそうな、そんなメコンの輝きが照り返る眩しい窓辺のテーブルに向かい合った。テーブルには大きく開け放たれた窓の外から、心地いい真昼の風がサヤサヤと吹き込んでくる。その風には、川岸の草むらから湧き立つ、水際の土が熱帯の陽に灼かれて乾き、それがメコンの水面を渡る風によって土埃となって巻き上げられたような、そんな乾いた日向の土の匂いと、生温かい湿り気をおびた川の匂いがした。

ところで、このホテルのダイニングは「リヴァーパレス」と言うのだそうだ。手渡されたメニューの表紙にそう書かれていた。その名前を知ってやっと、まがい物のペルシャ絨毯が床に敷かれ、暑苦しい真紅のビロードのカーテンが窓に掛けられている謎がとけた。実はここは宮殿だったのだ。

しかしこの宮殿のメニューには、コンチネンタルブレックファーストもアメリカンブレックファーストもなくて、我々は「カオトムムーサップ」を食べた。カオトムの「カオ」はご飯、「トム」は煮るを意味していて、これはご飯を鶏ガラなどのスープで煮込んだ一種のお粥で、タイではお決まりのブレックアァーストメニューなのだ。ちなみに「ムーサップ」は豚のひき肉のことだが、カオトムは豚のひき肉に限らず、鶏肉やモツ、魚介類といったように、それぞれ好みの食材をトッピングして食べる。目覚めたばかりの朝の胃袋にやさしい、辛くないタイ料理だ。

そしてこの後は、また部屋に戻ってベッドに転がりゴロゴロしていたのだが、いくら予定も計画も何もない旅だとはいえ、こんなことばかりしてもいられないと思い立ち、彼とふたり急いで身支度をしてホテルを出た。すると熱帯の真昼の強烈な日差しが、すでに通りを眩しく白と黒のコントラストに灼きつくしていた。


ホテルのあるメコンの川岸には、狭い通りをはさんで低い家屋が軒を連ねていて、そこに小さな商店や食堂などが点在している。おそらくかつて街がメコンに向かって開いていた当時、この川岸の通りが街のメインストリートだったのだろう。

食堂は通りのメコン側にある。それはまず間違いなくメコンを眺めながら飲み食いさせるためだ。そんな店先に掛かる看板をよく見てみると、タイ文字で「プラーブク」と書かれていた。プラーブクはなんでもここナコンパノムの名物らしく、それはメコンからあがるナマズのことだ。ナマズは世界的にみても実に種類の豊富な魚で、メコンには全長3メートル体重300キロのメコンオオナマズが生息している。メコンオオナマズは、メスのみが下流のカンボジアあたりから上流の雲南あたりの間を回遊していることが分かっていて、古来、人々から聖霊の魚と崇められてきたらしい。

そしてこの眩しい通りに連なる軒下の日陰では、毛あしの短い貧相な犬たちが、水を吸ったボロ雑巾のようにデレンと地面に延びきり昼寝をむさぼっていた。プヨプヨとした柔らかい腹を人目にさらして無防備極まりなく、己れの身がおかれているこの世というものを、何ひとつとして疑うことなく信頼しきっている。

タイの野良イヌは実に見窄らしいのだ。イヌとしての精悍さというものがまるで感じられない。確かにもともと寒い国で生まれた彼らにとって、熱帯の暑さはもう昼寝でもしていないとやってられないといった感じなのかもしれない。そんな何ともなげやりな顔をして日がな1日中、涼しい日陰でひたすら眠りこけている。

そんなイヌとは逆にタイのネコはとても気品がある。実はかつて「シャム」と呼ばれていたこの国は、ある高名なネコの原産国なのだ。そう、そのネコとはもちろん「シャムネコ」だ。

シャムネコはその昔、シャムの宮殿や僧院の中で門外不出の秘宝として大切に飼われていた由緒正しきネコだったのだ。またこのネコは飼い主に吉兆をもたらすと信じられていて、アユタヤ時代の稿本『サマットコーイ』には、シャムネコの17種の毛並みの模様がそれぞれどのような吉兆をもたらすのか、絵入りで詳細に記されている。

そんなシャムネコの存在がヨーロッパに知られるようになったのは、ここシャムを訪れたイギリスの外交官が帰国の途につく際、シャム王室から1匹のネコを贈られたことが発端らしい。

そして1871年、ロンドンのクリスタルパレスで行なわれたワールドキャットショーでこのネコが初めて世界に紹介されると、シャムネコの一大ブームが到来するのだ。1884年にはイギリスでシャムネコのクラブが組織され、アンナ・パブロワやジャン・コクトーも、この気品に満ちたネコの愛好家だったことはよく知られている。

しかし日本を見る限り、そのブームはもうすっかり消え失せ流行遅れになってしまったシャムネコは、今では世間からすでにその名前すら忘れ去られてしまった感がある。そう感じるとこういった愛玩動物も、所詮、我々人間の気まぐれな欲望を満たすための所有物のひとつでしかなのかもしれない。

とにかく、この国に「シャムネコ」という名前があって「シャムイヌ」という名前がないように、イヌどもに比べネコたちはみなとても気高く威厳に満ちているのだ。そしてタイで一番、威厳に満ちた生き物といえば、それは何といってもヤモリだ。ヤモリの威厳は決して水牛にも引けをとらない。


そういえば、なんでもここタイの東北ではイヌを食べると聞いた。イヌを食べるなどと言うと、とんでもないことのように思うかもしれないが、アジアではけっこうよく食べられている。特に四本足は机以外なんでも食べると言われている中国では、イヌはかなり古くから食べられていて、清の李鴻章という政治家もイギリスに大使として赴いた際、イギリスの首相から贈られたシェパードを喜んで食べてしまったそうだ。

そんな中国では、かつてイヌはブタや魚よりも上等な食物とされていたらしい。『淮南子』には、ある男がイヌをご馳走してくれるという誘いに大喜びして出掛け、たらふく食べた後で実はその肉はサルだったと聞かされ、気持ち悪くてすっかり吐いてしまったなどという話が記されている。

ちなみに明の時代の料理書によると、イヌの中でも一番上等なのは黄イヌで、黒イヌがこれに次ぎ、赤イヌは一番下等とされている。そこで改めて路地の日陰の中で昼寝をしているイヌどもを見てみると、なんだかあの毛色はどことなく薄汚れた黄色に見えなくもない。でも、あんなだらしない貧相でぐうたらなイヌを食べるくらいなら、僕はよろこんでサルを食べよう。


川岸の通りは、しばらくするとヴェトナム時計塔に突き当たった。ヴェトナム時計塔はその名の示すごとく、この街へやってきたヴェトナム移民によって建てられたものだ。そう時計塔に張り付いているプレートに書いてあった。落ち着いたオーク色の細かいタイル貼りの塔の、アラビア数字を配したクラシックな文字盤の大時計がメコンの街に静かに時を刻んでいる。

川岸の通りはここで、このままメコンに寄り添って続く通りと、街中へと向かう通りとの二股に分かれている。そこで我々はメコンと別れ街中へと向きを変えた。

センターラインのない平和な舗装道路。その両脇には近代化という時の流れの中で行き当たりばったりで建てられたといった感じの建物が、散り積もった土埃に薄汚れて連なっていた。1階はだいたい色気のない小さな商店や、まず目的がない限り足を踏み入れることのない町工場の事務所のようなものになっていて、そんなどこにでもある平凡な街の通りを時折、のろまな自動車がお互いぶつからないよう最低限の配慮をしながら行き交っている。

我々はそんな真昼の静かな通りを、熱帯の強烈な日差しを避けて黒い日陰をぬい、時折、路地を意味もなく適当にまがりながら歩いているうちに、背後の川の気配は次第に薄らいでいき、突然、片側一車線の少し大きな通りに出た。

アピバンバンチャイ通りだった。この通りは、メコンから直角にのびる2本の通り、ポアンケウ通りとフェンナコン通りとの間にある。おそらくナコンパノムのメインストリートなのだろう。通りの両側には、川岸の通りとは明らかに違う少し立派な建物が連なっていて、銀行にオフィス、ガソリンスタンド、そしてセブンイレブンもあった。

そこで我々はセブンイレブンで冷たいドリンクを買い、店先に置かれていたコンクリートのベンチに腰掛けひと息ついた。もちろんバンコクとは比べものにならないが、ここにはそれなりの人通りがあって、そんな人通りの向こうに大きな屋根の建物が見えた。市場だ。

「これを飲んだら、あの市場を探検しよう」

「隊長、市場って探検なんですか?」

彼が笑って聞き返してきた。

「旅に出て新たな街に足を踏み入れ、まず最初に行くべきところはなんといっても市場だ。そしてそれは確かに探検なんだ」

「へ〜え、そうなんですか?」

僕はクラッシュした氷がたくさん入ったコーラを。彼は氷はお腹をこわしそうだから怖いと言ってピンクミルクを。

ピンクミルクはタイ語で「ノムチョンブー」と言い、「ノム」はミルク、「チョンブー」はピンクという意味だ。ようするにこれはピンク色をした牛乳のことで、日本でよく目にするイチゴ牛乳のようなものだが、タイのピンクミルクはイチゴではなくて「サラ」というヤシの実のフレーバーなのだ。この実は英語で「スネークヘッド」と呼ばれていて、蛇の鱗のような赤褐色の堅い皮に覆われている。タイにはこういった甘い、バニラ味やチョコレート味といったフレーバーミルクがたくさんあるのだ。

「生物にとって食べるってことは、まさに生きるってことの根幹なわけだから、食欲は生物にとって最も重要な欲望なのさ。人間も例外じゃない。だから市場はおもしろいんだ。ところで食欲は人間の三大欲望のひとつだって言われてるけど、あとふたつって何だと思う?」

「三大欲望ですか。まずひとつ目が食欲だってことは、ふたつ目はたぶん性欲だ。じゃあみっつ目って何だろう。物欲じゃあなさそうだしなあ?」

「睡眠欲らしいんだよな。その理由は、生命の維持に必要不可欠だからなんだって言われてるけど、ちょっと変だと思わないか?」

「そうですよね。生命の維持って言われれば食欲はまだしも、性欲はない人だっていて、我々人間にとって性欲は生きるうえで必要不可欠な欲望かって言われれば、そうだとも言い切れない。あえて必要不可欠だって言い張るとすれば、それは人口減少に関わる政治的な問題でしかない。でも睡眠は確かに生命の維持には必要不可欠だけど、そもそも睡眠って欲望なのかなあ?」

「そうだよな。睡眠欲を入れるんなら、当然、排泄欲だって入れなきゃな」

「確かに。睡眠は無意識のうちに眠っちゃうけど、排泄は無意識のうちに排泄しちゃったらヤバいですもんね。そう考えると排泄は間違いなく欲望だ」

こんなくだらない話しをして笑いながら、我々はベンチをはなれ市場の探検にのり出した。


タイではかつて、野菜や魚を担いで人が集まればそこが市場「タラート」となり、やがて市場を中心に街が生まれ、またその街のことをかつて「タラート」と呼ぶことすらあった。ナコンパノムの市場は、生花や菓子、ジュースに缶詰、調味料といった雑多なものがひしめく入口を抜け、肋骨のような大きな屋根に覆われた薄暗い屋内に入ると、そこには食肉の売場が広がっていた。

売場とはいっても、ちょうど腰の高さほどある簡素なコンクリートの台が並んでいるだけで、その上に商う様々な肉と、時には商う主もが座り込み通路を行き交う客を引くのだ。しかしもう昼も過ぎてしまった今となってはほとんど商いを終えていて、台に敷かれた段ボールには肉汁と血だけがまだ湿り気をおびたまま染み込んでいた。しかしそれは肉が新鮮だったからなのだろう、悪臭はまったくしない。

そんな食肉の売り場を素通りし、奥のプラスチックのピンクやグリーンが入り乱れた日用雑貨の並ぶ一角を通り抜けて屋外に出ると、そこにはまた地面に所狭しと商う物を並べて売り声飛び交う、熱帯の市場の活気が眩しい真昼のテントの下に広がっていた。

商い主はほとんどが女性だ。ドカリと地面に座り込み、時折、熱気で生気を失いかけた野菜の葉先や、空気に触れ乾き始めた魚の鱗にパラパラと水をかけ商品の見栄えにも多少気を遣いながら、ごく気楽に、長い一日をテントの下で商いと談笑に明け暮れている。

この屋外のテントの下で商うのは主に生鮮食料だ。中でもやはり野菜と果物の種類と量は極めて豊富で、タイ在来の野菜や華僑の流入によってもたらされた中国野菜、そして近代になって持ち込まれた、日本でもごく普通に食べらている外国原産の野菜や果物も並んでいる。

インド原産のナス、キュウリ、コショウ。西アジア原産のニンニク、ニラ、ネギ、玉ネギ、ニンジン。イラン原産のホウレンソウ。ヨーロッパ原産のキャベツ、カリフラワー、ブロッコリー、アスパラガス。地中海原産のコリアンダー。アフリカ原産のスイカ、タマリンド。中南米原産のトウモロコシ、カボチャ、サツマイモ、インゲン、パパイヤ。南米原産のトウガラシ、ピーマン、ジャガイモ、トマト、パイナップル、等々。もちろんこれらは、それぞれの故国から風に吹かれ波に揺られ、はるばるここまで辿り着いたのではない。人が動き、食が動いたのだ。

またこういった野菜や果物にまじって、ハーブやスパイスなどが目に付くのもここインドシナあたりの市場の特徴だ。タイではハーブはもちろん、トウガラシやコショウを始めとするスパイスも生で使う。したがってあの独特の、清々しい辛味が生まれるのだ。これはスパイスを特に多用するインド料理が、そのほとんどを乾燥品におっているところと大きく異なる点だ。

ちなみにタイ語でスパイスのことを「クルアンテート」と言い、これは「外国の食品」といった意味でトウガラシやコショウなどのことは指さない。クルアンテートが指すのは、インド系やマレー系の人々が使う乾燥させたスパイスで、タイの人々にとってトウガラシやコショウはあくまでも野菜「パク」なのだ。


一説によると人間の食は肉食から始まったと言われているが、インドシナに点在する先史時代の遺跡からも、ブタ、ウシ、ヤギ、シカ、クマ、トラ、ゾウ、サイ、サル、イヌ、ネズミ、リス、ヤマアラシ、コウモリなどの哺乳類から、カメ、ヘビ、トカゲ、ワニなどの爬虫類、カエルなどの両棲類、鳥類、魚貝類といった様々な動物の遺存物が出土している。ナコンパノムの市場にもゾウやトラの肉はないものの、野菜や果物に見劣りしない実に豊富な食肉が並んでいた。

まずお馴染みのブタやウシは、頭から尻尾まで各パーツごとに分類され、バナナの葉や新聞紙の上に並べられている。

肉食から始まったと言われている人間の食はまた、他の野性肉食獣の場合と同じく内蔵を食べることが目的であって、肉の部分を食べるのは副次的なことだったようだ。内蔵は肉にくらべて柔らかく、中でも肝臓は特別な価値を持っていた。そしてその副次的だった肉の中でも、全般的に固い筋肉よりも脂肪を食べることが主だったらしい。

その例にもれずナコンパノムの市場には、肝臓や胃、腸、脳や血といったものが、アルマイトの洗面器に入れられ並んでいた。

ちなみにここでいうウシというのは、すべてが我々が思い描くところのあの牛の肉ではなくて、一見して見分けはつかないが、もしかすると水牛の肉だったりするのかもしれない。肉の傍に、大きな水牛の頭と剥いだ黒い皮が紐で結わえて転がっていた。

ニワトリは生きたまま歩けないように両足を紐で縛られ、前を素通りする人間たちをキョロキョロと眺めているかと思えば、別の場所では、絞めてキレイに羽をむしられ力なく首を垂れていたりする。一方ニワトリもウシやブタのように各パーツに切り分けられてもいて、トサカや足など各パーツごと分類されたものが山盛りにされていた。

アヒルもまたしかり。ニワトリと同様、両足を紐で縛られクワクワと騒がしく鳴いていて、この他にもここにはネズミやモグラ、ウサギにリス、モモンガにコウモリ、そしてインコまでいた。


そんな騒がしい一角のすぐ側には、いくつもの大きな金盥が並んでいて、メコンの賜である魚が、わずかな水の中で乾き始めた背鰭にすべてを観念したといった様子で、ただプカプカと口だけを動かしている。

魚はこのあたりの人々にとって最も大切な蛋白源で、かつてそれはブタやウシ、ニワトリといった肉よりも勝っていた。たとえば古くからタイでは食事をすることを「キンカーオ、キンプラー」と言ったらしい。「キン」は食べる、「カーオ」は米、「プラー」は魚のことで、すなわち彼らにとって食事をするということは、米を食べ、そして魚を食べることだったのだ。

メコンの賜といえば、それはやはり淡水魚だ。ナコンパノムの市場に並んでいたのは、主にコイやフナ、ウナギ、ナマズ、ライギョといった種のもので、そんな見慣れた魚にまじって、日本ではまずアクアショップでしかお目に掛かることのないロイヤルナイフを始めとする珍しい熱帯魚も並んでいた。もちろんエビやカニといった甲殻類の種類の豊富さは言うまでもない。

コイやフナなどは「プラーラー」とか「プラーソム」などと言って、塩やニンニクなどを丹念に揉み込み、それを米飯に混ぜ重石をして発酵させ保存食とすることもある。もちろん保存食としては天日で干したシンプルな干物もあった。

また金盥の中にはカエルもいた。カエルはこのあたりの人々にとってごく一般的な蛋白源で、大きさ別に分けられ、生きたまま金盥の中で往生際悪く被せられた網に向かって飛び跳ねているカエルもいれば、数匹を竹串で刺し天日で干したカエルの干物もあった。ヘビやカメ、トカゲもいた。トカゲは大小様々種類も豊富で、紐でもって後ろ手に縛られたオオトカゲもいた。


蛋白源といえば何と言っても虫を忘れてはいけない。このあたりでは特に、虫は重要な食材なのだ。

ちなみにこのあたりで食べられている虫は、バッタ、コオロギ、カマキリ、ナナフシ、セミ、トンボ、ガ、カイコ、ハチ、ハエ、ゴキブリ、コガネムシ、カミキリムシ、カブトムシ、タマムシ、ゾウムシ、ケラ、アリ、シロアリ、ガムシ、ゲンゴロウ、等々。そしてこれは虫ではないがクモやサソリも食べられている。こういった実に様々な虫が、それぞれの種によって卵、幼虫、蛹、成虫の各形態が食べられている。

そしてそんな数ある虫の中でも特にその存在が際立っているのが、何といっても「メンダー」だろう。これは大型の水棲昆虫タガメの一種で、体長が十センチメートルにも達する小魚やカエルなどを捕食する肉食昆虫なのだ。

メンダーを仰向けにして腹を裂くと腸の肛門近くに臭腺があり、そこから独特の香りを出す。その芳香こそがまさにこの昆虫が人々に珍重される所以であって、雄は雌よりもより強い芳香を発するらしい。食べ方は、すり潰し調味料として使用するのが一般的だが、蒸したり焼いたりして頭をちぎり胴体の中身を吸い出して食べたりもするようだ。


我々は市場の中を一通り歩き回り探検し終えると、そのまま市場を出て、とりあえずこのあたりで腹ごしらえをすることにした。

市場のまわりには路地を行き交う客を目当てにいくつかの屋台が出ていて、そこには簡素なテーブルや椅子が集まり、飯を食ったり談笑したりといった、どこにでもある日常茶飯が真昼の日陰の下に繰り広げられていた。我々はそんな屋台の中の、路地の端に張り出した小さな四角いテーブルを陣取った。

「隊長、ちょっとトイレに行ってきていいですか?」

「いいよ。トイレは市場の端にあったはずだ。もし分からなかったら、ホンナームって大声で叫んだら誰か教えてくれるよ」

「了解!」

というわけで、彼がトイレに行っている間に、僕は料理のオーダーをすることにした。

屋台では普通メニューはなく、料理名を告げるか、もしくは材料を選び調理方法を告げるというシステムになっている。したがってタイでは、炒める「パット」、焼く「「ヤーン」、揚げる「トート」、煮る「トム」、和える「ヤム」、汁「スップ」程度の単語を覚えていれば、ほとんど用は足りる。

そこで僕がまずオーダーしたのはお馴染みの「プラーチョンペッサ」で、「プラーチョン」とはライギョのことだ。ライギョは英語で「スネークヘッド」と言い、これはヘビのような容姿をした肉食魚で、この魚はたとえ水の外に出されても空気呼吸をしてしまうという、魚にあるまじき類いまれな技をもっている。このライギョを一匹丸ごと魚の形をした鍋に入れてグツグツ煮込む、それがプラーチョンペッサだ。

そして僕のいつものお決まり「ヤムウンセン」をオーダーした。ヤムウンセンの「ヤム」は合える、「ウンセン」は春雨のことで、これは一般に春雨サラダと呼ばれているものだ。僕は「一番好きなタイ料理は?」と質問されると、まず間違いなく「ヤムウンセン」と答える。

あとはもちろんご飯だ。我々が食事をすることを「ご飯を食べる」と言うのと同様、タイでも食事をすることを「キンカーオ」と言う。「キン」は食べる、「カーオ」はご飯のことだ。

米はこの国でも食生活のど真ん中で、「ご飯」を食べるために「おかず」を食べるという図式ができ上がっている。またそれだけにご飯は特別な尊ぶべきものとしての位置もあたえられていて、炊いたご飯のことを「カーオスアイ」と呼ぶことにもその思いの一端を伺い知ることができる。「スアイ」とは美しいという意味だ。ようするに炊いご飯「カーオスアイ」は、白いご飯ではなくて、美しいご飯なのだ。


無事にオーダーをすませたところにちょうど彼が戻ってきた。そして間もなくして、オーダーしておいた料理がテーブルにならんだ。

プラーチョンペッサはお決まり通り、魚の形をした鍋に入れられ専用の炭火の入ったコンロの上にのせられている。ヤムウンセンもいつも通り美味しそうだ。

「しまった……」

「しまったって、どうしたんですか?」

「おい、パクチーは全部やる」

「エ〜っ。パクチー、嫌いなんですか。美味しいじゃないですか」

「嫌いなんだ。うっかりしてパクチーは入れないでくれって言うの忘れてた」

「僕は特に苦手な食べ物ってないんですよねえ。何でも美味しく食べる」

彼が得意げにそんなことを言う。

「僕は嫌いな食べ物ってけっこうあるんだ。生のネギとか生のトマトとか。レバーも嫌いだし、カニも明太子も嫌いだ。そう、それに僕は刺身を食べない」

「じゃあ隊長、回転寿司に行くといったい何を食べてるんですか?」

「玉子と穴子、イカにタコ、それにソーセージかな」

「隊長、けっこう人生、損してますよ」

彼に笑われた。

「でもね、僕はその嫌いな食材を食べなくても他の食材で同じ栄養素がとれるんなら、無理して食べないことにしてるんだ」

「そう言われてみると、すべての食材を食べなくちゃいけない理由って何もないですもんね」

「だから僕は、その嫌いな食材が入ってることが事前に分かったら、オーダーする時に、その食材は食べられないから入れないでくれって言うことにしてるんだ」

「でも今日は、パクチーを入れないでって言うの忘れちゃったってことなんですね?」

彼が笑いながら、ヤムウンセンの中に散らばっているパクチーを箸でつまみ、せっせと食べてくれている。

「食べられない食材を食べないで皿の上に残すと、それは捨てることになるからさ。だから捨てるんなら最初から食べられないって言って辞退し、それを好きな人に食べてもらった方がいい」

「確かに」

「それに今はこんなふうに生活の中に食料が溢れてて、次から次へと捨ててるけど、そんな時代は案外、早く終わってしまうかもしれないんだからさ」

「それってどういう意味ですか?」

「たとえば人口の増加さ」

「人口?」

「そもそも生物は、生態系の中で一定の固体数を保とうってする、ある種の制御作用を持ってる。ようするに基本的に生物は、生態系の中の一構成要素として絶滅することのないように保障されてると同時に、その種だけが異常に増加できないように制御されてるんだ。でもその制御作用が弱まると、生物は潜在的に持ってる爆発的な増殖力によって大発生を起こす。当然、我々人間もかつては生態系の中の一構成要素としてこの地球上に存在してて、出生率と死亡率はほぼ等しく、気候の変動や災害、病気、または肉食獣に食べられることも、自然のバランスを保つためにも必要なことだったのさ」

「なるほど」

「でも我々人間は様々な技術を生み出し、自然からの圧力を制御し、生態系から抜け出す努力を始めた。それによって出生率は増加の一途をたどり、死亡率は飛躍的に低下し、我々人間はこの地球上で大発生し始めたのさ。我々人間がこの地球上に現れて以来、災害や伝染病なんかで人口は多少制御されてたものの確実に増え続け、いよいよ20世紀をむかえると世界の人口は16億人に達し、その後も人口は衰えることなく恐ろしい速度でもって増加し続け、新世紀をむかえる直前にはとうとう60億人に達してしまった。このままこの調子で増加し続けると、2050年頃には世界の人口は100億人にまで達するだろうって国連は予測してる」

「恐ろしいですね、我々人間の増殖力って」

「そして国連はかなり以前から世界的な食料危機を予測してる。ようするに地球上に溢れ返った我々人間がみな一様にして食べるわけで、単純に考えて人口が増えるってことは、それだけ多くの食料が必要になるっていうことだ。野菜や食肉を増産するには当然、農場や牧場にするさらに広い土地が必要になる。でも地球の陸地面積は人口の増加とともに広がりはしない。陸地は人口が増加したぶん宅地に転用されてますます狭くなってしまうだろうし、おまけに地球温暖化によって海水面が上昇し陸地面積は確実に狭くなる。そしてさらに地球温暖化によって海水温が上昇すると、海の生態系のバランスが崩れ魚の棲息数が減少し、実際もうすでに漁獲量は世界的に減少し続けてる。100億人をこの地球っていう限られた環境の中でどう養っていくか。それは今世紀、最大の問題になることはまず間違いない」


「なんだかそうなると我々人間って、大量発生したバッタみたくこの地球の何もかもを食いつくしてしまいそうですね」

「実際すでに我々人間は過去に、多くの動物を食い尽くして絶滅させてきたんだからな」

「マジですか?」

「たとえばペンギンっているでしょ?」

「あの南極の?」

「そう。あのペンギンって、もともとペンギンって名前じゃなかったんだ」

「そうなんですか?」

「そもそも北半球にいたペンギンって名前の鳥に似てたから、南のペンギンって呼ばれたことが始まりなんだ」

「じゃあその北半球のペンギンってどうなったんですか?」

「食ったんだよ。我々人間が一羽残らずね」

「ヒェ〜っ」

「そもそもペンギンって名前は古代ケルト語で白い頭って意味だったんだ。その北半球にいた白い頭の鳥がオオウミガラスって海鳥で、すごく美味しかったんだよ」

「だから食っちゃったんですか。全部」

「そうなんだ。もともとオオウミガラスは北ヨーロッパにとてつもない数で生息してたんだけど、不幸にもその肉がスゴく美味しくて、さらに不幸だったのが、彼らが1シーズンにたった1個しか産まない卵がとんでもなく美味しかったんだ。そしてさらに彼らが急速に生息数を減らしていった原因のひとつが、南極のペンギンと同じく飛ばない鳥で足が遅かったことだった。だからオオウミガラスは棍棒が一本あれば簡単に捕獲できたから、一度に何百羽って単位で撲殺されたのさ。それはオランダ語でのろまを意味する名前だった、『不思議の国のアリス』の中に出てくる飛べない鳥ドードーも同じようにして絶滅させられた」

「棍棒で?」

「聞くところによると南極のペンギンの肉ってスゴく不味いらしいんだ。だから南極のペンギンは不味いから我々人間に食べられることなく、今まで絶滅しなかったのかもしれないよな」

「南極のペンギンは不味い。まあ、それって喜ぶべきことなのか……」


「こんな話はもう数限りなくあって、アメリカ大陸にもまた、かつてリョコウバトって鳥が数十億羽ってとてつもない数で生息してたんだ。そして彼らもアメリカンドリームを夢見て新大陸に押し寄せた入植者の胃袋の中に、みるみる内に消えてしまったのさ。それはまさに、まさかってう絶滅だったんだ」

「まさか?」

「リョコウバトは集団で営巣し移動する習性があって、そのひとつの群れの単位は何百万羽、何千万羽っていうとてつもない数だったんだ。だからリョコウバトが上空を渡り始めるとそのとてつもない数から、地上は日光が遮られて薄暗くなるほどだったらしい。これは実際にどういうふうにして数えたのかってことは謎だけど、あるイギリスの鳥類学者が残した記録によると、ひとつの群れにはなんと22億羽もいたらしい」

「確かにそれって22億羽って数よりも、どうやって数えたんだろうってことの方が驚きですよね」

彼が思わず吹き出す。

「そして彼らの胸肉はとびっきり美味しかったんだ。そこで人々は彼らが上空を渡り始めると、狙いも定めずただ銃口を上にして銃を打っ放した。それだけで空から何十羽っていう数の美味し胸肉がバサバサと地上に落ちてきたのさ。そして折しもアメリカは、ヨーロッパからの入植者が増加の一途をたどり人口が爆発的に増え続けてて、それにともなって食料の確保が問題化し始めてきてたんだ。こうしてやがてアメリカ大陸の東西を貫く鉄道が開通すると、何百樽っていう膨大な数の樽に塩漬けにされたリョコウバトの胸肉が、その新しい流通手段を利用して大量に入植地へ運ばれることになったってわけなのさ」

「恐るべし」

「実はリョコウバトっていう鳥はね、意外にも繁殖力がすごく弱い鳥で、そんな彼らがアメリカ大陸でこれだけの数で繁栄できたのはただ天敵がいなかったっていう、そのたったひとつの幸運によってだったんだ」

「そこに人間っていう天敵が現れたってことですね?」

「その通り。リョコウバトが上空を渡り始めると、上空を通り過ぎるのになんと3日もの日数がかかった、その無限にいるって思われてた鳥が絶滅するなんて、誰ひとりとして思ってもいなかったのさ。そしてオハイオ州の動物園に大統領の夫人の名前をとったマーサってリョコウバトがいた。そのマーサが檻の止まり木からポトンと冷たい地面に落ちた瞬間、それが、かつてアメリカ大陸に数十億羽っていうとてつもない数で生息していたリョコウバトという鳥が、この地球上から絶滅した瞬間だったんだ」

「可哀そう……」


我々はふたり、テーブルに並んだご馳走を快調に食べ続けた。

まずプラーチョンペッサ。すなわちライギョの煮込みは「ケーンソム」で煮込まれていて、このオレンジ色をした辛くて酸っぱいスープの酸味は「マッカム」でつけられる。

マッカムはタマリンドというマメ科植物だ。ちなみにタマリンドは枝豆のような畑で作る農耕作物ではなく大木になる樹木で、タイを旅しているとよく、大木の枝先にたくさん大きな茶褐色のサヤがぶら下がっている光景に出くわす。この酸味料はそのサヤの中の完熟した果肉から作られるのだ。

ライギョは白身魚で、煮込む前に1匹丸ごと油でカリカリに揚げる。だからこの白身魚の淡白さに油でカリカリに揚げた香ばしさが加わり、それがケーンソムの酸っぱくて辛くて微妙に甘いスープに絡み、これがさらに得体の知れないハーブのアクセントと合間って実に美味しい。

つぎにヤムウンセン。すなわちヤムと呼ばれる和え物は、主に「マナオ」と「ナンプラー」と「プリック」で味がつけられる。

マナオは青く小さな柑橘類で、ちょうど日本のスダチのようなものだ。酸味はタイ料理にはかかせない重要な味覚のひとつで、インドシナ全般の特徴として、酸味には酢よりも柑橘類やハーブ類を使うことが多い。酸味を出す食材は、豆科植物のタマリンド「マッカム」の果肉、柑橘植物の「マックルー」の皮と葉、そしてイネ科植物のレモングラス「タックライ」の葉など、実に豊富にある。

ナンプラーは魚を塩漬けにして発酵させ、そこに出た上澄み液から作った醤油で、グルタミン酸を多量に含み料理に独特の旨味をつける。これはもともと保存食として魚を塩漬けにする過程から考え出されたと言われていて、ヴェトナムの「ニュクマム」、カンボジアの「タクトレイ」、ラオスの「ナンパー」、ビルマの「ガンピャイェー」と、東南アジアにはなくてはならない調味料なのだ。

プリックはいわゆるトウガラシのことで、「プリッキーヌー」「プリックチーファー」「プリックルアン」を始め、その種類は極めて豊富だ。

タイ料理は辛いという通説が世間に浸透していて、その辛さの主たるものがトウガラシだということも今ではもう誰でも知っている。このトウガラシという食材なくしてタイ料理を語ることはできない。しかしトウガラシは南米原産の植物で、実は近代になってから持ち込まれたものだったのだ。

16世紀、当時の王都アユタヤのオランダ商館に勤務していたイレミアス・ファン・フリートは、当時のこの国の食事について次のように記している。


〈かれらの食事はなみはずれたものではなく、質素である。通常は米と乾魚、塩魚、生魚および野菜である。ソース、つまり調味料にはブラチャン、魚、および胡椒で味をつけた水を用いる。ブラチャンはえび、蟹、胎貝および魚から作られ、それに胡椒と塩がまぜられる。それはわれわれにとって悪臭を放つだけのものに過ぎないが、かれらにとっては美味なものなのである。かれらは宴会もおいしい食事も知らない〉


ここにトウガラシのことは何も記されていない。彼がここに記しているソースは、おそらくナンプラーだろう。「ブラチャン」は、エビなどをナンプラーのように塩漬けにし発酵させて作るペースト状の調味料「カピ」なのかもしれない。カピはタイ語だがマレー語では「ベラチャン」と言う。

それにしてもこのオランダ人がタイの人々のことを「かれらは宴会もおいしい食事も知らない」などと記しているところが何ともおもしろい。まったくもって大きなお世話だ。

しかしこれを見ると、やはりトウガラシのなかった頃のタイ料理は、現在の我々の思い描くところの、あの多彩なタイ料理とは比べものにならないほど単調なものだったのかもしれない。

ちなみにヤムと呼ばれる和え物は、春雨で作るヤムウンセンだけではなくて様々な種類がある。ヤムプラームックはイカ、ヤムヌアは肉といったように、おそらく具材は何でもいいのかもしれない。それに紫タマネギやセロリ、パクチーといった様々な野菜やハーブが絡まり、さらにこれでもかと干しエビやミンチまで入っていて、そして最後に柑橘の酸味とトウガラシの辛さにナンプラーの旨味が、このいたって単純な料理を筆舌しがたい見事な料理に仕上げている。やはり僕にとってヤムウンセンはナンバーワンディッシュだ。

そしてカーオスアイだが、これは日本のジャポニカ種ではなく細長いインディカ種だ。だからといってタイの人々はみんなインディカ種ばかりを食べているわけではなくて、モチ米や日本と同じウルチ米、赤米、黒米など、市場へ行くと様々な米が並んでいる。

米の調理方法も、蒸したり茹でたり焼いたり揚げたり混ぜたりと実に多彩で、たとえばモチ米を特によく食すここナコンパノムのあるタイ東北部では、モチ米は蒸す以外にも、土器文化以前の炊飯法である竹筒にモチ米を入れて焼く「カーオラーム」などがある。

ちなみにカーオスアイが日本のご飯と違ってパラパラと粘気がないのは、米自体の特性だけではなく炊き方にもおっている。その炊き方とは、まず米を洗わずに多めの湯の中に入れて茹でる。次に米の芯が少し残る程度のアルデンテに茹で上がったところで湯を全部捨てる。そして蓋をしてそのまましばらく蒸すと、あの「美しいご飯」が炊き上がるというわけなのだ。


「違う。スプーンは右手に持って、フォークは左手に持つんだ」

タイでは、食事は普通スプーンとフォークで行なわれる。持ち方は右手にスプーン、左手にフォークだ。

「こうですか?」

「そうだ。使い方は、皿に盛られたご飯を食べる時は、まず右手のスプーンでご飯の塊を向こう側から手前へと軽く崩す。そして待ち構えてた左手のフォークの背で再びご飯をスプーンの中へ押し戻し口へ運ぶ。こんなふうに基本的に食物を口へ運ぶのはスプーンの役目であって、フォークは首尾一貫して補助的役割に撤してる」

「へ〜え」

「ちなみに皿の上でのスプーンの動かし方だけど、あくまでも向こう側から手前っていう方向で動かし、西洋料理のスープを飲む時みたいに、スプーンを皿の手前から向こう側へ動かすことは、この国ではとても不作法なこととされてるらしい」

「やってみるとこのスプーンとフォークの食べ方ってけっこう効率いいですね」

「そうなんだよ。また少し大きな何かの塊を小さく切り分けたい時は、その塊をフォークで押さえ、スプーンをナイフみたいに使って切り分ける。でもこの場合も食物を口へ運ぶのはあくまでもスプーンの役割であって、フォークに食物を突き刺して口へ運ぶということは普通しないらしい」

「なるほど」

「でも基本的に、わざわざ切り分けなくちゃいけないような料理はほとんどないんだ。タイ料理も日本料理や中国料理と同じく、食材はおおむね事前に食べやすい大きさに小さく切り分けられてて、西洋料理みたいに皿の上で大きな塊を自ら刃物で切り分けながら食べる料理じゃない」

「それって言われてみると変ですよね」

「変って?」

「だってテーブルの上にナイフなんて物騒なものを並べて、それでもって肉の塊を切りながら食べるなんて」

「僕は民族学者じゃないからよく分からないけど、たぶんそれは狩猟民族と農耕民族の差なのかもしれないよな」

「ア〜っ、そうなのかもしれない」

「確かに切り分けてすぐに口に入れた方が美味しい場合もあるのかもしれない。かといって最初から食べやすい大きさに切り分けられてる日本料理や中国料理は不味いのかっていうと、そうとは言えない」

「これまでナイフとフォークを使って食べることがエレガントなんだって思い込んでたけど、ふと冷静に考えてみると、それって実は野蛮なことなのかもしれない。もしかすると世の中の常識って、案外そんなものなのかもしれませんよね?」

「そうさ。常識を疑うことって時として必要なことなのさ。そもそも常識っていったい何なんだってね」

「善人の多数決?」

「オ〜っ、いいこと言うじゃないか」

「やった。隊長に褒められた!」

「バカなこと言ってないで、とっとと食いやがれ」

「ハ〜イ」

ふとテーブルに目をやると、彼の皿の上でスープーンとフォークはエレガントに動きまわっていた。

「常識って言えば、隊長ってアルコール飲まないんですね?」

「飲まないねえ」

「なんでですか?」

「ほら、それっだって同じさ。変だって思わなくちゃ。だってコーヒーや紅茶を飲まないって言っても誰もなぜかって聞いてこない。でもアルコールを飲まないって言うと必ずなぜかって聞いてくる」

「ア〜っ、これまでそんなこと考えたこともなかったけど、確かにそうですね」

「主義なんだ。アルコールを飲まない主義。でもそれには何かもっともらしい理由があるわけじゃない。まず十代の頃、興味本位で飲んだ酒が不味かった。そして僕には不味いものを無理して飲まなくちゃいけない理由がなかった。あとね、酒が飲めて一人前だっていう日本の風潮がしゃくにさわった。だから僕はアルコールを一滴も喉を通さないで、一生、半人前でいようって決めたんだ。だからそれ以来、僕はアルコールを一滴も喉を通してない。だから僕は今も半人前なんだ」

「やっぱ隊長って期待を裏切らない変な人だ。でも不覚にも、なんだかちょっとカッコいい」

「おい、不覚にもは余計だ」

彼が意味不明な笑いをする。

「でもね、海外を旅してる時なぜアルコールを飲まないのかって聞かれると、主義だなんて答えると話がややこしくなるから、僕はいつも宗教だって答えるんだ。そしたらみんな、なぜかその一言で納得するんだよな。所詮、常識なんてそんなもんさ」

「その話おもしろい」


「それにしても確かに市場って探検でしたねえ」

「だから探検だって言ったろ」

「マジ、世界にはいろんなものを食べる人がいるんだなあ。はっきり言ってここって市場っていうよりも、まるでペット売り場じゃないですか。まあでも、そもそも誰が何を食べるかなんてことに、決まりなんかないんだってことですね?」

「そうさ。実は僕はね、我々人間が何を食べてきたかってことよりも、何を食べてこなかったかってことの方に興味があるんだ」

「言われてみればそれって不思議ですよね」

「人間も他の動物と同じく、食べられるものを食べて生きてきた。もちろん人間には好きだとか、嫌いだとかっていう嗜好の問題はあるけど、それ以前の根本的な問題として、食べられるにもかかわらず、あえてそれを食べない理由っていったい何だろうって考えてみると、それってなかなかおもしろいんだ。たとえば『食経』の中には目を閉じたウサギの肉を食べてはいけないって書いてある」

「何ですか『食経』って?」

「ア〜っ『食経』ってのはね、食べることが不老長生の根源だって考えてた古代中国人が、陰陽五行なんかの思想や土着信仰をもとに食についての戒めや法をまとめたもので、中国に限らず食に対しての何らかの戒めっていうのは世界中いたるところに存在してるんだ」

「ヘ〜え」

「そんな食に対しての戒めの中でも、ヒンドゥー教徒がウシを食べないことと、イスラム教徒がブタを食べないことはよく知られてる。そしてイスラム教徒と同様、同じヘブライ起源の宗教キリスト教でもブタは汚れたものってされてて、食べることを禁じられてたんだ」

「意外ですね。アメリカでもヨーロッパでも豚肉の料理ってたくさんあるのに」

「実はかつて彼らキリスト教徒にとってのブタに対する嫌悪感っていうのは凄まじいもので、『旧約聖書』のマカバイ記には、ある律法学者が口をこじ開けられて強制的に豚肉を食べさせられる下りがある。彼は結局、不浄な物を口にして生き永らえるより死を受け入れることをよしとして、豚肉を吐き出し自ら進んで死を選んだらしい」

「凄まじい」


『旧約聖書』のレビ記にはブタを始め、彼らキリスト教徒にとっての食べてもよい清い生き物と、食べてはいけない汚れた生き物とがこと細かく規定されている。


〈地上のあらゆる動物のうち、あなたたちの食べてよい生き物は、蹄が分かれ完全に割れており、しかも反芻するものである。したがって反芻するだけか、あるいは蹄が分かれているだけの生き物は食べてはならない。ラクダは反芻するが蹄が分かれていないから汚れたものである。イワダヌキは反芻するが蹄が分かれていないから汚れたものである。ノウサギも反芻するが蹄が分かれていないから汚れたものである。イノシシは蹄が完全に割れているが反芻しないから汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。またその死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。

水の中の魚類のうち、鰭、鱗のあるものは、海のものでも川のものでもすべて食べてよい。しかし鰭や鱗のないものは、海のものでも川のものでも水に群がるものでも、すべて汚らわしいものである。その肉を食べてはならない。死骸も汚らわしいものとして扱え。水の中にいて鰭や鱗のないものは、すべて汚らわしいものである。

鳥類のうちで、次のものは汚らわしいものとして扱え。食べてはならない。ハゲワシ、ヒゲワシ、クロハゲワシ、トビ、ハヤブサの類、カラスの類、ワシミミズク、コミミズク、トラフズク、タカの類、モリフクロウ、サカナミミズク、オオコノハズク、コキンメフクロウ、コノハズク、ミサゴ、コウノトリ、アオサギの類、ヤツガシラチョウ、コウモリ。

羽があり四本の足で動き群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。ただし羽があり四本の足で動き群れを成すもののうちで、地面を跳躍するのに適した後ろ肢を持つものは食べてよい。すなわち、イナゴの類、ハネナガイナゴの類、オオイナゴの類、コイナゴの類は食べてよい。しかし、これ以外で羽があり四本の足をもち群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである。

地上を這う爬虫類は汚れている、モグラネズミ、トビネズミ、トゲオトカゲの類、ヤモリ、オオトカゲ、トカゲ、クスリトカゲ、カメレオン。これらの爬虫類はの汚れたものである〉


「それ以外にもチベット人が魚を食べないことはよく知られてるし、ニワトリやタマゴを食べることを忌避してる人々も世界各地にいる。そしてもちろん日本にも食に対する厳しい戒めがあった」

「ア〜っ、そうか」

「日本では飛鳥時代、天武天皇が仏教の不殺生戒にしたがってウシ、ウマ、イヌ、サル、ニワトリの肉を食べることを禁じるっていう詔を出し、国家宗教となった仏教が日本人の心の中に浸透していくに従って我々日本人の生活の中から肉食が消え、こうして日本料理は、世界的に見ても類い稀な肉という食材を欠いた特異な料理体系になったのさ」


1549年、我が国へキリスト教の布教にやってきたフランシスコ・ザヴィエルはこんなことを書き残している。


〈日本人は自分等が飼う家畜を屠殺することもせず、又、喰べもしない。彼等は時々魚を食膳に供し、米や麦を食べるがそれも少量である。但し彼等が食べる草は豊富にあり、又僅かではあるが、いろいろな果物もある。それでいて、この土地の人々は、不思議な程の達者な身体をもって居り、稀な高齢に達する者も、多数居る。従って、たとへ口腹が満足しなくとも、私達の体質は、僅少な食物に依って、いかに健康を保つことのできるものであるかは、日本人に明らかに顕れている〉


これは日本で2年あまりの布教生活を送り、その食生活に苦労したザヴィエルがある神父に宛てた手紙で、すなわち日本へ布教に行くには、肉の食えない、草ばかりを食べる粗食に耐える覚悟が必要だと諭しているのだ。これを見ても分かるように、実際、彼らヨーロッパ人宣教師にとって仏教の戒律に従って肉を口にできないことが、日本での布教活動における重大な問題だったようだ。


「たぶん肉を口にしない、すなわち菜食主義って聞くとまず我々日本人の頭に思い浮かぶのは精進料理、ようするに仏教の菜食主義なんだろうけど、実はもともと仏教では肉食は必ずしも禁じられてなかったんだ」

「マジですか?」

「ちなみに今でもタイやラオスの僧侶は托鉢で得たものは肉でも魚でも何でも食べる。でも彼らは不殺生の戒律を犯したことにはならないんだ」

「なんでですか?」

「それは三種の浄肉だからだ」

「三種の浄肉?」

「その肉が自分のために殺した肉ではなくて、自分のために殺したということを聞いた肉でもなく、また自分のために殺したという疑いのない肉。それが三種の浄肉で、それを食べることは許されてるからなのさ」

「それってかなり都合のいい考えじゃないですか」

「でもね、そもそも不殺生っていう戒めは動物を殺さないことであって、動物を食べないってことじゃない」

「ア〜っ、確かに」


「ところでヒンドゥー教が食べることを戒めてるウシは、神ブラフマンによって創造されたもので、また神シヴァの乗り物としても極めて神聖な存在なんだ。そしてウシはまたインド人にとって多大な恩恵を与えてくれる動物でもあった。たとえば雄牛は大地を耕す労力に、雌牛はミルクを出し滋養を、糞は貴重な燃料に、そして尿すら薬として飲まれたらしい。こういった人間にとっての有用性が、ヒンドゥー教徒にこの動物を食べることを戒めさせる大きな要因になったんだろうって説がある」

「尿は飲みたくないけど、おもしろい」

「じゃあイスラム教ではなぜブタを汚れたものとして食べることを禁じてるのかっていうと、それは実際のところ『コーラン』で汚れたものとして禁じてるからだってこと以外、確実なことは分かってないらしいんだ。それは豚肉には病原菌が含まれてるからだって指摘もあるけど、焼いて火を通せば問題ないわけで、食べようと思えば我々のように食べられたはずだ。第一ブタに限らずウシやニワトリだって、彼らにはそれを生で食べる習慣はなかったはずだ。また家畜としての飼育環境が不潔だからだって指摘もあるけど、それはなにもブタだけに限ったことじゃない。もちろん蹄の形とか反芻するかしないかってことだって、はっきり言って汚れてる根拠としては疑問でしかない」

「マジ、なんで蹄と反芻だったんですかね?」

「もっともこういった宗教の戒めは、実は論理的に説明できないものの方が多くて、また説明できないからこそ今日まで残り伝わったんだっていう指摘もあるんだ。ひとつ言えることは、宗教におけるそういった戒めは内容云々よりも、信徒が同じルールを共有するってことに大きな意味があったってことだ。そしてやはり宗教っていうのは、我々人間がその英知でもって生み出してきた、いかに生きるかってことに対する大いなる蓄積だってことも間違いない。だから戒めもまた、それは我々人間が生きるための指針だったのさ」

「なるほど」

「また戒めっていうのは言い換えると、節度であり、歯止めなんだと思う。我々人間がいったん節度をなくし歯止めを失うと、取り巻く自然界の均衡を崩し、それが大きな災いとなって返ってくることになる。だからそれはきっと我々の体のどこか奥深くに微かに残る、人間がかつて野性の一部だった頃の遠い記憶というか、本能の呼び掛けだったんじゃないかな。本能っていうのはまた、生物が体の中に記憶してる自然界の秩序なのさ。ちなみにアメリカのネイティブインディアンは、卵を温めてるリョコウバトの親鳥は決して殺さなかったらしい」

「さすが、ネイティブインディアンだ!」

「ここタイでもね、かつては仏教が定めた戒律による肉食を禁じた日があって、仏教徒はその日にはウシ、スイギュウ、ブタを食べてはいけないことになってたらしい。したがってその日は原則的に動物の屠殺は行なわれず、市場にも肉は並ばなかったんだ」

「へ〜え」

「ようするに食べることは生命を維持するための行為ではあるけど、人間にとって食事っていうのはまた、かつて日常生活における一種の宗教儀礼でもあったのさ。たとえばそれは神であったり、自然であったり、自分たちをこの世に生かしてる、その食べ物を与えてくれた絶対的存在に祈りを捧げ、そしてその絶対的存在の何者かによって定められた戒めによって、我々人間は節度を学んだんだ」

「これまで僕、安易な日常に何の疑問もなくどっぷり浸ってて、こんなふうに食べるってことについて考えたことなんてなかったなあ。でもマジ、このまま人口が100億人になったら、いったいどうなっちゃうんですかね?」

「実は僕はね、京都に観光に行っても、南禅寺で湯豆腐じゃなくて、マクドナルドでダブルチーズバーガーを食べる男なんだ」

「なんですか、ダブルチーズバーガーって、また唐突に?」

 彼が思わず吹き出す。

「ようするに僕は自分が食べる物に対する特別な執着のない男なんだ。もちろん僕自身、それを損だとも恥だとも思っていない。かといってグルメっていう文化を否定しようなんて気は一ミリたりともない。でも僕はね、自分自身はグルメではありたくないって思ってるんだ。それは毎年、世界中で何百万人もの子供たちが満足に食べることもできずに死んでることを思えば、少なくとも僕は食べるってことに対して多くを求めたくないんだ。基本的に食べることは命をつなげるための糧なんだっていう、そういう思いを忘れず持ち続けていたい。だから、腹がすいたら何を食べても美味しく、腹がいっばいなら何を食べても不味い、それが僕の食ってものに対する基本的スタンスなんだ」

「なるほど」

「もっともスタンス以前の問題として、たとえそれを食べるお金があったとしても、僕にはカスピ海産のキャビアの良さも、ペリゴール産のトリュフの良さも分からない。だからそんな僕みたいな男がそういった高級な食材を食べるのは、まさに貴重な資源の無駄であって、貴重な資源はちゃんとそれを味わえる人が味わうべきだって僕は思ってるんだ。でもね、これからはそういった希少価値の高い貴重な食材で究極の料理を仕立てる料理人よりも、養殖やブロイラーの食材で究極の料理を仕立てる料理人が、より称賛される時代がやってくるべきだって僕は思う。僕は今でもそういう料理人を心から称賛したいし、彼らの仕事を料理の輝かしき歴史における後退だとも堕落だとも思わない。そもそもフランス料理の精緻を極めたソースも、中国料理の深遠を極めた乾物も、もとはと言えば食材の悪さや立地の悪さといった障害を克服させるために、時の料理人たちが心血を注ぎ創造したものだ。人口100億人の時代は必ずやってくる。そしておそらくこのままだと食料の枯渇も起こりうるだろう。だからこれからの料理人は社会的にも倫理的にも、来たる新たな時代に対してとても大きな役割を担うことになるはずだって僕は思うんだよね」

「僕、隊長と一緒にいると、隊長ってどんどん変な人だなって思うんですけど、なんだか話してると、隊長がどんどん変な人に思えなくなりそうな自分のことが怖い……」

 彼が意味不明な笑みを浮かべながら、プラーチョンペッサをたいらげた。

「おい、それって褒めてるのか?」


ちなみに仏教ではこの世界は業によって生まれ、業によって滅びるとされている。ようするに我々生物が輪廻を繰り返すのと同じく、世界もまた輪廻するのだ。

その世界の生成消滅は、生成「成」、持続「住」、消滅「壊」、空虚「空」という、実に規則正しい段階を経て流れていて、各段階はまたその中で1劫ごとに細かい生滅を20回繰り返すとされている。「劫」というのは仏教における時間の単位で、仏教にも高度に発達した時間の概念があったのだ。

劫は仏教における時間の最大単位だ。1辺が1由旬、すなわち約7キロメートルある立方体の城の中を小さなケシ粒でいっぱいに満たし、100年に一度そのケシ粒を1粒ずつ取り出し、城の中からケシ粒がすべてなくなった時点で1劫はまだ終わっていない。また別の例えでは、1辺が1由旬、すなわち約7キロメートルある極めて固い巨大な岩を、100年に一度、極めて柔らかいカーシー産の綿ネルでさっと払い、その巨大な岩が摩耗してすべて消滅した時点で1劫はまだ終わっていない。参考までに仏教における時間の最小単位は「刹那」だ。極めて細いカーシー産の絹糸をふたりの成人男子が両手でひとつかみして引き合い、それをもうひとりの成人男子が中国製の剛刀で一気に切断した時、その細い絹糸1本を剛刀が断ち切るのに64の刹那が経過する。

とにかくこのようにして世界は、そんな途方もない時間の20の劫が生滅を繰り返し持続されているわけだが、それぞれ1劫は順に、刀、疾、飢の3つの災いで終わることになっている。「刀」は戦争。「疾」は疾病。「飢」は飢餓で、今、我々が生きているのは9番目の劫だ。そしてこの9番目の劫が終わるのは、実は飢餓の番なのだ。


   *


アピバンバンチャイ通りからソンテウに乗り込んだ。


「ソンテウ」とは、小型トラックの荷台に屋根と座席を設えた一種の乗り合い自動車だ。この乗り物には時刻表などというものは存在せず、客が満員になればその時が発車時刻で、この場合の「満員」というのは「満席」という意味ではない。

客は低い屋根の荷台の中に頭を低くしてモソモソと乗り込み、荷台に取り付けられている細く長い板、ようするに木製のフリーベンチシートに腰掛け、また荷台の入口のステップに足を掛け屋根にもしがみつく。我々は荷台の奥にかろうじて空いていた隙間に潜り込んだ。

ちなみに僕が知る限りタイの人々は、座っている人の前を平気で通り抜けるということをあまりしない。人の傍を通り抜ける際は面倒でも、人の後を通るのが彼らの礼儀のようだ。したがって我々のように、座っている人の前を無理にかき分け奥へ押し入るなどといったことは、もしかすると彼らにとってはとても失礼なことなのかもしれない。

もっともここ近年、都市部では希薄になりつつあるようだが、タイの社会では日常の何気ない行動様式の中にも、伝統的な道徳観や倫理感といったものがまだ多く残っている。たとえば子供にとって父親や母親はどちらかと言えば敬語をもって接すべき存在であって、これは両親に限ったことではなく、彼らは広く年長者に対する敬意というものを持ち合わせている。したがって老人の老いたる様をネタにして大笑いするなどという娯楽はまずこの国には存在しないのだ。


そういえばかつての日本は、とにかくアメリカは素晴らしいという国だった。アメリカ人のように流暢に英語が話せ、アメリカ人のようにナイフとフォークを美しく使いこなせることが、我々日本人にとっての憧れであり、それがまた我々日本人が目指すべき目標だったのだ。

そして日本のサラリーマンのスーツやネクタイの色を、欧米のそれと比べ、自ら「ドブネズミ色」だと酷評していたのもこの頃の話しだ。

ちなみに色彩というのは、その民族をはぐくむ風土の中から生まれるものだ。したがってイタリアの乾燥した明るい太陽の下で生まれた色彩感覚と、日本の湿潤な陰影の中で生まれた色彩感覚とは、当然、異なってしかるべきものであって、それを比べ優越つけるなどという行為自体がそもそもバカげたことなのだ。

灰色、灰白色、灰汁鼠、鼠色、白鼠、薄鼠、素鼠、中鼠、繁鼠、濃鼠、黒鼠、墨色、薄墨色、濃墨色、桜鼠、梅鼠、白梅鼠、薄梅鼠、松葉鼠、島松鼠、呉竹鼠、青柳鼠、牡丹鼠、藤鼠、山吹鼠、桔梗鼠、浮草鼠、千草鼠、葡萄鼠、小豆鼠、暁鼠、薄雲鼠、空色鼠、水色鼠、紅鼠、紫鼠、臙脂鼠、藍鼠、藍生鼠、藍味鼠、茶鼠、茶気鼠、黄鼠、玉子鼠、貴族鼠、源氏鼠、小町鼠、絹鼠、御召鼠、軍勝鼠、遠州鼠、利休鼠、都鼠、鴨川鼠、嵯峨鼠、江戸鼠、深川鼠、浪速鼠、淀鼠、湊鼠、鴇色鼠、鳩羽色、鳩羽鼠、山鳩色、鈍色、青鈍、銀鼠、銀色、白銀色、錫色、鉛色、鉄色、鉄鼠、錆鼠、砂色、壁鼠、生壁鼠、納戸色、納戸鼠、錆納戸、消炭色……。

我々日本人は世界的に見ても類い稀な、目を見張るほど豊かな美しい「ドブネズミ色」を持っているのだ。

またそんな頃、アメリカ人はぜったいに「ごめんなさい」を言わないのだという話がメディアで取り沙汰されてもいた。アメリカ人にとって「ごめんなさい」を言うことは負けを意味することであって、何かにつけてすぐに「ごめんなさい」と謝る日本人のことを、我々日本人が自ら国際社会における敗者だと侮蔑していたのだ。

そして僕は近頃、東京の街の中を歩いていると「ごめんなさい」という言葉が希薄になったなと感じることがある。肩がぶつかっても「ごめんなさい」を口にする若者が少なくなった。しかし、これを若者たちの倫理感が欠落したのだと、彼らを一方的に批判するのは大きな間違いだ。それは当時の大人たちが素晴らしいアメリカ人を夢見て、決して謝らない強い日本人を目指して努力してきたことが、ようやく今こうして次の世代である若者たちの心の中で実を結んだのだ。

でも僕は20代、アジアの国々を歩き回っていて幾度となく実にたくさんの、アメリカ人の「ごめんなさい」を聞いた……。


「ここに行ってみませんか?」

ホテルのダイニングでメコンを眺めながらカーオニャオマムアンをつついていると、彼がバッグの中からパンフレットを取り出してこんなことを言った。そのパンフレットはおそらくバンコクの航空会社のオフィスから持って来たのだろう。

ところで「カーオニャオマムアン」だが、「カーオニャオ」はモチ米、「マムアン」はマンゴーのことで、モチ米の上にマンゴーがのっている。それだけ聞くと、とんでもない料理のように思うだろうが、実はこれは僕の大好物なのだ。ココナッツミルクを入れて蒸された甘いモチ米の上に熟したマンゴーをのせた、これはデザートなのだ。ココナッツミルクの濃厚な甘さのモチ米のモチッとした食感と、熟したマンゴーの不思議な酸味のトロッとした食感、その場違いな2つの食材が口の中でひとつになると、それが極上のデーザトになる。

カーオニャオマムアは18世紀のアユタヤ王朝時代から食べられていたらしく、バンコクの老舗ホテル、オリエンタルのダイニングでも食べられる。もっともオリエンタルでは皿の端にランの花なんかが添えられていて、この目の前のプラスチックの皿にのせられたカーオニャオマムアンとは明らかに見た目は別物だが、味は同じ、カーオニャオマムアンはどこで食べても最高に美味しい究極のスイーツなのだ。

「タートパノムか……」

そのパンフレットの写真は確かにタートパノムだった。

「行ったことあるんですか?」

「いや、行ったことはないけど、以前タートパノムのことは何かで読んだことがある。タートパノムはタイとラオスの仏教徒にとっての聖地なんだ」

「ヘ〜え、これが」

「確かタートパノムにはブッダの胸の骨が納めてあるんじゃなかったかなあ?」

「じゃあこれ、ブッダの墓ってことですか?」

「いや、そういうことじゃないんだ。そもそも仏塔ってのはブッダの遺骨や遺品を安置するためのものなのさ。ビルマのラングーンのシュエダゴンパゴダにはブッダの髪の毛が納められてるらしいし」

「でもこのパンフレットの仏塔ってなんだか新しくて、そんなものが納められてるような感じしませんよね?」

「タートパノムはねえ、かなり古くからこの地にあった巨大な仏塔だったんだけど、ある夜、一瞬にして粉々に砕けて崩れちゃったんだ」

「粉々に崩れた。なんでですか?」

「謎なんだ。今でもその原因は分かってないらしい。でもその雨季の夜、タートパノムが崩れる地響きは、遠くメコンの対岸のラオスにまで伝わったらしいんだ」

「ヘ〜え」

彼が改めてパンフレットの写真に見入っている。

「じゃあとりあえずこれから行ってみるか。どうせここには他に行くところもなさそうだしさ」

「了解!」


こうして我々はアピバンバンチャイ通りからソンテウに乗り込み、タートパノムを目指すことになったというわけなのだ。

ふと気づくといつの間にかソンテウの荷台は満席になっていて、入り口のステップには3人がしがみつき、いよいよ我々を乗せたソンテウはブルンブルンとエンジン音を轟かせながら走り出した。そしてアピバンバンチャイ通りからポアンケウ通りを経てメコンに突き当たると、ソンテウはそこで向きを変え、メコンに沿って国道212号線を南下していった。


ソンテウはナコンパノムを発ってしばらくすると、悠久の微動を続けるメコンとしばらく一緒に走った後、とうとうメコンに別れを告げ少し内陸へと向きをかえた。すると街の気配は一気に消え失せた。すでに右も、左も、どこまでも乾ききった大地が、遠く地平線の彼方まで続いていて、点在する実に貧弱な潅木の近くには同じくらい貧弱な骨張った牛や、白く乾いた泥まみれの水牛たちがわずかな草叢から大地の恵みを貪っている。それを見ているとなんだか急に、ソンテウの中に吹き込む空気すら潤いをなくしてしまったような気がした。

そしてそんな大地の中で時折と出くわす人家は、どれもがみな簡素な高床式で、細い柱にバンブーで編んだ網代の壁に、屋根はヤシか何かの葉で葺かれている。

もちろん彼らの住居のこの簡素さを、貧しさゆえだと判断するのは間違いだ。そもそも住居は風土から形作られるものなのだ。これは生活を快適にしたいという人間の原初的な欲求によるもので、したがって自然環境が異なればおのずと住居の形態も異なる。

ちなみに日本では「家のつくりやうは夏をむねとすべし」と吉田兼行が『徒然草』の中に書いているように、古来、日本人の住居は夏のむし暑さを第一に考えて建てられたのだ。これは冬の寒さを第一に考えて建てられたヨーロッパの建築とは明らかに異なる点で、ようするに雪を愛でる日本の冬はヨーロッパのそれと比べてはるかに過ごしやすかったのだ。

そんな愛すべき良好な気候に育まれた日本の建築はまた、ヨーロッパの建築とは細部において数多くの相違点がある。たとえば「軒下」という言葉のないヨーロッパの建築とは異なり、日本の建築には軒や廂、縁といった自然と連動する空間があり、そこは我々日本人にとってとても快適な場所だったのだ。『源氏物語』に代表される数々の王朝文学は、この軒や廂、縁といった空間なくしては生まれなかっただろうとも言われている。

こういった日本の建築の中で唯一、ヨーロッパの建築と共通した自然と連動する設備「窓」も、日本語の語源は「間戸」だ。これはもともと柱と柱の間に立てた開放的な戸のことで、少なくともこれはヨーロッパのような外界と遮断する壁に開けた穴ではなかった。これは時代が下っても、やはり気候の違う日本とヨーロッパの窓には相違点があって、涼しい風を取り込むことを主眼とした日本の窓は横長に、温かい陽を取り込むことを主眼としたヨーロッパの窓は縦長に作られている。

もしもこの熱帯のタイに、分厚いコンクリートの壁に囲まれ頑丈なガラス窓によって密閉された家を建てたら、エアコンを1日中フル稼働させる膨大な電力が必要になるだろう。こういった環境を無視した建築が可能になったのはもちろん、電力を始めとするエネルギーを使って簡単に快適な環境が作り出せるようになった、まさにごく近代のことだ。


ところでここナコンパノムのあるタイの東北は「イサーン」と呼ばれている。イサーンはサンスクリット語の「イーシャーナ」を語源としていて、これはヒンドゥー教の三大神の一柱シヴァを意味している。

しかしそんな神々しい名前とは裏腹に、かつてイサーンはタイ全土の中で最も貧困な地域とされていて、このイサーンという言葉にはその昔「貧しく無教養な田舎者」といった侮蔑の意味をも含んでいたらしい。

イサーンは砂礫台地で土中の栄養分が乏しく、しかも耕作地を潤す河川も少なく満足な潅漑施設もない。したがって農業は必然的に雨水に依存することになるのだが、その雨量たるや極めて不順で、乾季にはほとんど雨は降らず大地はひび割れ完全に乾ききってしまう。

おまけにイサーンの地下は1000メートルを超えると言われるとてつもない厚さの岩塩層になっていて、岩塩層の塩は地表に析出し農作物に深刻な塩害をもたらすのだ。

ではなぜイサーンの人々はこんな苛酷な環境の中で農業にしがみついてきたのか。もちろんこの地に農業以外さした産業がなかったという現実もある。しかしこれにはもうひとつ、タイの歴史的必然も大きく関与していたのだ。それはタイの農産物、すなわち米による世界市場への進出だ。

実はバンコクは、ヴェトナムのサイゴン、ビルマのラングーンをしのぐ、インドシナ屈指の米の積み出し港として発展していくのだ。19世紀半ばには6万トン程度だったバンコクから積み出された米は、1880年になると21万トンになり、1890年には67万トン、1920年には106万トンと着実に輸出量を伸ばしていく。そして1930年にはとうとう150万トンと戦前のピークをむかえることになり、ここでついにタイの米の輸出はビルマとヴェトナムを抑え、インドシナの米貿易のトップに躍り出したのだ。

このような背景の下、タイでは多くの土地が稲作のための農地、すなわち水田へと姿を変え始めた。そしてここイサーンも例外ではなかったのだ。


そもそも「稲作」というものの起源についてはまだ確定的なことは分かっていないようだが、ここインドシナには稲のルーツとなる野性種が自生していたことが確認されている。

ではこのあたりでいつ頃から稲作が始まったのかというとそれもはっきりしていないのだが、点在する遺蹟などの発掘から遅くとも紀元前2000年頃には行なわれていただろうというのが定説らしい。

その頃の稲作はもちろん現代のような広く整備された水田で行なうものではなくて、山地では焼畑の一作物として雑穀などと共に栽培され、平地では小川や池などの湿地を使い栽培されていたと考えられている。イサーンでもそんな稲作が、「ノーン」と呼ばれる自然の凹地と雨水を利用し細々と行なわれていたのだ。

しかしこういった稲作は確かに収穫は非常に少ないものだったが、その土地に見合った予想しうる比較的安定した収穫を人々にもたらしていた。それが近代、タイの米による世界市場への進出によって水田の需要が爆発的に増加し、大規模に、しかも無計画に開墾を急いだことによって、イサーンのような稲作に適さない用水の得られない場所にまでも水田が広がることになり、結果的にここイサーンには、気紛な雨水に振り回される、ちょっとした降雨不順で大旱魃を引き起こす不安定な水田ばかりが増えてしまったというわけなのだ。

そしてまたイサーンに思わぬ深刻な結果をもたらすことになったのが森林の伐採だった。森林の喪失は地下水位の上昇を引き起こし、これによって地下水に含まれた岩塩層の塩分が地表に吹き出し深刻な塩害をもたらすはめになり、おまけに樹木のない裸の大地は、雨季に集中的に降る大量の雨によって激烈な土壌侵食を引き起こしたのだ。

皮肉にも人間に豊かさをもたらすはずのものがことごとく裏目、裏目に出てしまい、こうしてできあがったのがこのソンテウの外に寥々と広がる乾ききったイサーンの大地というわけなのだ。


ちなみにソンテウは出発地点と終点までの間、決まった停留所はない。ソンテウに乗る場合はソンテウの通る道の脇で手をあげ、降りる場合は降りたい地点の直前で、荷台の天井あたりに取り付けられているボタンを押して運転手にその意志を伝えるのだ。

メコンと別れてしばらく走ったところで、我々の周りに座っていた少年たちが慌ててボタンを押したのだが、すでに自分たちの降りる地点を通り過ぎてしまっていたらしく、キャッキャと騒いでいる。無理もない。あたりを見回しても、特にこれといった目印になるような建物があるわけでもなく、そこにあるのは国道212号線と乾いた大地だけだった。

彼らは、おしゃれをしてナコンパノムに遊びに行っていたのか。その真新しいTシャツが妙にまぶしかった。そしてようやくソンテウは一本の大木の下で止まり、少年たちは炎天下の国道を、またキャッキャとふざけ合いながら後戻りしていった。どこを見渡しても家らしき家などまったく見当らない。


そこに涼しい影を落としていた大木はかなりの大きさだった。タイの田舎をバスで走っていると時折、すっかり見渡すかぎりの荒野と化してしまった大地の中に、こんなふうにポツンと1本だけとり残された大木の傍を通り抜けことがある。僕はいつもそんな時、その木が今まで我々人間に伐り倒されずに、そこにそうして残ったという奇跡を思う。

実はタイもかつては鬱蒼とした森林に覆われていたのだ。17世紀ここを訪れたフランス人宣教師ジェルヴェーズは、タイの森林があまりにも深くてそれを横切ることはほとんど不可能だと旅行記の中に書き記している。すなわちここタイの東北イサーンにもかつて、多くの野性動物の生息する豊かな森林が確かにあったのだ。

そんなタイの森林に異変が起こり始めたのは19世紀初頭のことだった。ヨーロッパの列強が地球規模で木材の確保に乗り出したのだ。当時ヨーロッパの森林は開拓や木材需要の増加によって目に見えて減少していて、すでに木材資源の枯渇が大きな問題になっていた。特に植民地全盛時代をむかえ、大型の輸送船や軍艦を造るための木材の不足が深刻化していたのだ。

かくして17世紀半ばになり、すでに造船に使用できる木材を国内で確保することが難しくなっていたイギリスは、まずスカンジナビアやロシア、バルト海の沿岸から大量の木材を調達し始める。しかし17世紀後半になるとヨーロッパの主要な港の周辺の森林はすべて伐りつくされ、新たな木材を求めるにはさらに奥地へ入ることを余儀なくされていた。

そこでイギリスは次に北アメリカからの木材の調達にのりだすのだが、これも18世紀末になるとニューハンプシャー州の主要な河口付近の森林はほとんど姿を消してしまう。

そして19世紀初頭。北アメリカにつづいて木材の調達を行なっていたカナダにおいてもすでに海岸や河口付近の森林が伐りつくされると、いよいよイギリスはここタイの森林に目を向けることになる。こうしてタイの森林から伐り出された膨大なチーク材が、はるばる海を渡りイギリスをめざすことになったのだ。

実はこの「チーク」と呼ばれる、ここタイに自生するクマツヅラ科の高木は、極めて大きな強度と優れた耐久性をかねそなえた、まさに船材として最適なものだったのだ。しかしトラックはおろか道路すらなかった当時、この比重の重い大木を山地から伐り出し運搬するには相当な労力を要したのだ。

その最盛期、タイでは数万頭ものゾウが作業に従事させられていたらしい。伐採されたチーク材はまずゾウに牽かせ山から下ろし川まで運ばれた。そしてそこから川に浮かべられ、支流から本流へと、チャオプラヤ河をはるか河口のバンコクまで流されたのだ。

しかしこんなふうに言葉にするのは簡単だが、実際の作業は我々が思い描くよりもはるかに大変な作業だったのだ。なにぶんにも流されるのは小さな笹舟などではなく巨大な木材なのだ。

必然的にその作業の多くは、川が水量を増す雨季に行なわれるものの、いくら雨季とはいえ、途中、何らかの障害によって木材の流れが止まってしまうこともあった。そんな時はまたゾウを使い、流れなくなってしまった巨大な木材を引き戻し、押し流し、こんなことを何度も何度も繰り返しながら、下流へ下流へと流していったのだ。

山から伐り出された1本のチーク材がバンコクの河口まで辿り着くには、なんと平均4〜5年もの歳月を要したらしい。現代からは想像もつかない気の遠くなる話だ。

こうして19世紀初頭、ヨーロッパ列強の侵食によって異変が起こり始めたタイの森林は確実に、しかも急速に減少し始める。そしてさらに、この国の米による国際市場への進出が始まり水田需要が爆発的に増大すると、いよいよこの国の森林は壊滅的な事態をむかえることになるのだ。

ある資料によると、タイの森林は1961年の時点で全土の52パーセントにまで減少しており、それからまたわずか30年たらずの間に26パーセントにまでも減少してしまっている。

実はそんなタイ全土の中でも最も森林の減少の激しかったのが、ここタイの東北イサーンなのだ。1961年の時点で42パーセントにまで減少していたイサーンの森林は、1973年になると30パーセントにまで減少し、1982年には15パーセントに、そして1993年には、なんと12パーセントにまでも減少してしまっている。

すなわちここイサーンには、太古から途切れることなく続いてきた人間と自然との関わりにおけるひとつの答えが、現実の風景として広がっているのだ。


ふと隣を見ると、先ほど止まった大木の下から少年たちと入れ替わりにソンテウに乗り込んできた親子は、寄りかかってスヤスヤと眠る子供の肩をやさしく抱きかかえながら、母親もまた居眠りをし始めていた。

この小さな子供が大人になる頃、このあたりはいったいどうなっているだろう。あの大木は、まだあそこで無数の木の葉を風に揺らしながら、涼しい木陰を落としているだろうか。

またあの大木が、かつてのように多くの木々に囲まれ空いっぱいに枝を広げる日が、はたしてこれからやってくるだろうか。もしも未来にそんな日が本当にやってくるとすれば、それは我々人間がこの地球上から消え去った後のことなのかもしれない……。


   *


「マジ熱かったですよねえ。足の裏、火傷してないかなあ?」

彼が生っ白い足の裏をながめながらひとりブツブツ言っている。

タートパノムの基壇は純白の大理石が敷き詰められている。そしてそれが熱帯の強烈な陽射しに灼かれ、あたかも燃え盛る業火を踏みつけているように熱いのだ。

「信仰心もない邪悪な下心で聖地を汚すからそんな目にあうのさ」

「ヒドいなあ。隊長の足の裏だって真っ赤じゃないですか!」

「これはね、なにもタートパノムに限ったことじゃなくて、このあたりの国の聖なる寺院の中では裸足にならなくちゃいけないんだ。それにしても熱かったよなあ?」

「ほらね!」

我々は涼しい木陰のベンチでひと息ついた。ふと見上げると、ここに涼しい木陰を提供している大木の枝先では、無数の木の葉がサラサラとメコンの川風に揺れていた。そして目の前には、白亜の巨大な仏塔が熱帯の強烈な日差しに黄金の火炎を壁面に踊らせ、紺碧の大空に高く聳えている。タートパノムだ。


タートパノムは9世紀末から10世紀初頭にかけて、仏教に帰依する多くの王たちの支援を受けて完成したと言われていて、その創建をはるか1500年前にさかのぼる説もある。この聖なる仏塔の伝承に関しては一般にタートパノム縁起と呼ばれている、古ラオ語によって綴られた『ウランカタート』が今日に伝わっている。

それによると、まずブッダがはるばるインドから空を飛びこの地へやってくることに始まり、この地で人々からの篤いもてなしを受けたブッダは、「やがてこの地に仏教に帰依する王が現れ、国を建て、その国は繁栄するであろう」と彼らに告げる。

こうしてブッダが入滅するとブッダの十大弟子の第一であるマハーカーシャパ、すなわち摩訶迦葉がブッダの胸の骨を携えこの地を訪れ、こうして恭しくもブッダの遺骨を納めたこの聖なる仏塔タートパノムが建てられたというわけなのだ。タートパノムの「タート」とはブッダの遺骨を意味し、タートパノム縁起の「ウランカタート」とはブッダの胸の骨を意味している。


そして事件は起こった。それは1975年8月11日の夜のことだった。

雨季の夜の逃げ場のない真っ暗闇。その陰欝な闇の奥から大河メコンの騒めきが聞こえていた。折からの豪雨に水面は低い雨雲から落下する大きな雨粒に波打ち、いよいよ水嵩を増し膨張し始めたメコンは1本の黒い巨大なうねりとなって闇の底を這い回っていた。木々の緑に飲み込まれた大地も、人々の慎ましやかな家屋も、何もかもが雨の下にあった。

その瞬間である。あたりを埋めつくす深い闇の奥から、あたかもこの世の終焉を思わせるような不気味な地響きがメコンの両岸を震撼させた。タートパノムが豪雨の中、一瞬にして粉々に砕け倒壊してしまったのだ。その高さ52メートルにもおよぶ巨大な仏塔はまさに一瞬にして瓦礫の山と化した。

それを聞きつけた人々は直ちに崩れはてた仏塔の周りに駆けつけ、そのあまりにも悲惨な光景に地に伏し号泣したという。原因は不明。この謎の惨事を人々は凶変の兆しとして恐れ嘆いた。


現在ここに聳える仏塔は、1979年、時の王ラーマ9世プミポン・アドゥンラヤデートの命により再建されたもので、以来、再びこの仏塔に信徒の香煙の絶えることはない。

仏塔は時代によって、そして民族によって、様々な様式が生み出され、タートパノムはラオス特有の様式の中にチャムパーやクメールなどの様式が渾然と入り混じっていて、これを特別にタートパノム様式と呼んでいる。

主に仏塔は下段から順に、台座部、覆鉢部、傘竿部の3つの部分に分けることができる。タートパノムの台座部は四角柱で、ここだけは赤みを帯びた煉瓦造りになっていて、各面の中央には見事な細工を施した重厚な扉がある。そしてその上部、白亜の覆鉢部は台座部と同様に四角柱で、最上部の傘竿部はラオス特有の優美な曲面を持つほっそりとした四角錐になっている。各面には呪術的な黄金の装飾文様が光り輝き、この仏塔には約110キログラムの黄金が使われているらしい。


このようにして様々な様式を生み出した仏塔だが、そもそも仏塔は日本の五重の塔もその例外になく、古代インドの宇宙観による聖山、須弥山を具現化したものなのだ。

インドでは古くから宇宙の構造や生成に関する論議が盛んに行なわれていて、『リグ・ヴェーダ』の中にもその熱い研鑽の痕跡が見て取れる。『リグ・ヴェーダ』とは、バラモン教、および後のヒンドゥー教の根本聖典だ。この「ヴェーダ」という名称は「知る」を意味する言葉を語源としていて、聖句マントラを集めた古聖典の総称なのだ。ヴェーダは、『ヤジュル・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ』、そして『リグ・ヴェーダ』の4種を数え、『リグ・ヴェーダ』はこれら4種のヴェーダの中でも、最重要かつ最古のものとされ、その起源は遠く紀元前十数世紀にまでさかのぼると言われている。

そこには宇宙創成をうたった数々の劇的な哲学的詩編が綴られていて、その宇宙観は、やがて同じインドという大地から生まれる仏教を始めとする数々の宗教教理の中でさらなる発展をとげるこにとなるのだ。そしてそれらの宇宙観に共通しているのが、宇宙の中心に地から天へ貫く聖山を据えていることだ。すなわちそれが「メール山」で、後に漢字音写され「須弥山」と呼ばれた。


仏教では5世紀にインドの仏僧ヴァスバンドゥによって著された『倶舎論』の中で、須弥山を取り囲み広がりゆく大宇宙が壮大なスケールで具現化されている。その仏教の宇宙観によると、まず須弥山の高さは8万由旬とされている。「由旬」とは古代インドの距離を表す単位だ。

ちなみに古代インドに開花した文明は、インカとともに「0」を用いた最古の文明だということが知られているが、「アラビア数字」と呼ばれている今日ごく一般的に使われている数字もまた、インドのグワリオール数字を起源として生まれたもので、実は古代のインド人は世界有数の極めて高度な数学的知識を持っていたのだ。彼らはこういった知識をもとに身の回りのものから神話、空想の世界にいたる、ありとあらゆるものを数に置き換え表現していて、古代インドの空間や時間を表す単位の豊かさは、その数字の桁外れな大きさと共にまさに目を見張るものがある。

須弥山の高さを表すこの由旬という単位は、現代の単位に換算すると1由旬およそ7.4キロメートル。ということは須弥山の高さ8万由旬は約56万キロメートルになる。ちなみに地球から月までの距離が約38万キロメートルということは、須弥山という山がとてつもない高さだということがわかる。


須弥山は金、銀、瑠璃、水晶の四宝でできていて、その形はタートパノムと同じく四角柱で、中央がくびれた砂時計のような形をしている。

ちなみに太陽と月はこの須弥山の中腹をめぐっている。しかし廻っているとは言っても、そのまま宙に浮遊しているのではなくて、太陽も月もそれぞれ天宮の中に納まり、その天宮が須弥山の中腹を廻っているのだ。太陽の天宮には火の車輪があり、月の天宮には水の車輪がある。

そしてこの須弥山の中腹には、おびただしい数の諸天の居所が連なっている。この場合の「天」というのはいわゆる「神」のことを意味していて、それら建ち並ぶ諸々の天の居所の最上部には四天王が居を構えている。四天王とは四方を守護する、東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天の四天のことだ。これらの天はもとはインド古来の神だったのだが、仏教はそういう意味では実に寛容な宗教で、他宗教の神を否定するどころか、このように積極的に採用しているのだ。

こういった寛容さと言うか、曖昧さと言うか、悪く言えばいいかげんな性質は何も仏教に限ったことではなくて、アジアの宗教では、むしろ「包容と調和」はいたって自然な現象だったのだ。たとえば 日本の七福神にしてもしかり。七福神とは言わずと知れた、恵美須、大黒天、弁財天、毘沙門天、福禄寿、寿老人、布袋の七神のことだが、恵美須はわが国の神道の商売繁盛と海運守護の神で、大黒天はインドのヒンドゥー教の破壊神シヴァ、弁財天もインドのヒンドゥー教の水の守護神で、毘沙門天はインドの財宝の神、そして福禄寿と寿老人は中国の道教の長寿の神で、最後に布袋はなんと中国の仏教の禅僧なのだ。

もちろん包容と調和はあの宗教の坩堝インドにおいてもしかりで、たとえばヒンドゥー教ではなんとブッダも神ヴィシュヌの化身のひとつとされていて、インドでは仏教をヒンドゥー教の一派だと思い込んでいる人々すらいるのだ。この辺が多神教のなんとも大らかなところだ。


そんな諸天で賑わう須弥山の山頂は、1辺が標高と同じ8万由旬という、これまた桁外れの大きさで広がっていて、そこには三十三天の居所「忉利天」があり、中央には帝釈天、すなわちバラモン教で言うところのインドラ神の居所「殊勝殿」が絢爛と光り輝いている。

そしてこの須弥山の上空に「天界」が広がり、そこにまた数々の諸天の天宮が浮遊している。

須弥山山頂より8万由旬上空に夜摩天の天宮があり、さらにそこから16万由旬上空に兜率天の天宮が、さらにそこから32万由旬上空に楽変化天の天宮があり、またさらにそこから64万由旬上空に他化自在天の天宮がある。須弥山山頂からこの他化自在天の天宮までの総距離は120万由旬、なんと約840万キロメートルとなる。

「欲界」。まずここまでの世界をそう呼んでいる。ようするに須弥山やここまでの天界に居所する諸天は、神とは言えども、いまだ欲望のとらわれから解放されていないのだ。実際に須弥山山頂の地図を開いてみると、そこには今で言うところのレストランやブティック、はてはキャバレーまでも並んでいて、そういう意味で仏教の神は実に人間臭いのだ。

しかし、より上空に居所する諸天ほど欲望のとらわれからの解放がすすんでいて、須弥山山頂までの諸天が人間と同様、性器の挿入なくしては欲望を解消できないのとは異なり、その上空の夜摩天は軽く抱くだけで、その上空の兜率天は手を握るだけで、その上空の楽変化天は微笑しあうだけで、そして一番上空の他化自在天はただ見つめあうだけで欲望を解消できるとされている。


また、この欲界の上空にはさらに「色界」「無色界」と呼ばれる天界が広がり、それらを欲界と合わせ「三界」と呼んでいる。

色界は欲界の上空、須弥山山頂より248万由旬、約1736万キロメートル上空から始まり、1677億7208万由旬、約1兆1744億456万キロメートル上空まで広がっている。

ちなみに「有頂天」という言葉はこの色界の最高所のことを指している。ようするにここが我々人間にとっての考えうるてっぺん、天上の極みということなのだ。

この色界は欲界とは異なり、欲望のとらわれより解放されてはいるが、いまだに形を有するものの天界だ。実は我々人間も、正しい修行をつみ欲望のとらわれより解放されると、ここへ昇ることができるとされている。この、人間が各々の行い次第で神よりも高いステージに昇格されるという仏教の宇宙観は、神の存在を絶対とするキリスト教やイスラム教の信徒にとっては想像を絶することに違いない。

そして無色界は、欲望もなく、形もなく、もはやただ純粋なる精神のみが存在する天界だ。その場所も欲界や色界のように上下関係で表すことはできず、まさに無色界は空間の概念をも超越した存在なのだ。


また須弥山は、「山」という言葉がついている通り確かに山で、山には頂があれば、当然、麓もある。しかし須弥山の麓は、満々と湛えられた水の底に没している。その水深は、須弥山の高さと同じ8万由旬、ようするに地球から月までの距離よりも深い。

この水は円筒型をした「金輪」の上に湛えられていて、金輪の厚みは32万由旬、約224万キロメートル、直径は120万3450由旬、約842万4150キロメートルある。金輪の縁は「鉄囲山」という山脈によってぐるりと取り囲まれていて、これによって水が外にこぼれ落ちないようになっている。須弥山はちょうどその中心に水面から天空に向かって突き出ているのだ。

そして金輪はまた、同じく円筒型をした「水輪」の上にのっている。水輪の直径は金輪と同じで、厚みは80万由旬、約560万キロメートルある。

ちなみに「金輪際」という言葉は、この金輪と水輪との境目のことを指している。ようするにここが我々人間にとっての考えうる行き止まり、限界ということなのだ。

さらに水輪は、同じく円筒型をした「風輪」の上にのっていて、風輪の厚みは160万由旬、約1120万キロメートル、その円周はまた桁外れに大きなもので、10の56乗由旬、すなわち約700,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000キロメートルもあるのだ。まさに我々人間の感覚で想像しうる距離の限界を、はるかに超えた巨大さだ。


では、いったい我々人間はその宇宙のどこに住んでいるのか。我々が住んでいるのは「贍部州」という島なのだ。

須弥山のまわりの満々と水を湛える大洋の中には、「七金山」と呼ばれる環状の七つの山脈が、ちょうど水の波紋のように須弥山を取り囲んでいて、その七金山の外側に四つの島がある。東に「勝身州」、西に「牛貨州」、北に「倶盧州」、そして南に「贍部州」だ。これらの島は形と色がそれぞれ異なっていて、勝身州は半月形で黒、牛貨州は円形で赤、倶盧州は正方形で黄、贍部州は台形で青となっている。

この我々の住んでいる贍部州の青という色が、「地球は青かった」とガガーリンに言わしめたあの青と何らかの関係があるのかどうかは分からない。なにぶんにもこれは古代インド人の考えた話だ。しかし、もしかすると彼らは我々の地球が青いという事実を知っていたのかもしれない、そんな空想が違和感なく思い描けてしまうことが、この古代インド人の宇宙観の中にはあるのだ。

実は我々の住んでいるとされているこの贍部州の形は、台形と記されてはいるが、実際はほとんど逆三角形に近い形をしている。ではなぜ我々の住んでいる贍部州は逆三角形なのか。それは、この宇宙観がインド人によるものであることを考えれば、おのずと見えてくる。

そう。贍部州はインド亜大陸の形になっているのだ。おまけに贍部州の南海上には、東西一対の小島も表されていて、東の島は「遮末羅」、西の島は「筏羅遮末羅」と呼ばれ、西の島はもちろん現在のスリランカを指し、東の島はモルディブ諸島あたりを指すと言われている。飛行機もロケットもなかった古代のインド人が、自分たちの住んでいる大陸の形をここまで知り得たという事実は、まさに驚異としか言いようがない。

ところが贍部州はその形以外にも、インド亜大陸に類似した多くの要素を備えている。まず贍部州の北には「雪山」と呼ばれる雪を頂いた峨々たる山脈が東西に連なっている。これはもちろんヒマラヤ山脈だ。雪山の北にはまた「香酔山」と呼ばれる高峰が聳えていて、これはチベット高原にあるカイラーサ山を指していると言われている。香酔山には、芳しい香を発する樹木が生い茂り、その香を食べて生きている歌舞音曲を司る神たち、乾闥婆や緊那羅が住んでいる。

そして香酔山の麓には、8種の特性を具える清水を湛えた「無熱悩池」と呼ばれる巨大な湖があり、これはカイラーサ山の傍にあるマナサロワル湖を指していると言われている。8種の特性とは、甘い、冷たい、軟らかい、軽い、清い、臭いがない、喉を損なわない、腹を痛めないの8種だ。

またこの無熱悩池からは、4つの動物の口から大河が四方へ流れ出している。東の銀の牛の口からはガンジス河が、南の金の象の口からはインダス河が、西の瑠璃の馬の口からはアムダリヤ河、北の水晶の獅子の口からはシータ河が流れ出している。


そしてこれら須弥山、天界、金輪、水輪、風輪がもろとも「虚空」の中に浮かんでいるのだ。虚空は無辺、無量、無為で一切の変化をもたない。しかしこの虚空に浮かぶ宇宙は、全宇宙のほんの一部でしかなくて、これを「一世界」と呼んでいる。全宇宙にはこの一世界がまた気の遠くなるほど存在していて、一世界が千個集まった宇宙を「小千世界」と呼び、その小千世界がまた千個集まった宇宙を「中千世界」、さらに中千世界がまた千個集まった宇宙を「三千大世界」と呼び、須弥山を取り囲む仏教の大宇宙はどこまでも果てしなく広がっているのだ。

すなわち中腹に太陽と月がめぐる宇宙の中心に聳える須弥山、それがこのタートパノムというわけなのだ。


「そういえば、この中にブッダの胸の骨があるんでしたっけ?」

ふと目をやると、タートパノムの純白の基壇の上で、善男善女が黙々と祈りを捧げているのが見えた。手向けられた香煙がメコンの川面を渡る午後の微風に揺らめき、それが陽炎のように静かに青い天空へと立ち昇り、何もかもが白昼の聖なる沈黙と祈りの中にあった。

「らしいね。まずブッダが入滅して荼毘にふされると、ブッダの遺骨が8つに分割された。その8つの遺骨はブッダと因縁の深かった8つの部族に分け与えられ、また他の2つの部族にはそれぞれ骨壷と遺灰が与えられ、こうしてインドに10基の仏塔が建てられたんだ。そしてそこに社会科の授業で出てきたインドのアショカ王が登場する。彼がその10基の仏塔の中からブッダの遺骨を集め、それを84000に分割して各地に84000の仏塔を建てたらしいんだ」

「アショカ王が登場するところまでは良かったけど、84000って、なんたがどんどん話が奇想天外になって嘘っぽくなってくるじゃないですか」

「まあ、そもそも伝説なんてそんなもんだ。日本の五重の塔にしたって、はたしてその中にブッダの遺骨や遺品か納められてるのかといえば、それは伝説の域を脱してない。キリスト教でも、キリストが処刑された十字架や手足に打ち込まれた釘、そしてキリストの脇腹を刺したロナギヌスの槍やキリストの遺体を覆った聖骸布が現存してるってされてるけど、それも同じく確証と言えるような説得力はない。でもその人物の存在が偉大だったからこそ、その遺徳を繋ぎとめようっていう熱い想いが、残された人々にそういった伝説を作らせたんだ。そういえばベルギーのブリュージュにある礼拝堂にキリストの血が納められてるらしい」

「キリストの血ですか?」

「まあ、そもそも宗教は疑うものじゃなくて信じるものだ。ガンジスの川の水が、ルルドの泉の水が、H2Oだって証明されたところで、そんなことは何の意味もない。でもね、仏塔に関してはまんざら架空の作り話じゃなくて、確かにブッダの遺骨が納められてたんだ。19世紀にイギリス人がインドで行なった発掘調査によって、骨の入った壺と文字が刻まれたプレートが発見されてる。そのプレートの文字を解読した結果、その骨がブッダの遺骨だって分かったんだ」

「それってスゴいことじゃないですか。そのブッダの遺骨って今どこにあるんですか?」

「それがね、ブッダの遺骨とプレートはインドの博物館にあって、遺骨の一部はタイの王室に贈られ、またその一部がなんと日本の名古屋にあるんだ」

「名古屋に……?」


「タイのお坊さんって、みんな同じなんですね?」

タートパノムの境内を行き交っている僧侶を眺めながら、彼が妙なことを言った。

「同じって?」

「だって、若いお坊さんも歳とったお坊さんも、みんな同じものを着てるじゃないですか。日本なら偉いお坊さんって見るからに高そうなものを着てて、誰から見ても偉いんだって分かる」

「そういう見方、これまで僕は一度もしたことなかったけど、言われてみるとそうだよな」

「でしょ?」

「確かにタイではね、国王の葬儀を行う僧侶もみんな同じあの木綿の僧衣を着てる。もしかすると偉くなると上質な絹の衣を着て、金糸銀糸で織られた豪華な袈裟を身につける僧侶って、日本仏教の僧侶だけなのかもしれないよな。だってダライ・ラマだって特別に豪華な僧衣なんて着てない」

「アッ、そうだ」

「タイの僧侶はね、三衣一鉢って言って、基本的に3枚の衣と1つの鉢しか所有してないんだ。下半身に巻く腰衣と上半身に身につける胴衣、そしてもうひとつは肩に掛けてる広い布で、素材はすべて木綿。一揃い、ああいう黄色をしてる。あの黄色は、誰にも顧みられない、汚れて捨てられた布の色として、彼らの無欲を表してるんだ。ちなみに肩に掛けてる布は日本の僧侶が掛けてる袈裟にあたるもので、彼らはいつも基本的に右肩を露出させてる。それは奉仕するってことを意味してるんだけど、托鉢する時なんかはその布で両肩を覆ってる。それはブッダに代わって行ってるってことを意味してるんだ」

「一見ただの木綿の布みたいに見えるけど、ちゃんと意味があるんですねえ」

「やはりタイの僧侶のあの粗末な木綿の衣は清貧のあかしなんだよな。ブッダが生きてた時代も、僧侶に要求されてたのはやはり清貧だった。ブッダが制した227の戒律の中でも、繰り返し繰り返し僧侶は清貧であれって戒めてる」

「戒律、227もあったんですか?」

「戒律って言葉は戒と律との合成語で、戒は仏教徒のひとりとして個人的に守るべき規則を指し、律は仏教教団の一員として集団的に守るべき規則を指してるんだ。そのブッダが制した227の戒律はパーティモッカって呼ばれてて絆を意味してる。ようするに僧侶はこの絆によって聖なる共同体として結ばれてたんだな」

「へ〜え」

「ブッダはね、弟子のアーナンダに、私の亡き後は私の説いた教えと私が制した戒律がお前たちの師となるであろうって告げ、沙羅双樹の下で入滅したんだ。そして5世紀のインドの大学僧ブッダゴーサも、戒律は仏教の命であり、戒律の在るところ、すなわちそこに仏教があるって言った。ようするに仏教の戒律っていうのは単なるルールじゃなくて、戒律は僧侶の修行の根本を成すものであると同時に、また僧侶の存在の根本を成すものなんだ。だから僧侶は、戒律を守る者であるがゆえに僧侶として存在してるのさ」

「これまで意識して考えたことなかったけど、実は仏教の僧侶ってそういう存在だったんですね」

「もちろん僕は目に見えるものしか見てないけど、タイの僧侶は誠実に戒律を守り、またタイの社会も戒律を守る僧侶を誠意をもって支えてるって感じがするんだよな。たとえば僧侶は女性の体に触れることが禁じられてるから、女性が僧侶に捧げ物をする時は床に敷かれた長い布の端に捧げ物をのせ、僧侶はその布をスルスルと手繰り寄せて捧げ物を受け取るんだけど、混雑したバスの中では僧侶が女性の体に触れないように、男性の乗客たちが僧侶を取り囲むっていう連携プレーも行われてるらしい」

「マジですか?」

「それに一昨日バンコクの空港待合室に僧侶がいたけど気づいてた?」

「ア〜っ、はい」

「その僧侶にはひとり同行者がいた。実はブッダが制した戒律によって、ひたすら清貧であることが求められてる僧侶は、金銭に手を触れることも禁じられてるんだ。だからタイの僧侶は乗り物に乗る時は必ず男をひとり同行させてて、その男が金銭に触れられない僧侶に代わって運賃を支払ってるのさ。もちろんそれは乗り物に乗る時だけじゃなくて、買い物をする時なんかも僧侶は必ず男をひとり同行させてる」

「スゴいですね。その徹底ぶりって」

「そもそも僧侶っていうのは宗教の領域に存在してるんだから。僧侶はカウンセラーとは違う。僕は僧侶とカウンセラーの根本的な違いは、365日、24時間だって思ってるんだ」

「365日、24時間?」

「そう。やはりタイの僧侶が今もなお人々の信仰の対象であり続けてるのは、ブッダが制した戒律を守り、頭を剃って煩悩を断ち切り、ひたすら清貧に徹し、それはもちろん信徒の見てる前だけじゃなくて、365日、24時間、ずっと聖職者であり続けてるからなのさ。だから信徒は僧侶に手を合わせるんだ」

「確かに。カウンセラーには手を合わせない」


   *


タートパノムの正門はメコンに向かって開いている。これはタートパノムに限ったことではなくて、このあたりの寺院の正門はすべてメコンに向かって開いているのだ。したがって正門を出てまっすぐ進むとメコンに突き当たる。


ようやく足の裏の火照りが治った我々は、タートパノムの脇の門から外へ出た。するとそこに数軒、屋台が出ていた。

「おい、あれ買ってこよう」

「ちょっと待ってください。こんなところであんなもの買っていったいどうするんですか?」

彼が僕を思いとどまらせようと慌てて後を追って来た。

「ホテルの部屋でペット飼うなんて話、聞いたことないですよ。まさか食べるんじゃないでしょうねえ」

「おい、誰が食べるんだ……」

屋台の軒先には小さな鳥が入った小さな竹の鳥カゴと、小さな魚が入った小さなビニール袋がいくつも吊り下げられていて、足元の大きなタライの中には亀が入っていた。そこで僕はとびっきり可愛い鳥と魚を選んで買った。そして傍で唖然として見入っている彼に鳥カゴを手渡した。

「いいか。ここで鳥カゴを開けて、鳥を放してやるんだ」

「エ〜っ、なんでですか。せっかく買ったのに」

「タムブンだ」

「タムブンって何ですか?」

「良いことをすれば、良いことが返ってくるってことさ」

「ヘ〜え。と言うことは、僕がこの鳥を放してやって良いことをすると、僕に良いことが起こるってことなんですね?」

「そういうことだ」


タムブンの「タム」は行い、「ブン」は功徳を意味していて、タムブンは功徳を積む、善行を行うことを意味している。そしてタイ人の日常生活は何もかもがタムブンだと言っても過言ではない、それくらいタムブンはタイ人の心に浸透しているのだ。

たとえば敬虔な仏教徒であるタイの人々にとっては、出家することが最も高い功徳とされていて、それはまた我が子を出家させた親にとっても高い功徳になるらしい。そこで親が亡くなり葬儀を終えた後、亡くなった親がより良い来世へ生まれ変われるよう、親の功徳を積むためにその子供が出家するということが今でも行われている。

もちろんタムブンの根底にあるのは輪廻だ。

輪廻「サンサーラ」という言葉は「流れる」「廻る」といったことを意味するサンスクリット語を語源としていて、まずこの思想の基本は霊魂の存在というものを絶対肯定することにある。霊魂は人間の存在の本質であって永久不変なのだ。したがって霊魂は死によっても滅することなく存在し続ける。

そしてこの輪廻にもうひとつの思想「業」が加わると、いよいよ人間の現世での生き方そのものに多大な影響を及ぼすことになるのだ。

業「カルマン」という言葉は「成す」といったことを意味するサンスクリット語を語源としていて、業は精神的作用も含め人間の行いのすべてを包括していて、さらに、それによってもたらされるであろう潜在的なことまでも引き込んでいるのだ。

こうしてこの生前の行い、すなわち業は霊魂によって担われ、死すと霊魂は業の善悪によってしかるべき来世へと生まれかわると考えられるようになっていった。ようするに我々人間は生前の行いが生む業という絶対的力によって常に来世を決められ、永遠に死と再生を繰り返していく。これが輪廻だ。


彼が鳥カゴから放した小さな鳥は、小さな翼を羽ばたかせて熱帯の大空に飛び立ち、あっという間にその大空の輝きの中に消えてしまった。

「隊長、じゃあその魚はどうするんですか?」

「この魚は、メコンに放してやろう」

こうして我々はふたり、タートパノムを背にしてメコンの川岸に向かった。


   *


メコンは今、熱帯の強烈な陽射しを受け1枚の延べた銀の薄板のように光り輝き、その輝きの中に遠く小さな漁の小舟が行き交っているのが見えた。漁の小舟のエンジン音が遠く微かに大河の水面を波立たせ、何もかもが高い青天の彼方に吸い込まれていく。白日のメコンは静かだった。


「おう、どうだった?」

メコンの川岸のガードに腰をおろし、そんな白日の光景をひとりただぼんやりと眺めていると、メコンに魚を放して彼が戻ってきた。

「ちゃんと放してやりましたよ。でもこういうのっていいものですね。ただ魚を川に放してやっただけなのに、水に入れた途端に魚が僕の手を振り切って泳ぎ出し、あっという間に川の流れの中に消えて行くのを見てると、なんでか僕までもすごく幸せな気持ちになりましたよ」

「そうか。それはよかった……」

しばらく彼とふたり川岸のガードに並んで座り、目の前の広大なメコンの流れに見入った。

「思えば僕、動物にも命があって生きてるんだっていう、そんな当たり前のことに、今日やっと気付かされたような気がした……」

メコンに放したあの小さな魚の行方に思いを馳せているのか、メコンに照り返す眩しい陽の光に彼の瞳が輝いて見えた。

「このメコン川にはねえ、イルカがいるんだよ」

「えっ?イルカって、あのイルカですか?」

「そう、あのイルカがいるんだ」

「海じゃないのに?」

「カワイルカだ」

「ヘ〜え」

「世界には、もともと海にいたイルカが川に迷い込み、長い歳月をかけて適応と順応を繰り返し、ついに川を棲かとしたイルカたちがいるんだ。このメコン川以外にも、アマゾン川にも、ガンジス川やインダス川にも、そして楊子江にもいる。でもね、そのどのカワイルカにもすでに絶滅のカウントダウンが始まってるんだ」

「そうなんですか?」

「そんなカワイルカの中で、もはや絶滅のカウントダウンが秒読みの段階に入ってるのが揚子江のカワイルカだ」

「揚子江?」

「中国にはかつて各地の川や湖にカワイルカがたくさん生息してたらしいんだけど、工業廃水や生活廃水の垂れ流しによる水質汚染によって彼らはどんどん姿を消していき、とうとう彼らの棲息地は楊子江の本流のみに押しやられてしまうことになったんだ。もっとも楊子江の本流でも、かつては河口の上海から上流までたくさんのカワイルカが棲息してたらしいだけど、今ではもうほとんど彼らの姿を見ることはない。そしてそんな彼らの絶滅にとどめを刺すだろうって言われてるのがダムなんだ」

「ダム?」

「揚子江の三峡ダムだ。この揚子江に巨大なダムを建設するっていう中国の国家プロジェクトによって、揚子江のカワイルカの命の最後の灯火が吹き消されるだろうって言われてる」

「可哀そう……」

「でもね、そんな風前の灯火と化した揚子江のカワイルカだったけど、パンダと並ぶ中国第一級保護動物として、国家を上げての保護活動が開始されたんだ。カワイルカ専門の施設が建設され、この希少な動物の人工飼育や人工受精に乗り出したのさ」

「よかったじゃないですか」

「ところが、いよいよこの中国第一級保護動物の保護活動を稼働すべく、施設に収容するカワイルカの本格的な捕獲作戦が開始されたんだけど、当初その施設で飼育されてたのはチイチイって名付けられたオスのカワイルカ1頭だけだったんだ。ある日、漁具にからまり頭に穴が開き体中が傷だらけになった子供のカワイルカが保護された。それがチイチイだった。ちなみにイルカの皮膚はすごく弱くて、傷つくと簡単に感染症を引き起こして死んじゃうんだけど、チイチイは奇跡的に回復したんだ」

「へ〜え」

「実は揚子江のパンダ救済作戦って名付けられたこのカワイルカの捕獲作戦は、かなり大規模に行なわれたにもかかわらず成果はいっこうに上がらなかったんだ。でもそんな絶望的な状況の中やっと1頭のメスのカワイルカが捕獲され、ツェンツェンって名付けられ施設での飼育が開始されたんだけど、ツェンツェンはわずか半年足らずで死んでしまう。そして捕獲作戦はその後も根気よく続けられたものの依然として成果は上がらず、チイチイは広い水槽の中で1頭、確実に歳をとっていったのさ。1999年に行なわれた揚子江のカワイルカの生息数の調査で確認されたのは、なんとたったの5頭だけだった。揚子江のカワイルカは直ちにIUCN、国際自然保護連合のレッドリストによって絶滅寸前種に指定された」

「もうヒドい話ですね。じゃあこのメコン川のカワイルカはどうなんですか?」

「メコン川のカワイルカもね、今、経済発展にともなう電力需要の増大によって、各国がメコン川のダム建設に乗り出そうとしてるから、まず間違いなく揚子江のカワイルカと同じ運命を辿るんだと思うよ」

「なんだか我々人間って動物たちにヒドいことやってるんですね……」

彼が急に真顔でこんなことを言った。


実際、我々人間はその長い歴史の中で多くの生物を絶滅させてきたのだ。ちなみに1600年以降に絶滅した生物の内、25パーセントは自然による絶滅、いわゆる進化のための絶滅だと考えられているが、残りの75パーセントは人間によってもたらされた絶滅だと考えられている。その人間によってもたらされた絶滅は、食肉のための乱獲、帽子の羽根飾りや毛皮のコートといった装飾品のための乱獲、狩猟などのレジャーの獲物としての乱獲、そして、人間が持ち込んだ異種の生物による二次的な絶滅だとされている。

たとえばハワイにいた鳥オオハワイミツスイは、島に侵入してきたアメリカの移民によって棲息地である森林を伐採され、そしてこの鳥の絶滅をさらに加速させたのは、その際に人間によって持ち込まれた疱瘡だったし、ラナイハワイツグミやキゴシクロハワイミツスイもまた、貿易船が運んできたマラリアを媒介する蚊によって絶滅した。

もっとも船が運んできたのはそういった病原菌だけではない。船の積荷の影にはネズミもいた。ハワイのとべない鳥レイサンクイナはアメリカの戦艦の寄港によって上陸したネズミによって、徹底的に卵やヒナを食いつくされて絶滅してしまったし、ニュージーランドの生きた化石と言われた鳥オークランドアイサも、捕鯨船の寄港によって上陸したネズミによって同じ運命を辿った。

またネズミだけではなくて乗客がペットとして連れてきたネコも、世界各地で生物の絶滅に加担することになる。ハワイの王族の王冠を飾った美しい羽根を持つ鳥ムネフサミツスイも、メキシコのグアダルーペ島のグアダルーペハシボソキツツキやグアダルーペコシジロウミツバメも、カナリア諸島のカナリアミヤコドリも、ネコによって絶滅へと追いやられた。

さらに彼ら人間は彼の地でも紳士としての嗜みを忘れないように、狩りの獲物にするための動物も持ち込んでいる。アナウサギだ。オーストラリアにイギリスから持ち込まれたアナウサギは、ミカヅキツメオワラビーの住みかを徹底的に掠奪して絶滅させ、この肉食動物のいないオーストラリアという楽園でアナウサギは爆発的に繁殖するのだ。するとアナウサギは彼ら人間にとって狩の遊び相手から突然、大切な農作物を荒らす天敵になってしまった。そこで彼らは今度、そのアナウサギを退治するために新たに本土からイタチやキツネを持ち込んだ。そして突如この楽園に出現した肉食動物は、確かに期待通りアナウサギの数を少し減らしはしたけど、同時にサバクネズミカンガルーやギルバートネズミカンガルーもがイタチやキツネの餌食となって絶滅し、隣のニュージーラントでもホオダレムクドリやワライフクロウが同じ運命を辿った。

そしてさらに大航海時代の我々人間は、出航の際、船上での食料として生きたブタやヤギといった家畜を同船させていのだが、やがてその家畜を次ぎに寄港する際の食料として島に放し始めたのだ。ようするに、次ぎの航海では手間のかかる生きた食料を同船させなくても、島に放した家畜をしとめるための銃さえあればいいというわけだ。するとヤギは島の植物を徹底的に喰いつくし、ブタもまた野性に戻すとイノシシに返るという習性から、雑食性のイノシシと化したブタは島の何もかもを喰いつくし、それによって島の多くの生物が絶滅していったのだ。

しかし現在、最も重大な問題として深刻化しつつあるのが、やはり何と言っても我々人間の環境破壊による絶滅なのだ。


「僕は動物園が大嫌いだった。そして今でも大嫌いだ」

「なんでですか?」

「もちろん僕はサルやキリンにも、カバにもペンギンにもなったことがないから、彼らの心の内を知る術はないけど、動物園って聞いて僕の頭に思い浮かぶの、それは哀れみでしかない」

「確かにそれ、なんとなく分かります。だって動物園って冷たい鉄格子に囲まれたコンクリートの山と池って感じですもんね。最近はよくテレビで自然に近いなんていうコンセプトの新しい動物園が取り上げられて話題になってるけど、あれだって所詮、我々人間の目から見るとただ自然っぽく見えるってだけのことであって、あくまでも自然じゃあないんですからね」

「なんでも聞くところによると、世界最古の動物園は3000年ほど前の中国の、周王朝の初代皇帝が作ったそれだっていうのが通説らしいんだ。彼が領土の各地から珍しい動物を集めて飼育し始めたのさ」

「そんな昔から動物園ってあったんですか」

「そしてそれ以後も王侯貴族を始めとする時の権力者たちが同様に、規模の差こそあれ、世界各地から珍しい動物を集めて飼育し始めた。ようするにそれも彼らにとっては所詮、絵画や彫刻といった美術品を集めるのと何ら変わらない、個人的な欲求を満たすためのコレクションにすぎなかったわけだ」

「いつの時代もお金持ちのやることは分かりやすい」

「そんな個人的なコレクションを公開した最も早い例は、18世紀のウィーンにあったハプスブルク家の夏の離宮シェーンブルン宮殿に造られた動物展示施設だって言われてる。マリア・テレジアの夫の皇帝フランツ・ロートリンゲンが、その自慢の展示施設の生きたコレクションを賓客を招いて公開したのさ。それがいよいよ現代の動物園みたいに一般公開し始めたのは、19世紀イギリスに作られたロンドン動物園だ。これはロンドン動物学会の研究資料収集施設として創設されたんだけど、現代の動物園はそのロンドン動物園の精神を継承してるってことになってる。そしてこれには主に3つの機能があるらしいんだ」

「3つの機能?」

「研究と教育と娯楽だ。研究は生きた動物を生きた研究材料として飼育すること。教育は生きた動物を見ることによって我々人間の知識を豊かにすること。そして娯楽はてっとり早く言えば見せ物だ。でも僕はどんな大義名分を掲げたところで、動物園ってものの存在は根本的に間違ってるって思ってる」

「なんでですか?」

「まずいくらそんな大義名分を掲げ、どう話をもっともらしく取りつくろったとしても、所詮それは我々人間の欲求を満たしたり、我々人間が利益を得るために、我々人間が動物を所有してるってことには変わりないからさ」

「なるほど」

「それに実際、少なくとも現代の動物園はもはや研究施設とは程遠い、動物をテーマにした娯楽施設に過ぎない。したがって娯楽施設である以上、動物園は遊園地と同様、娯楽施設としての厳しい現実と対峙しなくちゃいけないわけだ」

「厳しい現実?」

「そう。我々観客は実にわがままだ。珍しい動物や人気のある動物がいなければ途端に観客の足は遠のき、動物園は閉園の危機にさらされることになる。そこで動物園は常に、わがままな観客の好奇心を満足させられる動物を確保なくちゃいけないっていう必要性に迫られてるんだ」

「ア〜っ、確かに言えてますね」

「それに動物園っていうのは、快適な檻さえ作っておけばどこからともなく珍しい野生動物が集まってきて、彼らが檻の中で勝手に自炊して生活するなんていう甘い世界じゃない。まず動物園の動物は莫大な資金を使って商取引されるんだ。動物の値段はその動物の生息数や個体の大小、捕獲や輸送の難易度によって大きく左右され、当然、希少性が高ければ値段は一気に跳ね上がる。ある新聞社の調査によると、ホッキョクグマが約4000万円、インドサイが約3000万円、ローランドゴリラが約2500万円といったように、動物園の檻をうめるための動物の購入には億単位の莫大なお金が投入されてる。もちろんこういった動物の値段は年々どんどん上がっていく」

「スゴいですね、動物の値段って。そういえば中国に支払うパンダのレンタル料って、確か1頭あたり年間1億円もするんでしょ。それはパンダの生態と繁殖の研究のためなんだって言ってるけど、それをわざわざ外国の動物園が中国に何億円もの莫大なレンタル料を支払ってやるって、どう考えても変ですよね。本当にそんな研究が目的なら、研究はパンダが生息してる中国でやるべきじゃないですか?」

「まったくバカげてる。と、僕も思ってるけど、もしバカげでいなかったとしても、少なくともパンダに関しては、パンダ外交として中国政府に支払ってるその1頭あたり年間1億円のレンタル料は、当然、我々の税金から支払われてるわけだから、単に可愛いっていうだけの理由でそんな莫大な税金をパンダのために使って良いのか悪いのかってことは、やはり納税者としてちゃんと考えるべきだ」

「そうですよね。1頭あたり年間1億円ってことは、オスとメスのペアで年間2億円ですよ。2億円ってとんでもない金額だ。パンダ以外にもきっともっと有意義な使い道があるはずだって思う」

「それにね、最も大切なことは、パンダのことを本当に可愛いって思うんなら、その可愛いパンダにとっての一番の幸せっていったい何だろうってことを、我々は考えてやるべきだって僕は思うな」

「その通りですよね。ただ可愛いって騒ぐだけで、結局それって我々人間のエゴイズムに過ぎないのかもしれない」

「もちろんそれはパンダに限ったことじゃなくて、動物園のすべての動物にも言えることだ」

「確かに。改めて考えてみると、マジ、動物園の檻の中で生きてる動物って幸せなんですかね?」

「そして僕はね、動物園の掲げてる大義名分の中の教育にしても同じく疑問を感じてるんだ。かつてキリンやライオンは彼らが生息してるアフリカに行かなくちゃ見られなかった。でも映像メディアが発達した、テレビをつけると大自然の中で生きてる野生動物たちの迫力ある映像が簡単に見られるこの現代において、大自然の中から強引に捕獲してきた動物を動物園の檻やガラス越しに見せるってことが、いったいどれだけ素晴らしい教育になるのか僕には分からない」

「僕もそう思いますよ。だって動物園の動物って、観客に不快感を与える臭いも完璧に除去された狭い空間に入れられ、檻やガラス越しに公開されてるわけでしょ。そこにリアリティなんてない」

「はっきり言ってそれはただ、ひとつの生きた標本として餌を食べ、排泄し、眠り、そして標本として死んでいくだけだ。もしもそこから我々が学ぶものがあるとすれば、それはもう人間に飼いならされて生気を失った野生動物の哀れさ以外にはないんじゃないかって僕は思う。もしそうだとしたら、それは彼ら動物たちが強いられてる犠牲を考えれば、あまりにも軽すぎる大義名分じゃないのかってね」

「さっき隊長の言った哀れって意味よく分かりましたよ。そういえば飼いならされたって『星の王子さま』のキツネですね?」

「ア〜っ、僕もそれ大人になってから読んだよ。だから僕は、絵本好きの少女がそのまま大人になり、純真な心を持ったまま老いていくっていうような、少なくともそういう素直な大人じゃないから、あの本に出てくるバオバブは我々人間としか思えなかったし、何もかも否定的にとらえてしまったよ。でもね、作者のサン=テグジュペリにしたって、あの本を単なるメルヘンとして書いたんじゃないはずさ。でなきゃ、あえて飼いならすなんていう子供にとっては恐ろしい言葉は使わなかったはずだ」

「僕は小さい頃に読んでて、大学に入ってから読み返してみたんですけど、確かに小さい頃に読んでたイメージとはまったく違ってましたよ。だから僕もバオバブは人間だって思った」

「ヘ〜え。じゃあ、あの本をヒネくれた汚れた心で読んでたのは、僕だけじゃなかったってことか……?」

「ちょっと一緒にしないでください。僕の心は隊長みたいに汚れてませんから!」

彼が笑いながら否定した。

「キツネに関して言えば、そもそもあのキツネが登場する場面から、はっきり言ってメルヘンじゃない。だって王子さまが悲しいから遊ぼうって言うと、キツネが飼いならされてないからダメだって言うんでしょ。僕がそこを読んでまず頭に思い浮かんだのは、愛玩動物や家畜といった動物と人間との関係性だった」

「ア〜っ、そういう見方か?」

「その後もキツネは意味深なことを言い続ける。そしてキツネは最後に責任って言葉を使う。僕はこの言葉はいろんな意味での人間に対するキツネからの警告だって思わずにはいられなかった。もちろんサン=テグジュペリがそういう思想を持ってたのかどうかってことは僕には分からないけどな。僕はサン=テグジュペリの研究者じゃないから。ただ僕は字面を追って勝手に思い込んでるだけなんだ。だからあのキツネがどうしてリンゴの木の下にいたのかってことだって、僕は『旧約聖書』の創世記に出てくるエデンの園の知恵の木と結びつけたくてたまらない」

「なんだかそれってスゴい発想だ」

「だからあのキツネが言ったかどうかは分からないけど、この地球っていう星においてとうとう責任を持つべき立場になってしまった、そんな我々人間とっての責任ってことを考えると、動物園の掲げてる大義名分の中でも、何と言っても僕が間違ってるって思ってるのが種の保存なんだ」

「なんでですか?」

「だって考えてみろよ。種の保存っていう大義名分でもって動物園で飼育される動物っていうのは、そもそも我々人間によって破壊されてしまった自然環境の中で、その生存を危うくされ絶滅の危機に瀕した動物たちなんだってことさ。だから僕はね、種の保存なんていう大義名分でもってたとえ動物園の檻や水族館の水槽の中で絶滅の危機に瀕する生物が命を繋げたとしても、その彼らが帰るべき自然の森や川がなければそれは何の意味もないことだって思うんだ。たとえばこのメコン川にいるカワイルカが、メコン川の生息環境が破壊された後にどこかの水族館のプールの中でずっと生きてたとしても、それがいったい何になるって言うんだよ。あえてそこに意味を見い出すとすれば、それはもう生物学者や博物学者の達成感以外の何物でもない」

「その話すごく説得力ありますね」

「ちなみによく動物の生きる権利なんてことが叫ばれてるけど、そんなものなんてないんだ」

「そうなんですか?」

「そもそも権利っていうのは人間が認める人間の能力のことだ。動物が存在することはまさに大自然の大前提であって、我々人間が権利なんて言葉を使ってとやかく判断するものじゃない。でも我々人間はとうとう自然界の頂点に達してしまった。それはもう疑う余地のないことだ。だから今更そんな権利なんて言葉を持ち出して云々する以前の問題しとて、動物が生きていけるかどうか、それはすべて我々人間にかかってる。悲しきかなそれが現実だ。そして、そんな自然界の頂点に達してしまった我々人間は、その自然界に対する我々が負うべき責任っていうものを、これまでまったく考えてこなかったのさ。だからあのキツネが口にした責任って言葉を、我々は改めて考えてみるべきなんじゃないかなって思う」

「僕、もう一度『星の王子さま』を読まなくちゃ……」


「我々は普通、植物と自然を切り離して考えることはしないけど、動物も植物と何ら変わらない、動物と自然との関係も植物と同じく、プラスでもなくマイナスでもなく、すなわちイコールなんだ。だから、そもそも動物と自然とを切り離して考えること自体が間違ってるのさ。そして、もちろん我々人間もまた動物と同じく、この地球の自然から生まれ自然とともに存在してる。これはいくら科学が発達したとしても変えることのできないこの世の絶対的真理だ。したがって自然の破壊は、すなわち我々人間の破滅を意味してる。それを我々はしっかりと自覚しなくちゃいけない。たとえば今このメコン川の最後のカワイルカが死んだとしよう。そんなどこか遠くの川の生き物が絶滅したところで我々の生活にはまったく影響はない。でもね、それは自然界が発した我々への警告なんだってことを知るべきだ」

「僕も同感です!」

「とは言え、我々人間が動物と同じく、この地球の自然から生まれたってことを、まったく信じてない人もいるんだよな」

「そうなんですか?」

「じゃあ人間がサルから進化したんだって話を信じてるのか?」

「いきなり何を言ってるんですか。当たり前じゃないですか!」

彼が思わず吹き出す。

「それが当たり前じゃないんだよ。今も人間がサルから進化したって話をまったく信じてない人ってけっこういるんだ」

「今時、それってどこの誰なんですか?」

「アメリカ人さ」

「アメリカ人、進化論、信じてないんですか?」

進化論とはイギリスの生物学者チャールズ・ダーウィンが1859年に出版した『種の起源』の中で説かれている、生物は徐々に単純なものから複雑なものへ、下等生物から高等生物へと進化していったとする理論だ。

「進化論って今ではもう誰でも理解してるひとつの常識だけど、進化論が発表されたことによって、当時のキリスト教世界は大混乱に陥ったんだ。すなわちダーウィンの進化論は、聖書に説かれてる人間も動物もすべ神が一夜にして創ったんだって説を根底から否定することになったわけだ。そしてまた進化論が、人間は特別な存在なんかじゃなくて他の生物と同じなんだって証明したことによって、ダーウィンは神によって創造された特別な存在だとする人間の尊厳を傷つけ、唯一無二の創造主である神を冒涜したってみなされたのさ」

「ア〜っ、それって地動説を説いたガリレオが宗教裁判にかけられ、強制的に地動説を破棄するよう誓わされた事件と同じなんですね」

「そして20世紀をむかえたアメリカのテネシー州デートンの裁判所で、ある有名な裁判が開かれたんだ」

「有名な裁判?」

「スコープス進化論裁判だ」

「進化論の裁判なんですか?」

「被告はデートンの公立学校の生物教師スコープスだった。彼は州の定める法律を犯した罪で逮捕されたんだ。それは教師が聖書に説かれてる神による人間の創造を否定する説、すなわち人間は下等な動物に由来するっていう説を教えることを違法とするっていう法律だったんだ」

「かつてアメリカにそんな法律があったんですね」

「ようするにスコープスは学校でダーウィンの進化論を生徒に教えた罪で逮捕され起訴されたってわけなんだ。そしてなんと聖書の説く真理とダーウィンの説く理論のどちらが正しいのか、裁判所という司法の場で裁かれることになったのさ」

「それってかなりメチャクチャな裁判じゃないですか」

「実はアメリカっていう国は、プロテスタントの保守派から起こったキリスト教原理主義のとても強い国で、これは聖書に書かれてることは一字一句すべてが正しく、いかなる誤りもないんだっていう主張を大前提にしてるんだ」

「キリスト教原理主義?」

「そして裁判は全米の注目を集め、人間は神によって創られたのか、はたまたサルから進化したのかっていう白熱した議論が交わされたのさ。聖書の奇跡を讃える陳述が始まると傍聴席からアーメンの大合唱が沸き起こり、このモンキー裁判って呼ばれた大イベントには、チンパンジーの見せ物屋までも押し寄せた」

「スゴい」

「そして判決が下され、それはなんと進化論を学校で教えた生物教師スコープスの有罪判決だった。スコープスは罰金刑を言い渡され、これによって以後アメリカの学校からダーウィンの進化論はすっかり影をひそめることになったのさ。それはソヴィエトがアメリカの先手を切って人工衛生スプートニクを打ち上げたことによって、アメリカの学校教育の決定的な遅れにアメリカ人が気付かされるまで続いたんだ」

「ビックリ!」

「ところがね、進化論を学校で教えることに対する反感はその後も衰えることはなかった。あのドナルド・レーガンも大統領選挙の際、キリスト教原理主義者の多いテキサス州ダラスの聴衆を前にして、進化論はダーウィンが立てたただの仮説にすぎなくて、進化論は学界でも正しいって認められてるわけじゃないんだって演説してる」

「改めてアメリカってスゴい国なんですね。別の意味で」

「まあ、もちろん信じることは悪いことじゃない。誰にもあまねく与えられてる権利だ。実は何年か前もNHKのニュース番組で、この現代においてもなお進化論を学校で教えることを断固として反対し、それを違法として規制しようとしているアメリカ市民のドキュメンタリーを放送してた。その中でインタビューされてた市民の答えは、自分たちの祖先がサルだなんてことを子供たちに教えれば、人間としての自信を失わせ子供たちを傷つけることになるじゃないかっていう答えだった」

「僕はキリスト教徒じゃないからよく分からないけど、自分の先祖がサルだって聞かされたら、サルに親近感が湧いてきますけどね」

「実は僕も同感だ。でもね、21世紀を目前にしたある年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が歴史的に重大な発言をしたんだ。ローマ教皇がついに、ダーウィンの進化論は仮設以上の理論だっていう発言をして、事実上、進化論に対して歩み寄りをしたのさ」

「なんだか仮設以上の理論っていう、その表現がおもしろい……」


「そういえば我々人間に絶滅させられた北半球のペンギン、オオウミガラスの最後の1羽は、実は人間が食べたんじゃないんだ」

「そうなんですか?」

「ある年、彼らにとって致命的な出来事が起こるんだ。当時、彼らの最後の棲息地として知られてたアイスランドの小島の近海で海底火山の噴火が起こった。この噴火によって彼らの繁殖の場だった海岸線の岩場が崩れ落ちてしまったんだ。この出来事によってオオウミガラスの生存は絶望的になり、そのニュースが広く世界に知れ渡るとひとつおもしろい現象が起きたんだ」

「おもしろい?」

「そう。世界中の博物館やコレクターが我先にと、間もなく絶滅しようとしてるこの鳥の確保に乗り出したんだ。そこで棲息地の岩場が水没する直前に何羽かのオオウミガラスが近くの小島に逃げ延びてたってことが分かると、彼らと、彼らの卵に莫大な報奨金がかけられ駆り集められることになったのさ。もちろんこれはあくまでも陳列棚を飾る剥製にするためだったから、わざわざ生きたまま捕獲する必要なんてまったくなかった。こうしてある日その小島に1艚の船が繋留され、間もなくしてそこで卵を温めてた2羽のオオウミガラスが見つかった。そしてその2羽はその場で博物学の発展のために絞め殺され、これがこの北半球のペンギンの最後の2羽だったんだ。かくしてオオウミガラスは博物館の陳列棚に剥製と、南半球にペンギンっていう愛くるしい名前だけを残してこの地球上から消えてしまったのさ」

「ぜんぜん、おもしろくなんかないじゃないですか!」

ちょっとムキになる彼の顔がおもしろかった。

あたりを見渡すと対岸の上空の雲を真っ赤に染めながら、熱帯の太陽が我々の背後に傾きかけていた。そんな太陽の輝きを真っ赤に照り返し始めたメコンには、相変わらず漁の小舟が行き交っていて、またメコンの川岸を飛び回っているスズメたちの羽根の色も、赤く、少し見栄えのいい色へと変わり始めていた。

「ほら、あそこにスズメがいるだろ?」

「ほんとだ。スズメって日本だけじゃなくて、タイでもスズメなんですね?」

「タイ語でスズメのことを、ノッククラチョークって言うんだ。ノックは鳥で、クラチョークは見窄らしいって意味だ」

「ヘ〜え、ずいぶんとヒドい名前をつけられたもんですね」

「でもね、もしスズメにキレイなコバルト色の羽根があったり、美味しい胸肉があったら、もうスズメはとっくの昔に我々人間に絶滅させられてたかもしれない。そう考えると見窄らしい鳥っていうヒドい名前も、決して悪くないなって思わないか?」

「確かに!」

「じゃあ腹も空いてきたし、何か食べに行くか?」

「了解。今日はせっかく鳥を放してやって良いことをしたんだから、とりあえず今夜は僕、鶏肉は食べないでおきますよ」

「おい、その意味不明なイージーな発想って、なんて言うか……?」

刻々と傾き続けている熱帯の太陽は、メコンの川面とスズメの羽根をさらに美しく赤く染め始めていた。そしてこの日、タートパノムの門前の屋台で晩飯を食べ、再びソンテウに乗り込みようやくナコンパノムに帰り着いた頃には、もうすっかり夜になっていた。


   *


実はバンコクの航空会社のオフィスで咄嗟に彼を誘ってみようと思い立った時、僕はある旅のことを思い出していた。


それは大学3年の秋。僕はあの日、中国の成都の空港待合室で飛行機の搭乗を告げるアナウンスを待っていた。僕はやっとそこまでたどり着いたんだ。行き先はチベットのラサだった。

厳格な鎖国状態だったチベット。19世紀、それは世界探検の黄金時代、ヨーロッパの探険家たちがどうしても足を踏み入れることができなかったあの禁断のチベットが、やっと門戸を開き外国人を受け入れ始めた時のことだ。

もっとも外国人を受け入れるとはいっても、外国人がチベットを自由に旅をすることは許されていなかった。それはなにもチベットに限ったことではなくて、かつて外国人旅行者に門戸を開いたばかりの、ようするにまだ「観光」などというものに対して注ぎ込むだけの余力を持ち合わせていなかった社会主義国、中国もそうだったし、またヴェトナムやラオスもそうだった。当初の旅はいずれの国も個人での入国は禁止されていて、旅行者の出入国も、宿泊も移動もすべてを国家に管理されていた。 

これはある意味、至極当然のことだ。「バックパッカー」なんて呼ばれてる、お気軽に旅なんぞできてしまう外国の浮かれたお金持ちがゾロゾロとやってきて、何ひとつとして高額な外貨は落としてくれず、図々しくも民衆の生活と同じ安さで寝泊りし飲み食いする、そんな「疑似貧乏体験」なんぞされてしまっては、ただ民衆が惑わされるだけで国家としては何の利益もないのだ。

そこで僕は、辺境の地の旅を専門としているアメリカの会社が出した、香港のホテルにアメリカやヨーロッパからの参加者が集合してチベットへ入るという企画に申し込んだ。

実をいうとあの日、どんよりと曇った成都の空港で中国民航のチャーター機に乗り込む時、僕は一抹な不安をかかえていた。当時ラサの空港は整地されたただの空き地で、しかも空港には管制塔すらなかった。だから成都を飛び立って飛行機がラサ上空にさしかかり、もしも曇っていたら着陸できないから、そのまま成都へ引き返すと告げられていた。

しかし標高3600メートルの天上世界、チベットのラサはあの日一点の雲もなく、もう手を伸ばせば確かに届く、そんな思わず大声で叫びたくなりそうな真っ青な大空におおわれていた。こうしてあの日、夢にまで見た僕のチベットの旅が始まったんだ。


ちなみにこの企画にはオプションが用意されていた。それはダライ・ラマに次ぐ位のチベット仏教の化身、パンチェン・ラマの居所であるチベット第二の都シガツェに入るというオプションだった。オプションの料金は25万円だった。

でも僕はそのオプションに申し込んでいなかった。そもそも僕には無理だったんだ。チベットのラサに入るという企画だけで、すでに僕は100万円もの高額な料金を支払っていた。

参考までにこのアメリカの辺境の地の旅を専門としている会社の出した企画で、チベットは2番目に高額な行き先だった。じゃあ最も高額な行き先はいったいどこだったのか?そう、それは南極だった。当時、門戸を開いたばかりのチベットは、南極に次ぐ、そしてガラパゴス諸島よりも高額な行き先だった。

とんでもない金額だった。でもあのチベットがついに門戸を開き外国人を受け入れるという情報を入手した時、僕はなにがなんでも絶対にこの時期にチベットに入っておかなくてはいけないと思った。そこで旅行をするためにバイトをしてコツコツ貯めていたお金をかき集め、足らないぶんは親類縁者に頭を下げて借金をして、やっとの思いで100万円というお金を用意した。

だからもう僕には、さらに25万円ものお金を用意することはどう考えても無理だったんだ。とはいえ当時、たとえシガツェに入れなくても、もうあのチベットのラサに入るというだけで、まさにそれは奇跡だった。


この企画で香港のホテルに集まったアメリカやヨーロッパからの参加者は、大学教授や医師、会社役員といった裕福な人たちばかりで、大学生の若造は僕ひとりだけだった。そして当然、彼らは全員シガツェのオプションに申し込んでいて、オプションに申し込んでいないのは僕ひとりだけだった。だから僕は彼らがシガツェに行っている間、ひとりラサに残ることになっていた。

そして彼らがシガツェへ発つ前日。遠く地平の彼方に小さくポタラ宮殿が見える、何もない荒野の中にポツンと建ったラサ招待所の食堂で夕食をとっている時、参加者のひとりが突然こんなことを話し始めた。

「大学生の君がこの高額な企画に参加するのは、おそらく大変なことだったんだろう。でも今この時期にラサまで来ていて、シガツェに行かないというのは絶対に間違っている。君はきっといつか、ラサまで来ていてシガツェに行かなかったことを後悔するはずだ。私たちは君を後悔させたくない。だからみんなで相談して君のオプション代は私たち全員で出すことにした。もう手配はすでに終わっている。だから明日の朝、私たちと一緒に君もシガツェに行きなさい」

僕はその時、この予想もしていなかった突然の言葉に、込み上げてくる熱い思いで胸がいっぱいになり、涙が溢れた。そんな僕を参加者たちは「早く部屋に戻って荷造りしろ」とか「明日は朝早いから覚悟しておけ」などと言いながら、僕の肩をたたいて食堂から出て行った。

こうして僕は翌朝、彼らと一緒にマイクロバスに乗り込み、夜明け前のラサを発ちチベット第二の都シガツェを目指した。そして僕は彼らのおかげで多くの得難い貴重な経験をし、その経験は僕を少し大きくしてくれた。


そう。バンコクの航空会社のオフィスで咄嗟に飛行機の空席を確認して彼を誘ってみようと思い立った時、もちろん状況はまったく違ってはいたが、僕は彼にあのチベットの旅の自分の姿を重ね合わせていたんだ。ちょうど彼の歳はあの頃の僕と同じだった。


香港のホテルから始まったあのチベットの旅は、香港のホテルで終わった。

おもしろいことに彼らのようなアジアから遠く離れた国に暮らしている裕福な旅行者は、そのまま帰国しないで香港からさらに中国やインドといったアジアの近隣諸国を巡ることにしていた。

香港のホテルでの最後の夜。ホテルのレストランでの最後の夕食をとった後、お互い強く抱き合って別れを惜しんだ。

「グッドラック!」

口々にそう声を掛け合いながら。そして翌朝それぞれ香港から次なる目的地へと旅立って行った。

実は僕は、それまで「グッドラック」という言葉を知らなかった。人生のシーンには、そのシーンにふさわしい言葉がある。グッドラック。あなたに幸運を。なんて素敵な別れの言葉なのだろうと思った。そして僕はその時、心の底から、旅っていいものだなと思ったんだ……。


   *


眠るには早すぎた。かといってこれといって何もやることがない。そこで我々はふたり、ホテルを出て夜のメコンの畔りを歩き始めた。

熱帯の太陽はすでにこの街の背後に沈んではいたが、通りは依然として不快な熱気と、肌にまとわりつくような気怠い湿気が淀んでいた。そんな暗い通りにはポツンと点在している手狭な食堂から、夜の朱い灯りが通りの暗がりの中にこぼれ落ちている。もちろんそこには、日陰で昼寝をむさぼっていたあの犬の姿はもうない。どこにでもある平和な夜がそこにあった。

我々はそんな通りをただ目的もなくフラフラと歩き続け、その内メコンの川岸へ降りる坂道に差し掛かると、そのまま川岸に降りて土手にふたり並んで腰をおろした。

あたりは夜露に濡れた草叢からわきたつ草の匂いにつつまれていて、そして目の前の暗闇の底には、真昼の熱帯の太陽に代わって対岸に灯る慎ましい街の明かりをその暗い水面に照り返し、大河メコンが静かに横たわっている。微かに下流から吹き抜ける生温かい夜の川風が、メコンの水面にさざ波を立てていた。

すべての音が広大なメコンの水面の深い暗闇の奥に、あたかも記憶の歪みの中に消え入るように吸い込まれていき、あやうくこの現実を見失いそうになる。そしてふと見上げると、そんな夜のあやふやな地上の現実の何もかもを、熱帯の満天の星空が大きく包み込んでいた。


〈昼は昼に言葉を伝え、夜は夜に知識を送る〉


『旧約聖書』の詩篇にはこう綴られ、イギリスの詩人エドワード・ヤングは、夜は無神論者でさえも神を信じると言った。

何もかもが闇に覆い隠されてしまう夜。そんな暗闇の中を彷徨う我々は、闇を照らす灯りを探し続ける。それが神を求めるという我々の潜在的な衝動なのかもしれない。そしてその暗闇の中に我々を導く小さな希望、きっとそれが夜空に光り輝く星なんだ。星は、夜の闇が暗ければ暗いほど、明るく光り輝く。

あの夜のメコンの川岸には、そんな何かを信じずにはいられないような圧倒的な熱帯の夜空が、無数の星を光り輝かせどこまでも果てしなく広がっていた。


「宇宙は原子で出来てるって思われてたけど、実際、原子は宇宙のたった5パーセントしかなくて、宇宙の95パーセントはダークマターとダークエネルギーなんだって知ってました?」

彼が夜空を見上げたまま、突然こんなことを言った。

「いや、初めて聞いたよ」

「その内訳は、ダークマターが27パーセント、ダークエネルギーが68パーセントです」

「なるほど」

「ダークマターは物質で重力によって他の物質に影響を与えるけど、光を吸収してしまうから見ることができないんです。そしてダークエネルギーは宇宙を加速膨張させるけど物質じゃない」

「へ〜え」

「まったくどうでもいいことでしょ。僕は大学でこんなどうでもいいことをずっと研究してたんですよ」

「宇宙の研究をしてたのか」

「宇宙のそんなことを研究して、いったい何になるって言うんですかね。だから僕は……」

突然、彼の話が止まった。

「だから?」

「いや、いいです。本当にどうでもいいことなんで……」

彼は、そのまま真っ暗なメコンの川面に揺らめく対岸の明かりを眺めていた。

「あの対岸の明かりは、ラオスの街なんですか?」

「そう、ラオスだ」

「なんだか明かりがまばらで、すごく暗いですね?きっとあの対岸からこっちを眺めると、このタイの街はすごく明るく見えるんだろうな……」

そこで僕は考えた。

「もしかすると、このまま僕の旅にとことん最後まで付き合う覚悟ってあるのか。もちろん無理はしなくってもいいんだぞ。終わったって感じたら、ここで終わりにすればいいんだ」

「急に覚悟って言われるとなんだかちょっとコワいげど、僕は最後まで隊長にお供しようって思ってますよ」

「おい、お供って……。じゃあ明日このナコンパノムとオサラバして、ここからメコンを渡って対岸のラオスに入ろう」

「エっ、ラオスですか?」

「そう、ラオスだ」

「でも僕、ラオスのビザ持ってませんよ」

「ラオスはビザがなくても入国できるんだ」

「そうなんですか?」

突然また彼のアーモンド型の目が輝いた。

「今ここでラオスに入国するのは、もしかすると貴重な経験になるかもしれないからな」

「なんでですか?」

「それは今なら渡し船でメコン川を渡って国境が越えられる。以前は首都のヴィエンチャンでも南部のパクセでも渡し船でメコン川を渡って国境を越えたんだけど、橋がかかると外国人の出入国は橋だけに限られ、渡し船で国境が越えられなくなるんだ」

「オ〜っ、メコン川の渡し船で国境を越えるなんて、考えただけでもなんだかロマンを感じますね。あれ。とうとう僕、隊長のロマンチストがうつっちゃったんだろうか?」

「おい、ロマンチストって……」

そこで我々は、明日の国境越えにそなえて今夜は早く寝ようということになり、ナコンパノムの最後の夜空を見上げてメコンの輝く満点の星を目に焼き付けると、そのままふたり川岸を後にした。するとその時、背後の生温かい暗がりの中で、メコンの水面で魚が飛び跳ねる水音がした。

「なんだか、いい夜だな……」

「いい夜ですね……」


   *


普通「メコンの渡し船」などと聞くと、どこかエキゾチックな船を想像してしまうものだが、ここの渡し船は決してそんな船ではない。かといってモダンなどと呼べるような船でもなく、ちょっと表現は悪いが、貨物船に真っ平らな屋根を取り付けただけといった感じの船だ。

渡し船は水面にプカプカと浮かんだ四角い鉄の桟橋に括り付けられていて、我々はさっそく船首へとヒョイと飛び乗り屋根の下へともぐり込んだ。

彼は初めて乗り込む渡し船にロマンなんてものを感じているのか、目を輝かせてひとりはしゃいでいる。そういえば僕が初めて渡し船に乗り込んだのは、そんなロマンなんてものでは決してなかった。あれはバンコクでのことだった。


僕が初めてバンコクを旅した当時は、今のような懇切丁寧なガイドブックもなく、それだけに未知なる世界への不安というものも山のようにあったわけだが、それに輪をかけて、世間に流布していた東南アジアという地帯のイメージというものがひどく悪かった。バンコクという地名の響きも、まさに悪の跳梁する熱帯の怪しい都だった。

そして僕はあの日、初めて渡し船に乗ってチャオプラヤ川を対岸のトンブリーへ渡った。

バンコクの熱帯の喧騒を飲み込み、ゆるやかに蛇行し流れゆく大河チャオプラヤ。新都バンコクの街はこのチャオプラヤ川の西岸にあり、そして旧都トンブリーの街は東岸にあって、この二つの街は川に架かる幾本かの橋によって結ばれている。しかし橋の間隔はかなり広くて、実質的に両岸に暮らす人々を結んでいるのは、日の出から日没まで両岸をひっきりなしに行き来している渡し船なのだ。僕がこの川を渡ったのは、パドゥンクルンカセム運河がチャオプラヤに流れこむあたりにあった小さな船着場からだった。

あの日、僕はチュラロンコン大学の前の通りからシープラヤー通りに入り、そのままチャオプラヤの川岸の船着場へ行くつもりで歩いていた。チュラロンコン大学のあたりは、広い大学のキャンパスに繁る緑が幾分か大気の浄化作用に加担しているものの、走り去る大量の車が吐き出す排気ガスによってすこぶる空気が悪い。額に流れ落ちる汗までもが、なんだか黒ずんできたような気さえして、僕は足早にシープラヤー通りを目指した。

「ワタシ、トモダチ、イナイノ」

「なに?」

そしてチュラロンコン大学の前の通りがラーマ4世通りと交差したあたりで、前を歩いていた短いスカートをから惜し気もなく足を曝し歩いている女を追い越したその瞬間、妙な言葉が追い掛けてきた。しかも確かにそれは日本語だった。こんなところで気やすく日本語で話し掛けてくるとは、いったいどこのどいつだと振り返ってみると、彼女が絡み付くような笑顔で僕を見つめていた。

歳はたぶん僕よりも若いだろう。でも化粧は同級生の女友達の誰よりも濃かった。僕は一瞬にして彼女が特殊なものを商う女に違いないと思った。目が合うと彼女の笑顔はますます粘着力を増し、僕は一瞬ブルッと身震いした。

そこで僕は、後ろを振り返ると彼女が「意気地なし」なんて僕のことを笑っているんじゃないかと少し気にしつつ、みっともなくない程度のありったけの速さで歩き、逃げた。


チャオプラヤの船着場は大きなホテルの脇の川岸に、古いカイツブリの巣のように浮いていた。ホテルの立派な外観と比べ、船着場は実に粗末な材で組み立てられていて、僕はそこに集まる人々の列に続き船着場の橋桁に進んだ。

渡し船に乗るという初めての体験に僕は少しドギドキした。まったく、こんなたかが船で向こう岸に渡るくらいのことでドキドキしている自分のことを我ながら少し情けなく思っていると、突然、橋桁に着いた渡し船の中にドッと背中を押され詰め込まれた。

渡し船は座席もなく、平坦な広い船底に何本かの支柱によって支えられた真っ平な簡単な屋根が取り付けられているだけの至極シンプルな造りで、それは涼しく爽快な乗り物だった。バリバリとエンジン音をあたりに轟かせ岸を離れると、ユラユラと川のうねりに合わせて揺れる様がまた心地いい。

バンコクは、なんでも「東洋のヴェニス」なんて呼ばれているらしいが、決してそんな上等なものではないとしても、赤茶けた広い川面には様々な船が波をぬって行き交っていて、エキゾチシズム漂う熱帯デルタの真昼は眩しかった。

その時だった。鼻をつく甘い匂いに何気なく後ろを振り向いた途端、僕は思わず目を疑った。後ろに立つ浅黒いおやじの顔の奥に、猛スピードで歩き振り切ったはずのあの女のド派手な顔がこっちを見て笑っている。

「やばい……」

そう思ったところで、こうなってしまったからにはもうこの現実を受け入れるしかない。まさかこの込みあった小さな船の中で逃げる回ることもできない。僕は見て見ぬ振りをして、つとめて平静を装った。

すると船が少し大きく揺れた拍子に、なんと彼女は後ろのおやじと入れ代わり、化粧品が詰まった引き出しが引っ繰り返ったような、淫靡で甘ったるい匂いが僕の顔面にまとわりついた。一瞬、心臓がドキンと脈打つ。そして、僕の腕に薄絹のような女の肌が絡まってきた。

「ヒッ……」

一気に体中の毛穴から汗が噴き出し、心臓の鼓動がけたたましい船のエンジン音をかき消し、頭の中が一瞬にして真っ白になった。そして体が、川の波のうねりとは無関係に大きく揺れ動いた。

と突然、ゴトンと船に大きな振動が走ったかと思うと、一斉に湧き立った船底を打つたくさんの靴音と共にグイグイと体が押し出され、あれよあれよと言う間に僕は対岸の橋桁の脇にひとり取り残されていた。なんだか夢を見ていたみたいで、急いでまわりを見回し短いスカートを探してみたのだが、どこにも見当らない。あたりはいつもと変わらない静かな日常が、眩しい熱帯の陽射しに包まれていた。

その時ふと何気なく彼女の肌が触れていた腕を見ると、朱い、絹糸のような細く長い髪の毛が1本、汗で貼り付いていた。

「ワタシ、トモダチ、イナイノ、か……」

僕は、その髪の毛を指でつまみ橋桁に渡る川風に吹き飛ばすと、訳の分からない溜め息がひとつ体の底から洩れた。そして急に、自分がどうしようもなくちっぽけな男に思え、少し落ち込んだ。

このチャオプラヤの川幅がこんなにも狭いことに気付いたのは、トンブリーを歩き疲れ帰りの渡し船に乗り込んだ時だった……。


ナコンパノムのイミグレーションは当然メコンの川岸にあって、それはタイの伝統建築を模した実にモダンな建物だった。そんなメコンの川風が吹き抜ける心地よく見晴らしのいい所内に入ると、右手に小さな小窓が開閉するガラス張りの受付らしき部屋があった。しかしガラスは真っ黒なフィルムが貼られていて中の様子は判然としない。

そしてその小窓の前の小さな出っ張りには、青い表紙の手帳がたくさん並べられていた。よく見てみるとラオ語が書かれていて、中を開くと本人のものらしき写真が張り付いている。おそらく、こんなところに不用心にも置きっ放しにしてあるところをみると、これはパスポートではなく、対岸に暮らすラオスの人たちが両国を行き来する際に使っているボーダーパスなのだろう。

それにしてもいくらパスポートではないからといって、こんなところに置きっ放しにしておいていいのだろうかと思いながら、適当に何冊かパラパラとめくっていると、突然、小窓が開いた。そしてその小窓から手が出てきて「カモン、カモン」と指で合図する。そこでその手に僕と彼のパスポートを重ねて手渡した。。

「スゴ〜い。陸路で国境を越えるなんて、なんだか映画みたいですね!」

彼が、まだパスポートにタイの出国スタンプが押されただけだというのに、すでにひとり興奮していた。


渡し船の船内はいたって広々としていた。座席は船内の端に沿ってグルリと廻らされた木製のベンチと言うか、決して座り心地いいとは言えない板のでっぱりだけのようだ。それ以外には、エンジンが格納されている大きな木の箱がひとつ船底から突き出しているだけで、あとは何もない。

しかし、このひとりでも多くの乗客を座らせようという配慮のまったく感じられない座席の少なさと、船内のすっからかんとした広さは、やはりそれなりの理由があってのことだったのだ。我々はガタゴトと足場の悪い船内を奥へ奥へと移動し、船尾のベンチを陣取る。

乗客はそれからも次から次へと乗り込んできて、船内は見る見る内に混み合ってきた。実を言うと混み合う船内の大部分を占めてきたのは、乗客ではなく大小様々な荷物なのだ。荷物はダンボール箱もあればバッグもあり、農機具もあれば自転車もあり、生きたニワトリもいればアヒルもいる。座席が少なく船内がすっからかんとしているのは、このようにして少しでも多くの荷物を積み込むためだったのだ。荷物はそれからも途切れることなく、せっせと運び込まれてくる。

こうして運び込まれてくる荷物でとうとう船内がいっぱいになった頃、ようやく船長らしき男が乗り込み出航の時をむかえた。船内を見渡すと、すでにベンチに座りきれなくなった乗客たちは、詰め込まれた荷物の隙間や、はたまたその荷物の上にも座っている。まさにこれは貨物船の中についでに人間も乗せてもらっているといった感じだ。


もちろんそこには国境を越えるということに対する緊張感などまるでない。この船内でそんなものを感じてワクワクしているのは、まず間違いなく、隣で身を乗り出し真昼のメコンの輝きに目を細めている彼ひとりだけだろう。このあたりの人々にとってはこの国境越えも、ごくありふれた日常のひとコマに過ぎないのだ。

その理由は時間ひとつとってみてもそうだ。四方を海に囲まれた日本という島国に暮らしている我々にとって、飛行機以外で国境を越えるには、当然、船に乗るしかない。一番近い外国、韓国のプサンでさえ九州の博多港から高速船で3時間かかり、ロシアのサハリンまでは北海道の稚内港からフェリーで5時間半もかかる。しかしここでは、国境越えにかかる所要時間は察するところせいぜい20分程度で、おまけに目指す異国の地はもうすぐそこに見えているのだ。

しかし船のエンジンがブルンブルンと唸り声を上げた瞬間、船内が少し騒めいた。そしてそんな人々の騒めきを掻き消すかのようにエンジンの唸り声が一段と大きくあたりに轟き始めると、いよいよ船はゆっくりとナコンパノムの川岸を離れていった。

メコンは照りつける真昼の日差しを全面に受け、その鏡のように光り輝く水面を舐めるようにして船が一気に加速し出すと、今まで船内に淀んでいた熱気は瞬く間にメコンの川風に吹き飛ばされた。

振り返ると、ナコンパノムの川岸は刻一刻と遠退いてゆき、船はその間も、国境の大河メコンのはちきれんばかりの輝きの中を、ただひたすら対岸のラオス目指し加速し続けた。


さらばタイ王国。


   *


このメコンという1本の川が、タイとラオスの「国境」として両岸を隔てるようになったのは、実はそう遠い昔のことではない。


そもそもこの両岸に暮らす人々は、共にモチ米を主食として食し、川のことを同じく水の母「メーナーム」と呼び、互いに同じ民族文化を共有している。すなわちこの川は民族を隔てる境界ではなく、両岸に暮らすのは大半が同じラオ族なのだ。タイの東北をかつてヨーロッパの学者たちが「西ラオス」と呼んでいたように、ここはまさにラオ文化圏なのだ。

ちなみに現在の「ラオス」という呼び名だが、これが国際的な国名になったのは、フランス人がラオ族の統治していた3つの国を総称してそう呼び慣わしたことに始まる。ようするに「LAOS」の「S」はフランス語の複数形なのだ。しかしラオスの人々にとっては、現在も変わることなく国名も民族名も「ラオ」だ。


この川に「国境」という明確な線引きがなされたのは1893年のことだった。それは近代インドシナを舞台に展開した、国家存亡の駆け引きによって押されたひとつの烙印だったのだ。


かつてこのあたりには「百万頭の象の国」を意味するラオ族による初めての統一国家、ラーンサーン王国がメコン両岸にその広大な版図を広げていた。そして1560年、ラーンサーン王国は建国の地であるシェントーン、いわゆる現在のルアンプラバンからヴェンチャンへと遷都し、いよいよその地で繁栄の絶頂期を向かえることになる。

その繁栄を生み出したのは、やはり何と言ってもインドシナの大動脈であるメコンの要衝としての新王都の立地だったのだ。往時ヴィエンチャンの船着場には日に何艚もの交易船が投錨し、盛んに積み荷の上げ下ろしをしていたらしい。

メコン上流の中国やビルマから運ばれた交易品が、ここから安息香やラック、象牙といったラーンサーン王国の交易品と共にさらにメコンを下り、カンボジア、ヴェトナムへと運ばれた。またヴィエンチャンからはタイの王都へと続く陸のキャラバンルートもあり、大量の交易品が象の背に揺られ往来していたらしい。

しかし1707年、ラーンサーン王国は王家の内紛を発端にヴィエンチャン王国とルアンプラバン王国に分裂し、さらに1713年になるとヴィエンチャン王国から新たにチャンパサック王国が分裂し、かつての百万頭の象の国はとうとう三国分裂時代に入ってしまうのだった。


一方タイではその頃、史上まれにみる栄華を誇ったアユタヤ王朝にいよいよ陰りが見え始め、ビルマに勃興したコンバウン王朝はその期を見定めると一気に大軍をもって攻め入り、王都アユタヤはあっけなく陥落してしまう。こうして14世紀以来、400年以上続いたアユタヤ王朝は1767年4月7日、その歴史の幕を閉じたのだ。

しかしタイの立ち直りは極めて早かった。アユタヤ王朝の大臣の養子、華僑を父にもつ混血児ターク・シンは、戦火をかいくぐり東南部タイのチャンタブリーに逃れていた。彼はそこで華僑の支援を受け反撃の体制をととのえると、同年10月、百艘の軍艦に分乗した500人の兵をひきいてチャオプラヤ河を溯上し、ビルマ軍との激戦の末に無事アユタヤを解放する。

しかしようやくアユタヤを取り戻しはしたものの、そこはすでに激しい戦乱によって瓦礫の廃墟と化していた。そのあまりの荒廃ぶりにこの地での古都再建を断念したターク・シンは、チャオプラヤ川を下り、現在のバンコク対岸のトンブリーに新王都を築き自ら新王として即位したのだった。トンブリー王朝の幕開けだ。

そんな卓越した軍事的才能を持ったターク・シンは、即位すると直ちにアユタヤ王朝滅亡に乗じそれぞれに独立国家を樹立していたサワーンカブリー、ピサヌローク、ピマイ、ナコンシータンマラートに軍を進め国家統一に乗り出す。そしてトンブリー王朝はわずか3年でアユタヤ王朝時の版図を取り戻す。

しかしターク・シンの版図拡大の情熱はその後も衰えることなく、この勢いに乗じさらにカンボジアを始めとする隣接諸国を次々と支配下におさめていく。これによってヴィエンチャン、ルアンプラバン、チャンパサックの三王国はタイの支配下になる。


少し余談になるが、現在バンコクの王宮寺院ワットプラケオの中に本尊として安置されているエメラルド仏は、実はこの際に戦利品としてラオスのヴェンチャンからタイへ持ち去られたものなのだ。

ちなみにこの仏像には「エメラルド」という呼び名が付けられてはいるが、エメラルドでできてはいない。エメラルド色に光り輝くヒスイでできているのだ。

これは国家の危機を救い、秩序を維持する聖性を有すると信じられていて、タイで最も崇められている仏像なのだ。毎年3月と7月、そして11月には、国家の重要な行事として、国王自らこの仏像に掛けられている黄金の衣を着替えさせるという儀式が恭しく執り行われている。

伝承によるとこのエメラルド仏は紀元前43年、北インドのパトナで造られたと言われていて、以後、スリランカ、ビルマ、カンボジアと、数奇な流転劇を繰り返すことになる。そしてヴィエンチャンへ移されたのは1560年、ラーンサーン王国のヴェンチャン遷都の際だった。ところがヴェンチャンもエメラルド仏にとっての安住の地ではなかったのか、1778年、とうとうタイの進軍によって王都トンブリーへと持ち去られてしまったというわけなのだ。

かくしてエメラルド仏は、三島由紀夫の小説『暁の寺』で名高いトンブリーのワットアルンに安置されたものの、残念ながらタークシンの御代にこの仏像の威光が差し込むことは遂になかった。


トンブリーに王都を築き王として即位はしたものの、王族や貴族の血からは無縁の、しかも下層社会の混血児として生まれたことが、次第にターク・シンの土台を揺るがしていくのだ。やがてアユタヤ王朝からの名門貴族が台頭しだすと、彼らはターク・シンを伝統を継承しない部外者の成り上がり者だと、王としての正統性を問題視し始める。

またターク・シン自身、そういった疎外感を味わいながら10年にもおよぶ戦闘生活の影響からか精神錯乱に陥り、極端に宗教に傾倒し始め言動や行動に常軌を逸してくるのだった。ターク・シン自ら悟りに達した聖者であると宣言し、僧を跪き礼拝させ、それを拒否した僧は鞭打ちの刑に処した。そして遂にターク・シンはチャオプラヤ・チャクリのクーデターによって失脚し、とうとう処刑されてしまうのだった。

1782年4月6日、ターク・シンは王族のみが行なわれる恭しい処刑方法に従って、ベルベットの袋に入れられ白檀の棒で首を折られ世を去った。トンブリー王朝1代15年の、それはあまりにも短い栄華だった。


こうしてターク・シンは世を去り、トンブリー王朝は彗星のごとく輝き消えていったが、百万頭の象の国ラーンサーン王国に発するヴィエンチャン、ルアンプラバン、チャンパサックの三王国と、宗主国タイとの関係は変わることなく、そのまま次の王朝へと引き継がれてゆくことになる。トンブリー王朝の後を継いだのはクーデターによってターク・シンを失脚させた、アユタヤ王朝の名門の家柄の出であったチャオプラヤ・チャクリによる現在のラタナコーシン王朝だ。

チャクリは、インドの叙事詩『ラーマヤナ』のラーマ王にちなみ新王ラーマ1世として即位すると、王都をトンブリーから川を隔てた対岸、現在のバンコクの地へ遷し「クルンテープ・マハーナコーン・ボーウォーン・ラタナコーシン・マヒンタラーユタヤー・マハーディロクポップ・ノッパラタナ・ラーチャタニー・ブリーロム・ウドム・ラーチャニウェート・マハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカティッテイヤ・ウィサヌカンプラシット」という長大な名を冠した都が誕生する。

実はこのバンコクの地は、同じデルタの中でもトンブリーに比してより低湿地で居住環境も悪い。そこにチャクリがあえて遷都したのは恐るべきビルマの脅威に対してだったのだ。チャオプラヤ川をビルマ側の西に位置させることによって、それを自然の防衛線としたのだ。しかしラタナコーシン王朝に迫りくる影はもはやビルマではなく、思いもよらない方角からやってくるのだった。

新王都に冠したあの長大な名は、要約すると「インドラ神の造り給もう崇高なる宝玉の大いなる神の都」といった意味になる。これは王を神の化身とするヒンドゥー教の神王思想によるもので、チャクリは王位に着くと直ちに先王ターク・シンの失敗を範に、アユタヤ王朝の伝統復興に基盤をおいた新王朝の体制の組み立てに着手するのだった。

アユタヤ王朝の宮廷儀礼や祭式、宮中作法の復興。インドの伝統を継承する仏教王としての仏教の根本聖典『三蔵経』の校閲、整備。散逸したアユタヤ王朝の伝統法典を集めた『三印法典』の編纂。『王朝年代記』の作成等々。都市計画もアユタヤ王朝にならい王宮と王宮寺院ワットプラケオを建設し、王都はそれを中心とした古代宇宙観にそって区画整備される。またチャクリはこの他にもアユタヤ王朝の祖ウートン王を仏像にしつらえ寺院に安置するなど、自らがアユタヤ王朝の流れを汲む正統な存在であることの位置付けに意を注いだのだった。

ちなみにあのエメラルド仏はこの遷都の際、トンブリーのワットアルンからバンコクのワットプラケオへ移されたのだが、実はヴィエンチャン進軍の際この仏像を持ち去ったのは、当時、将軍の位にあったチャオプラヤ・チャクリその人だったのだ。かくしてラタナコーシン王朝はエメラルド仏の威光に照らされ、復興の規範としたアユタヤ王朝をはるかに超える、インドシナ屈指の大国となっていくのだった。

そんなラタナコーシン王朝に影が忍び寄り始めたのが、マーガレット・ランドンの小説をもとにした映画『アンナと王様』のモデルとなったラーマ4世モンクットの時代だ。しかしモンクットの背後に忍び寄る影はもはや宿敵ビルマではなかったのだ。


ビルマでは、東へと勢力拡大の野望に燃えるイギリスがベンガルを東インド会社の植民地としたことによって、両国の衝突が秒読みに入っていた。そしてとうとう1824年、境界に流れる川の小さな島の領有をめぐって、遂に戦闘の火蓋が切って落とされた。

しかし戦闘の行方はあまりにも歴然としていた。前時代の旧式な兵器しか持たないビルマ軍は、イギリス軍の近代兵器の下にあっけなく大敗し、ビルマは領土割譲と賠償金100万ポンドの支払いを義務づけられることになる。

だがイギリスの野望はなおも尽きることはなかった。1851年、ラングーン港に入港していたイギリス船の船長が使用人殺害の罪で拘禁され罰金を課せられたことを口実に、イギリスは直ちにラングーンへ軍艦を派遣し軍事行動を開始したのだ。そしてラングーン、マルタバン、バセインを占領すると、引き続きプロームに進軍し、ペグーを陥落させ、とうとう下ビルマ一帯をイギリス領とする宣言を発するのだった。これは宣戦布告もなく講和条約もない、まさにイギリスの一方的な武力行使による侵略以外のなにものでもなかったのだ。

実は下ビルマはイギリスにとって、ベンガル湾の支配を完成させるためにも、またマレー半島への戦略的要地としても非常に重要な地位を占めていて、しかもそこにはチーク材の大森林が広がっていたのだ。

このイギリスの侵略によってビルマは、海への出口を失い完全なる陸の孤島と化してしまう。そしてイギリスが下ビルマから上ビルマへと送られる米や塩といった生活必需品に高い関税をかけ、食料不足と物価高騰を画策し始めると上ビルマの情況は悪化の一途を辿ることになる。

当時ビルマのコンバウン王朝の都はイラワジ川の上流マンダレーにあり、下ビルマがイギリスの植民地と化した後も時の王ミンドンはかろうじて王として君臨していた。ミンドンはイギリスが下ビルマにおいて「英領ビルマ」としての体勢を着々と調えてゆく中、このイギリスの侵略に対し屈辱的な思いをいだきながら風前の燈と化した独立国としてのビルマの承認を得るため、わざわざヨーロッパ各国へ使節団を派遣するなど涙ぐましい努力をしている。

ところが1884年、チーク材の輸出をしていたイギリスのボンベイ・バーマ貿易会社との間にある事件が起こったのだ。当時ボンベイ・バーマ貿易会社は、ビルマ政府と森林の伐採契約を結び決められた量のチーク材を伐採していたのだが、この年ボンベイ・バーマ貿易会社が伐採量を不正申告していたことが判明したのだ。

ビルマ政府は直ちにこれを告発し230万ルピーの罰金を課したのだが、結局これがイギリスに絶好の口実を与えたのだ。イギリスはまたもやビルマ政府の処置を不服として軍事行動を開始し、これによってビルマはもはやほとんど抵抗らしきことも何もできないまま、1885年11月25日、いとも簡単に滅亡してしまうのだった。

ミンドンの死後、継位していた時の王ティボーは王妃とともに英領インドのマドラスに護送され、それは約8世紀余もの燦然たる栄華を誇ったビルマ王国の、あまりにもあっけない終焉だった。

かくしてビルマ全土はイギリスの植民地となり、タイはいよいよヨーロッパの大国と国境を接することになったのだ。しかしこの頃、時を同じくしてタイにはもうひとつの影が忍び寄っていた。それはイギリスとは反対に、東からインドシナを侵食し始めたフランスだ。その発端はグエン朝時のヴェトナムだった。


ヴェトナムとフランスとの接触は、1624年、フランスのイエスズ会宣教師アレクサンドル・ド・ロードがヴェトナムで布教活動を開始したことに始まるとされている。このイエスズ会の布教に触発され、以後、フランチェスコ派やドミニコ派、ミッション・エトランジェールといった多くのカトリック諸会派の宣教師たちが、誇り高き使命感を胸に次々とヴェトナムへ押し寄せることになったのだ。

ようするに当初ヴェトナムはキリスト教という異国の宗教の布教活動に対して寛容だったのだ。しかしただ「寛容」だったというだけのことであって、それを「承認」していたというわけではない。むしろ儒教に篤いヴェトナムの知識人にとってキリスト教はあくまでも邪教以外のなにものでもなく、次第に反キリスト教的風潮が高まっていったのはごく当然の成り行きといえるだろう。

1825年、とうとうグエン朝の皇帝ミンマンはキリスト教によって人民の倫理が乱されるとして、宣教師の上陸を禁止する布令を出し教会の閉鎖を命じた。そして1833年に起こった反乱にフランス人宣教師が参加していたことが明らかになると、グエン朝政府は直ちに会堂を破壊し宣教師を拘留する。

しかし幸か不幸か、これがフランスにとってヴェトナム侵略の絶好の口実となったのだ。実は中国への進出のための中継地を持っていなかったフランスにとって、ヴェトナムは喉から手がでるほど欲しい領土だったのだ。そこでフランスは1847年、ヴェトナム中部のダナンへ軍艦を派遣し、囚われている宣教師の釈放を求め軍事行動を開始したのだ。

この際フランス側の砲撃によって多くのヴェトナム人が命を落とし、当然ヴェトナムはキリスト教に対する態度をより硬化させることになり、翌年、時の皇帝トゥドゥックは遂にキリスト教の禁教令を出し宣教師を次々と拘留し始めるのだった。

そして1858年の春、ナムディンで行なわれたスペイン人宣教師の処刑が決定的な引き金となる。フランスは直ちにスペインと手を組み14艘の軍艦を率いてヴェトナムへ押し寄せ、ダナン占領を皮切りにして、いよいよフランスのヴェトナム侵略が始まったのだ。

しかしこの進軍で一挙にグエン朝の都フエが陥落するかに思われたが、ヴェトナム軍の抵抗とマラリアなどの悪疫に阻まれ、やむなくフランス軍は後退を強いられることになり、その結果としてフランスはその鉾先を南海貿易の中心地だった南部のサイゴンへ向けることになるのだ。

そして激戦の末、フランス軍は遂にヴェトナム軍を破り、1862年、第一次サイゴン条約を締結させたのだ。これによってヴェトナムは、南部コーチシナのフランスへの割譲とキリスト教の布教の自由、そして賠償金400万フランの支払いが義務づけられることになる。


またフランスは、この条約によってメコンの航行の自由も獲得している。実はフランスのヴェトナム南部の侵略の目的のひとつが、このメコンだったのだ。

フランスはこの大河をカンボジア、ラオスを経て中国雲南へと至る交易路とすることを目論んでいたのだ。そこでフランスは直ちにメコンの溯上調査に乗り出し、水系や地形の綿密な記録を行なっている。だが結局フランスのこの目論みは再三の努力の甲斐もなく断念せざるをえなくなる。メコンは中国の黄河や揚子江のような平坦な大河ではない。遡上してしばらくすると岩盤の露出した急瀬が航行を阻み、早くもラオス南端にさしかかったところでコーンの大瀑布という致命的な障壁によって、フランスのメコン溯上の夢はあっけなく打ち砕かれてしまったのだ。

こうしてメコンを断念したフランスは中国雲南への交易路の夢を次ぎなる標的、ヴェトナム北部の紅河へと向けることになる。そしてフランスはまたもやその侵略の糸口を掴むと直ちにヴェトナムに進軍し、ヴェトナムの伝統的宗主国である中国清朝を武力によって制圧すると、1884年、第二次フエ条約を締結させた。

これによってヴェトナムの国家としての主権は完全に失われ、時の皇帝ハムギは、イギリスが行なったビルマの例と同じく仏領アフリカのアルジェリアへ護送され、とうとうヴェトナムもフランスの手に落ちた。

ところが、フランスの勢力拡大の野望はこれで尽きることなく、ヴェトナム南部コーチシナの侵略に乗じ宗主国タイを無視したまま支配下におさめたカンボジアに続き、いよいよ次なる標的は、これもタイが宗主権を持つヴィエンチャン、ルアンプラバン、チャンパサックの三王国に向けられていくのだ。


しかしタイのラーマ4世モンクットは、西と東の両側から刻一刻と迫り来る列強の足音に威嚇されながらも、終始、時代の推移を見通す冷静さを失わなかった。

実はモンクットは47歳で即位するまでの27年間、僧侶として出家生活を送っており、その間、仏教教理はもちろんのこと、科学を始めとするヨーロッパの様々な知識を精力的に摂取していた。中でも、当時バンコクに訪れていた宣教師たちから熱心に英語を学んでいたことは特筆すべきことだろう。

その語学力を活かし訪れるヨーロッパの外交官と直に英語で会話を交わし、イギリスのヴィクトリア女王やフランスのナポレオン3世、またアメリカのリンカーン大統領やローマ教皇ピオ9世といった世界の要人たちに、せっせと自筆の親書を送っている。その親書の末尾には決まって「Rex Siamensium」とラテン語のサインをするのが常だったらしい。

そして彼は英語を学ぶかたわらシンガポールからヨーロッパの書物を取り寄せ、タイという国が世界の中でどのような状況下におかれているのかを正確に把握することに尽力し、ヨーロッパ人と対等な立場で向き合える知識と論理を学んだのだ。それが来たる新しい時代に敏感に対応できる、大きな資質となっていったのだった。

即位後は古式に縛られていた数々の作法をヨーロッパ風に改めるなど、積極的に新時代に適応した改革に着手している。とりわけ映画『アンナと王様』に描かれているように、イギリス人教師アンナ・レオノーエンスを雇い入れ、35人の妃による39人の王子と43人の王女たちに、英語を始めとするヨーロッパの様々な学問を学ばせたことは、タイのこれからの命運を大きく好転させる要因となりえたのだ。

かくして培った幅広い国際的視野によって、ビルマやヴェトナム、カンボジアなどの隣接諸国の情勢を冷静に把握し、ヨーロッパの列強と戦闘を交えることは必ずしも得策ではないことを認識していたモンクットは、あくまでも慎重に、仏教に学んだ中道の姿勢を保ちつつ、いよいよ国際社会へ近代国家タイの門戸を開いていくのだった。

近代科学、とくに天文学への造詣が深かったモンクットは科学者と一緒に日蝕の日を算出し、1868年、正王妃の長子、最愛のチュラロンコン王子を伴い南タイのプラチュワプキリカンへ日蝕観測に出掛ける。この旅先でモンクットは敢えなくマラリアにおかされ、啓蒙君主としての輝かしいその名を歴史に残し世を去った。しかしモンクットの精神は王子チュラロンコンがラーマ5世として即位することによって、見事に引き継がれていったのだ。


フランスの軍艦がチャオプラヤ川を封鎖し、バンコクのフランス領事館前に停泊したのが、1893年7月13日のことだった。ラーマ4世モンクット崩御の後、ラーマ5世として15歳で王位についたチュラロンコンは39歳になっていた。

とうとうフランスが、ヴィエンチャン、ルアンプラバン、チャンパサックの三王国の割譲を迫る強行手段に出たのだ。そもそもフランスの言い分はこうだった。タイが宗主権を持つヴィエンチャン、ルアンプラバン、チャンパサックの三王国は、かつてヴェトナムが宗主権を持っていた国だったため、その権利は現在ヴェトナムを支配下におさめたフランスにあるというのだ。フランスはこの主張をもとにメコン東岸の割譲を再三タイに迫っていたのだが、当然タイはフランスの主張には何の根拠もないとし、それをことごとく退けていた。そんな最中ある事件が起きたのだ。

1892年、タイ政府が国内に駐在していたフランス人商人を、アヘン取り引きの容疑で国外追放し、ちょうどその直後チャンパサックでフランス人商人が死亡するという事件が起こった。

幸か不幸か、この事件はまたフランスにとって絶好の口実となったのだ。フランスはこの事件をタイ政府の陰謀だとして損害賠償を突き付け、タイ政府があくまでもこれは事故にすぎないと拒否すると、フランスは直ちに軍事行動を開始したのだ。これによってまず手始めにラオス南域のストゥントレン、コン島、ケラマートがフランス軍によって占拠されることになる。

そして1893年7月13日、サイゴンから派遣されたフランス極東艦隊の軍艦2艚が、タイ側の警告を無視し、強引に河口パークナームからチャオプラヤ川へ侵入したのだ。まずこのフランスのとった行動は、とても非礼な行動だったのだ。実は首都バンコクへ向かう外国の船は、すべて河口で艦砲を取り外さなくてはならないことになっていたのだ。ところがフランスの軍艦は艦砲を取り外すどころか、河口でタイ側の砲台と激しく交戦したあげく、チャオプラヤ川を一気に遡上し、とうとうバンコクのフランス領事館前に停泊して王宮を前に威嚇行動を開始したのだ。「パークナーム事件」だ。

そしてフランスはメコンのすべての島を含む東岸の割譲と、300万フランの賠償金の支払いなどの事項を盛り込んだ最後通牒をタイ政府に突き付けたのだ。ラタナコーシン王朝始まって以来、最大の危機をむかえた。


だがこの危機を武力によって解決するだけの力が、もはやタイにないということは誰の目にも明らかだった。それはまたチュラロンコン自身も十二分に認識していたことだ。そこでチュラロンコンは、このフランスとの領土問題をあくまでも話し合いによって解決させようと、しばらくラオスに両国の非武装地帯を設け、国境の確定は仲裁裁判で審議することをフランス側に提案した。

一方タイ政府の中には、隣国ビルマを支配下におさめたイギリスに援助を求め、いっそイギリスの保護国となって領土を守ろうする動きも現われていた。ところが当のイギリスはタイに援助の手を差し伸べるどころか、フランスはメコン東岸までの領域を手に入れればそれで満足するだろうと判断し、逆にタイにフランスの要求をのむようにと促したのだ。

こうしてメコン東岸の占領をイギリスが黙認するらしいという情報がフランス本土に伝わると、タイとの問題を一挙に武力によって片付けるべきだと主張する強硬派の意見が議会を制し、チュラロンコンの対話によって解決するという提案は無視され軍事行動が開始されたというわけなのだ。

おそらくチュラロンコンの脳裏には、帝国主義の熱病に犯された列強の国々に翻弄され敗滅していった、隣国ビルマやヴェトナムの姿が生々しい鮮明さで浮かび上がっていたに違いない。もちろんここでタイがフランスとの対応を誤り戦闘を交えるような事態にでもなれば、ビルマやヴェトナムと同じ運命をたどることも誰の目から見ても明らかだった。

1893年10月3日。いよいよフランスの全権がバンコクへ派遣され、両国の間で「フランス・シャム条約」が調印された。ついにタイはこの傍若無人な軍事外交のもとにフランスの全要求を無条件に受諾したのだ。

これによってタイはメコン川のすべての島を含む東岸をフランスへ割譲することとなり、さらに200万フランの賠償金の支払いと、それらの条項が完全に履行されるまでの間、東南タイのチャンタブリーとトラートがフランスによって占領されることになった。

ところが数年後このチャンタブリーとトラートからフランス軍を撤退させるために、タイはさらにルアンプラバン対岸とマノープル、チャンパサックをフランスへ割譲することになる。しかし結局タイがフランスの脅威をぬぐい去るには、またその数年後トラート、ダーンサーイ、バッタンバン、シアムレアプ、シソフォンという、さらなる割譲を行なわなければならなかった。


かくして1893年、メコンというこの1本の川が、両岸に暮らす人々の思いもよらないはるか遠い国の繁栄のために、国境としてその川幅をいっそう広くしたのだ……。


 

LAOS



「イェ〜っ。ラオス人民共和国、入国しました!」

ナコンパノムの対岸、ラオスのタケークのイミグレーションで、パスポートにラオスの入国スタンプが押され、彼がひとり盛り上がっていた。


ナコンパノムとは違い実に質素な、そのタケークの船着き場に渡し船がゴトンと音を立てて着岸するやいなや、川岸に待ち構えていた男たちがザワザワと乗り込んできた。よく見ると彼らは乗客ではないようだ。黙々と船内の荷物を担いで運び出している。彼らはどうやらここで荷物を運ぶことを生業としている男たちらしい。せっせと荷物を運んだ後に、船内の乗客から賃金らしきものを受け取っている。

我々はそんな男たちの後に続いて船を降り、イミグレーションでパスポートコントロールを終えると、そのままイミグレーションを出た。

「なんだか違いますねえ。ただ川を対岸に渡っただけなのに。何なのか分からないけど確かに何かが違ってる。いったいこれって何なんだろう?」

彼がアーモンド型の目を輝かせて物珍しそうにあたりを見渡している。

「アー・ユー・トゥクトゥク?」

その時、船着き場のあたりにたむろしていたトゥクトゥクの運転手に声をかけられた。

「あなたはトゥクトゥクですか?」

もちろんそれで彼が言わんとすることは十分に伝わる。そもそも言葉はコミュニケーションツールだ。文法なんて間違っていても伝えたいことが相手に伝わればそれで目的は達する。

ちなみにこの乗り物のことを、ラオスでもタイと同様「トゥクトゥク」と呼ぶ。しかしラオスのトゥクトゥクは、バンコクで暑苦しい音を立てて走り回っているあのトゥクトゥクとは少し様相を異にしている。バンコクのトゥクトゥクがオート三輪なのに対して、ラオスのトゥクトゥクはモーターバイクなのだ。

したがってその速度はすこぶる遅い。それはおそらくここで暮らす人々の生活の速度とも関係しているのだろう。ようするにバンコクや東京のように、高速に移動する必然性がさしてないということなのだ。実際アクセルをふかして通りを走り抜ける自動車もなく、そんなゆったいとした時間がここには流れていた。


思えば現代社会は執拗に、移動時間を短くすることに終始している。そして移動時間はほんの100年ほど前と比べても考えられないほど短くなったのだ。

たとえば、ちょうど20世紀が今まさに始まろうとしていた1900年。イギリス留学のため9月8日に日本を発った夏目漱石がイギリスへ着いたのは、10月28日のことだった。

午前8時、漱石を乗せ横浜港を出航したドイツ船籍プロイセン号は、神戸、長崎を経て、上海、福州、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、アデン、ポートサイド、ナポリと、点々と南海の港に寄港しつつ、41日目の10月19日、やっとイタリアのジェノヴァに入港する。そしてそこから列車に乗り換え陸路パリへ向い、再び船に乗り換えドーヴァー海峡を渡り、10月28日の夜、ようやく目的地ロンドンへ辿り着いたのだ。

その途中、数日間パリに滞在し万国博覧会などを見物しているのを差し引いても、日本からイギリスまで50日近い日数を要したことになる。もちろんこれは漱石が優雅で気長な旅を欲した結果こういった日程になったのではない。それが当時の最良にして最短の移動手段だったのだ。

その日本からイギリスまでの50日近い所用時間は、今では10時間足らずにまで短くなった。まったくもって驚きとしか言いようがない。

しかしそういった距離感は、なにも時間的なものだけによって短くなったわけではない。移動の快適性の進歩によっても距離感はよりいっそう短くなったと言えるだろう。漱石の日記を読んでみると、その当時の船旅の苦労が縷々と書き連ねてある。

「船少しく揺く、晩餐を喫するに能わず」「船の動揺烈しくして終日船室にあり。午後勇を鼓して食卓に就きしも、遂にスープを半分飲みたるのみにて退却す」「船頗る動揺、食卓に枠を着けて顛墜を防ぐ」「昨日の動揺にて元気なきこと甚だし。且つ下痢す。甚だ不愉快なり」「床上に困臥して気息淹々たり」「昨夜、キャビンに入りて寝に就く。熱苦しくて名状すべからず。流汗淋漓、生たる心地なし。此夜、又然り」……。

出航前、友人の寺田寅彦に「秋風の、一人をふくや、海の上」などと洒落て俳句などを書き送っていた漱石だったが、いざ出航してみるとこんな有様で、途上、妻に宛てた手紙には「目が余程くぼみ申し候」などと書き記している。

そもそも旅を意味する英語「travel」という言葉は、「苦痛」とか「骨折り」を意味するフランス語「travail」を語源としているらしいが、やはり当時の日本人にとっての海外への旅は、その費用もさることながら、時間的にも体力的にもよほどの覚悟なくしては実現しえないものだったのだ。

それが今ではどうだ。たとえば東京からバンコクまでの移動にかかる飛行機の所用時間はおよそ6時間。空調管理システムによって適温に保たれた機内の柔らかいシートに腰掛け、スタッフが手元まで運んでくれる冷たいドリンクを飲み、温かい機内食を食べながら、音楽を聴き、映画を観て、そして時として居眠りし、あっという間に目的地へ到着するのだ。

何もかもが目まぐるしく進歩した現代、ウトウトと柔らかいシートで居眠りしながらほんの数日で地球をひと回りすることさえも可能になったのだ。そしてこの距離感はこれからも移動時間の短縮にも相まって確実に、もっともっと短くなっていき、地球はさらによりいっそう小さくなっていくはずだ。

そういえば子供の頃、駅で見送る列車がプラットホームから離れどんどんと小さくなっていき、とうとう線路の彼方に消えてしまった瞬間、その列車はもう自分の想像もつかないはるか遠い世界へ行ってしまったような気がした。それは、今、思い描く「外国」などというところよりも、もっともっと遠かった。

確かに僕も現代文明の恩恵にあやかり、今回もあっという間に海を飛び越え、こんなところでノラリクラリと休暇を過ごしているわけだが、やはりあの子供の頃に感じたはるか遠い世界がもうこの地球上からなくなってしまったことは、それはそれでなんだか少し淋しくもある……。


我々はトゥクトゥクの運転手の申し出を丁重に辞退し、メコンの川岸の通りを歩き始めた。

「隊長、これからどこに行くんですか?」

彼が聞いてきた。

「とりあえず、まずはホテルにチェックインしよう」

「ホテルですか。どこにあるのか知ってるんですか?」

「いや、知らないけど、たぶん分かる」

「たぶんって?」

「昨日の夜ナコンパノムの川岸から対岸を見たら、ひとつだけ高い建物に明かりが灯ってるのが見えた。あの時間に明かりが灯ってる高い建物といえば、たぶんそれはホテルしかないと思うんだ」

「なるほど」

「たぶん、このあたりだったと思うんだけどなあ……?」


   *


ホテルを発見したのはそれから間もなくしてのことだった。小さな食堂が点在する静かな川岸の通りには、熱帯の大木が大きく枝を広げて連なっていて、その木陰が途切れたあたりにホテルは建っていた。

ブーゲンビリアの絡まる頑丈なフェンスに囲まれたその4階建てのホテルは、もちろんかなり古びてはいるが、各階には整然と客室が並んでいて、この小さな田舎街にしては明らかに場違な立派なホテルだった。

しかし外観には心踊るような彩りなどまったくなくて、ただの殺風景なコンクリートの塊とまでいうと言い過ぎだが、はっきり言って初めてこのホテルを見た時の印象は、とうとう過疎になって落ちぶれてしまった街の中に残る廃校になった中学校といった感じだった。


ブーゲンビリアの植え込みのフェンスを抜け、車が数台駐車されている敷地内に入ると、そのままホテルの玄関に辿り着く。その玄関の屋根をよく見てみると、ラオ語と英語で「カムワンホテル」と書かれている。そしてそのホテルの名前の書かれたプレートの上には、この建物の唯一の装飾品である、小さな旗が午後のメコンの川風に気怠く揺れていた。

ラオスの国旗が1旗。ラオスの国旗は日本の国旗の白地に赤くではなく、青地に白い円が中央にあり、それが上下、赤いラインで挟まれている。その赤は革命のために流された民衆の血を表していて、中央の青はメコン川を、そして白い円はメコン川に昇る満月、すなわち輝かしい未来を表しているらしい。

そんなラオスの国旗の隣には、赤地に黄色のカマとハンマーが十字に交差する旗が1旗。社会主義の旗だ。カマは農民、ハンマーは労働者を表していて、この十字は農民と労働者の団結を意味している。また地色の赤は社会主義の勝利を表しているらしい。そう、今さら言うまでもなくラオスは社会主義国なのだ。

そしてこのホテルの玄関はといえば、普通ホテルというものを想像して思い浮かぶロビーなどと呼べるようなものはここにはない。しかもドアもないのだ。ちょうどドアも何もない中学校の下駄箱置場に、講堂の演台を運び込みレセプションカウンターとして再利用してる、といつた感じの玄関だっだ。

レセプションカウンターの脇には、食料品店でよく見かけるガラスのドアの付いた冷蔵庫が置いてあって、中を見るとミネラルウォーターに、コーラやジュース、牛乳といったものが入っていた。また奥の壁には丸い時計がいくつも掛けられていて、それぞれの時計の下には、世界各国の都市の名前が書かれたプレートが貼りついている。なんと東京もあった。しかし今ではどの時計も止まったままで、動き出す気配はまったくない。


こんな調子であたりの様子を物珍しく見渡していると、突然「ハイハイ、なんでしょう」と、男がひとりカウンターの奥のドアから出てきた。スーツにネクタイではなく、グレーの開襟シャツに黒いズボン、そして足にはゴム草履という、いたって庶民的な出で立ちのホテリエだった。

そこでさっそくどんな部屋があるのかと尋ねてみると、彼は脇の壁に貼り付いている小さなボードを指差した。見るとそこには、それぞれの部屋と料金が書いてあって、エアコンが付いているか、付いていないかといったような設備の差によって何種類かの部屋があった。

そこで僕はそのボードに書かれている部屋のひとつを指差すと、カウンターに用紙が一枚出され、お決まり通りの名前やパスポートナンバー、国籍などを記入する。

そして1泊分の部屋代、124,000キップを支払う。そう、この桁外れな高額な部屋は、何をかくそうこのホテルの最高級の客室、ロイヤルスイートなのだ。自慢ではないが、僕は生まれてこのかたロイヤルスイートなんていう高級な部屋には一度たりとも泊まったことがなかった。ロイヤルスイート初体験だ。

ラオスの通貨キップには、イミグレーションでパスポートコントロールを終えたあと少し両替をしておいた。さっそくその両替をしておいた、輪ゴムで結わえられた札束をウエストパックの中から取り出しカウンターの上に並べた。

そう、ラオスは猛烈なインフレだったのだ。よってたった数ドル両替しただけでも、輪ゴムで結わえられた煉瓦のように分厚いキップの紙幣が何束にもなる。だからもうこの国ではウォレットなんていうものはまったく役に立たない。こうしてウエストパックにファスナーが閉まらないほどの札束がパンパンに詰め込まれ、一気に大金持ちになって気分が大きくなった僕は、じゃあ贅沢をしてロイヤルスイートに泊まってみようと思い立ったのというわけなのだ。これから先の人生こんなチャンスはもう2度とないだろう。そう思った。しかし参考までに124,000キップは日本円に換算すると、たったの1,000円くらいだったのだが。


ホテリエはカウンターに積まれた札束を時間をかけて数え終わると、カウンターの引き出しの中からキーを取り出し、いつの間にか現れていたボーイに手渡した。もちろん彼もまた白い開襟シャツに黒いズボン、そして足にはゴム草履といういたって庶民的な出で立ちのボーイで、まあ早い話、二人とも見た目は似たり寄ったりなのだが、一応、彼らなりの役割分担がなされているようだ。ボーイは我々のバッグを持つと、ペタペタとゴム草履の音を立てながら「さあこちらへ」と我々を誘導してくれる。

下駄箱置場のカウンターの隣には、これまた中学校の校舎によくあるコンクリートの外階段があって、その階段を我々はボーイの後を追って昇っていった。そう、このホテルにはエレベーターはないのだ。階段にはどういうわけかやたらと虫の死骸が転がっていて、「なるほど。この国にはこんな虫がいるのか」と虫の死骸を観察しながら、我々はようやく最上階の4階まで昇った。

ボーイは見晴らしのいい4階の表廊下に着くと、階段から一番近いドアにキーを差し込む。それは焦茶色のペンキが塗られた、ロイヤルスイートにしてはずいぶんとまた庶民的な、一見、掃除道具入れと間違えてしまいそうなドアだった。そして「さあどうぞ」と、いよいよ我々はロイヤルスイートの中へ導かれた。


部屋に通された途端に、我々は思わず顔を見合わせ吹き出した。

広いのだ。とにかくもう意味もなく、ただひたすら広い。いったいこの広さはどれくらいあるのだろう。有に2部屋分、いや、もしかすると3部屋分はある、さすがロイヤルスイートだ。

そんな広い室内の床はタイル貼りになっていた。しかしこれはマハラジャの宮殿のような大理石のタイルではなくて、残念ながらどこにでもある普通のタイルだった。そこにちょっとやそっとの力ではビクともしない、バンコクのお金持ちの華僑の家の応接間に置いてあるような、中国風の、ニスでピカピカに光り輝いた重い木製の応接セットが置かれている。

もちろんベッドも広い部屋の奥に、縦と横の長さが同じ正方形の巨大なベッドが2台ドカンと据えられていた。ヘッドボードもダストラッフルも何もなく、ドアと同じ焦茶色のペンキが塗られた木の土台がむき出しになっていて、作りの貧弱さを無理遣り大きさでカバーしているといった感じのベッドだった。

バスルームは、入り口のドアと同じく焦茶色のペンキが塗られた湿気で少し腐りかけたドアの奥にあった。中は、確かに過去には真っ白だったはずの薄汚れた白いタイル貼りになっていて、そこに、どこかの公衆便所にありそうな小さな洗面台と西洋式の便器があり、奥にはこれも過去には真っ白だったはずの薄汚れた白いバスタブが据えられている。一応、給湯機は付いているが、はたして作動するかどうか一見しただけでは定かではない。

とまあ部屋はこんな感じでかなりボロいのだが、ひとつだけ予想外なものを発見した。テレビだ。日本製の古い小さなテレビがこの広い部屋の片隅に肩身狭そうに据えられていた。今回の旅でバンコクを発って以来、初めて目にするテレビだった。

しかしもうとにかく部屋が広すぎるために、何をやるにしてもいちいち遠いのだ。テレビのスイッチを入れるにも、チャンネルを変えるにも、いちいちそこまで歩いて行かなくてはいけない。改めて自分が、リモコンという文明の利器に飼いならされていたことに気づかされる。

ボーイは我々のバッグを荷物台の上に置くと、さっそく部屋の奥の床に据えられている大きなエアコンのスイッチを入れ、次にテレビの後を覗き込みコンセントにプラグを差し込むと、スイッチを入れてチャンネルを回し始める。そしてブラウン管に写し出されたのはなんとCNNだった。ラオスの、しかもこんな田舎でアメリカのニュース番組が見られるとはかなりの驚きだった。やはりこの部屋はロイヤルスイートだったのだ。

一応やるべきことをやり終えたボーイは僕の差し出したチップを丁重に受け取り、「ごゆっくりどうぞ」と、またペタペタとゴム草履の音を立てながら部屋から出ていった。


こうして恐ろしく広いロイヤルスイートの中に取り残された我々は、もう1度くまなく室内を見渡した後その広すぎるベッドに転がった。

ベッドは『アルプスの少女ハイジ』の干し草のベッドではないが、スプリングでも、ポケットコイルでもなく、おそらくこのマットレスは藁だ。ゴロンと転がってもまったく跳ね返ってこない。でも寝心地は決して悪くはない。それになんと言ってもゴロゴロ、ゴロゴロと寝返りを打っても、いつまでたっても端に辿り着かない、夢のように広いベッドなのだ。

「ロイヤルスイートだなんて、今夜から隊長とのハネムーンだ」

彼が広い藁のベッドの上で笑い転げている。


   *


ホテルを出てしばらくメコンに沿って川岸の通りを歩いていると、我々はやがて小さな広場に行き着いた。

花壇や噴水の遺構のようなもの、それらがみな矩形に区画されていて、何もかもが左右対称に配置されている。そしてその小さな広場には、メコンへと降りる石段が廃墟のように残されていた。

おそらくこれは植民地時代に宗主国フランスによって作られた広場なのだろう。見ようによってはパリのどこかの広場にも見えなくもない、そんな猫の額ほどの小さなこの広場が、かつてここタケークの表玄関だったに違いない。 


現代のように全土に道路網が張り巡らされる以前、ほとんど密林や湿地に覆われていたここインドシナでは、河川が人々の生活におけるメインストリートだったのだ。そしてその流れの要所には決まって市場がつくられ、河川を媒介にして様々な物が交易されていた。

かつてそういった市場には後背地の豊かな森林物資が集まり、やがて賑わう市場のまわりには人が住み始め「港市」が形成され、さらにいくつかの港市は巨大な「港市国家」へと変貌していった。タイのアユタヤも、ビルマのペグーも、カンボジアのプノンペンも、いずれもそういった性質の港市だったのだ。

そしてアジア各地に点在していたそういった港市はまた、お互い極めて高度に発達した交易ネットワークによって結ばれていて、様々な物が盛んに交易されていた。その交易ネットワークの中で中心的存在だったのが、やはりなんと言ってもマラッカだ。

マラッカはその立地から、インドを基軸とするアラビア海・ベンガル湾交易圏と中国を基軸とする東シナ海・南シナ海交易圏とを結ぶ、東西交易の中継地として比類なき発展を遂げることになるのだ。たとえばそれまで中国とインドの間を往復するのに2年かかっていたものが、ここを中継地とすることによってわざわざ2年もかけて中国とインドの間を行き来する必要がなくなり、交易のスピードは半分に縮まることになった。

かくしてマラッカへは各地から様々な物が流れ込み、当時ここでは西はエジプトから東は中国までの84もの言語が飛び交っていたらしい。そしてここインドシナの港市からも、積み荷を満載した船が盛んにマラッカを目指したのだ。


では実際に、ここインドシナの各地とマラッカとの間でどのような交易が行なわれていたのか。1512年から1515年まで、マラッカに滞在していたポルトガル人トメ・ピレスの残した『東方諸国記』の中に、その当時の交易の様子が詳細に記されている。

まずビルマのペグーからマラッカへ運ばれたのは、米、ニンニク、タマネギ、カラシ、バター、油、塩。麝香。銀。宝石などだ。

宝石は古くからビルマにおける重要な交易品だったのだ。ビルマではルビーを筆頭に、ガーネット、スピネル、ダイヤモンド、ジルコン、アパタイト、サファイア、トルマリン、ペリドット、ムーンストン、ジェード、コハクなど、実に多くの宝石を産する。中でもルビーはビルマ産が世界最高品質とされていて、サファイアもビルマ産はインド産、スリランカ産とともにその品質の最高位を争っている。

またジェード、いわゆる翡翠も、世界的にビルマが最も重要な産地とされていて、ビルマ産のその半透明に光り輝く神秘的な翡翠は「インペリアルジェード」と称され、古くから中国へ盛んに輸出されていたのだ。


逆にマラッカからビルマのペグーへ運ばれたのは、クローブ、ナツメグ、メース。金。水銀、銅、錫、辰砂。フルセレイラ。真珠母。中国製の緞子、陶磁器などだ。

「フルセレイラ」というのは「真鍮の削り屑を集めて作った塊」といった意味の古いポルトガル語で、銅や錫、鉛などの粗質の合金のことだ。交易は当初もちろん物々交換によって行なわれていたのだが、交易が大量かつ複雑になってくると、必然的に一種の通貨としての役割を担うものが生まれてくる。フルセレイラもそういった性質のものだったのだ。そしてやがて交易における国際通貨としての地位を獲得するのが、銀だ。


つぎにタイのアユタヤからマラッカに運ばれていたのは、米、塩、干魚、ココナッツ、野菜。ラック。蘇芳。象牙。金、銀。鉛、錫。織物。金や銅で作った壷。ルビーやダイヤモンド、指輪などだ。

「ラック」というのは一種の塗料だ。タイの田舎をバスで走っていると、時折、大きく枝を広げた大木に出くわす。アメリカネムノキだ。このマメ科の植物とある生物との出会いが、かつてここに暮らす人々に多大な恵みをもたらすことになったのだ。その生物とは指先でいとも簡単にひねりつぶせる小さな虫。カイガラムシだ。

カイガラムシというのは、樹木の枝や葉に付着し樹液を吸ういわゆる寄生虫で、農業従事者にとってこの虫は農作物を枯死させる害虫以外の何者でもない。しかしこのアメリカネムノキとともにここに暮らす人々に多大な恵みをもたらすことになったカイガラムシは、農作物に喰らいつくような素性の悪いカイガラムシではなく「ラックカイガラムシ」と呼ばれる特殊なカイガラムシなのだ。

カイガラムシという虫は、孵化すると1ミリにもみたない小さな体で樹木の枝や葉の上を自由にはい回り、お気に入りの場所を見つけるとそこに付着し樹液を吸い始める。するとこの虫はなんと脚がなくなり動けなくなってしまうのだ。そしてそのまませっせと樹液を吸い続けながら分泌物を出し、やがて自分の体を覆う貝殻状の殻を作る。これが彼らが「貝殻虫」と呼ばれる所以なのだ。

ラックカイガラムシもまたその例外になく、他のカイガラムシと同様に殻を作るわけだが、古来、人々はそれを特別に「ラック」と称し、この分泌物から多大な恵みをもたらされていたのだ。

ではこの小さな寄生虫の分泌物が、いったいどのような働きをするのか。実はこのラックという名前を語源とした、我々にもよく知られた加工品がある。そう「ラッカー」だ。ラックはアルコールに溶けやすく粘着性と耐油性が強いという特性から、古来、ニスの原料として使われていて、ラッカーを始めエナメルやペンキなどの塗料やワックスなどにも加工されているのだ。あのヴァイオリンの名器として名高いストラディバリウスにも、このラックが使われているらしい。

これ以外にもラックは、マニキュアなどの化粧品や、ガムやチョコレートといった食品のコーティング、またラックが酸に強いという特性から、胃で溶けずに腸で溶けるための医薬品の錠剤のコーティングなどにも使われていて、我々の生活は知らず知らずの内に、この熱帯の大木と、それに寄生する小さな虫の恩恵を受けているのだ。

実はこのラックと日本との関わりは古く、正倉院の北倉にかつての渡来品が伝わっている。それは「紫鉱」と呼ばれ、当時は外用薬とされていたらしい。しかしラックと日本との関わりはこれだけではない。

ラックはもともと古代インドで染料として使われていて、やはり日本へも古くから染料として渡来していたのだ。ではこの小さな寄生虫の分泌物が、いったいどのような色を生み出すのか。実はその色は我々にもよく知られた日本の伝統色のひとつになっている。「臙脂」だ。ラックから精製した色素を綿に染み込ませ薄い円盤状にしたものを「生臙脂」、または「臙脂綿」と呼び、日本へは古来このような形で輸入されていたらしく、江戸時代になり友禅染が隆盛すると一気に需要が増大し、長崎の出島から大量に輸入されるようになるのだ。

「蘇芳」というのはインドからここインドシナにかけて自生するマメ科のある樹木から採られる染料で、特にタイは古来、多くの蘇芳を各地へ送り出していた。蘇芳の染料は、芯材と種を覆う莢から得られるのだが、その発色は煎じる際に加えられる媒染剤によって変化する。明礬を媒染剤にすると赤に、椿の灰を媒染剤にすると赤紫に、そして鉄塩を媒染剤にすると紫に発色するのだ。

この蘇芳は日本にはすでに奈良時代には渡来していて、正倉院にも蘇芳によって染めた『黒柿蘇芳染金銀絵如意箱』が伝わっている。また『源氏物語』の中で、源氏が六条院の正月に女楽を催した際、和琴を爪弾く最愛の紫の上が着ていたのも蘇芳染めの細長だった。


逆にマラッカからタイのアユタヤへ運ばれたのは、コショウ、クローブ、ナツメグ、メース。白檀、竜脳。阿片。蜜蝋。水銀、辰砂、雄黄。子安貝。インド製の綿織物。ペルシアおよびアラビア製の薔薇水、呉絽、毛氈。奴隷などだ。

ここでいうところの奴隷というのが、いったいどういう人々なのかはよく分からないが、東南アジア諸国全般における貴族、平民、奴隷という身分の区別は、インドのカーストや日本の士農工商ほどの厳しさはなかったようだ。面白いことにかつてタイの身分制度の中には「王族逓減の法則」というものがあって、それによると王族は1代下るごとに身分が1階級下がるというシステムになっていたらしい。ようするにたとえ王族といえども6代下るとなんと平民になってしまうのだ。そんなタイでは奴隷も自己の責務さえはたせば自由に平民へ戻ることができたらしく、またタイの奴隷はキリスト教徒の社会における奴隷ほど酷い扱いは受けておらず、イギリスの召使よりも待遇がよかったらしい。


トメ・ピレスの『東方諸国記』にはこの他にも、カンボジアやチャンパー、コーチシナといった、インドシナの各港市からの交易の様子が記されている。

上記以外の当時の交易品を他の資料からもざっと上げてみると、砂糖、茶、蜂蜜、タマリンド、ナマコ、フカヒレ、ツバメの巣、シャコガイ、サゴヤシ、シナモン、カルダモン、白檀、乳香、蘇合香、樟脳、蘆薈、没薬、ジャコウネコの腎臓、クジャクの尾、カワセミの羽、犀角、虎皮、鹿皮、鮫皮、白い牛の尾、ベッコウ、真珠、サンゴ、チーク材、黒檀、漆、籐、檳榔子、阿仙薬、大黄、キンマ、ダイヤモンド、サファイア、トパーズ、コハク、鉄、明礬、硫黄、硝石、火薬、生糸、絹織物、毛織物、ガラス玉、ビーズ、針、扇、紙、鏡、武器、船、ゾウ、ウマ、クジャク、オウムと、それはまさに目を見張らんばかりの多彩さだ。

実はこの華々しき交易圏の中には、はるか東シナ海の果ての島国、すなわち日本もやってきている。この交易圏への日本の参入を大きく後押ししたのは、何といっても日本に産する世界屈指の埋蔵量を誇った、銀だ。

日本はこの南海の交易でその銀を使い、主に鹿皮や鮫皮、蘇芳、沈香などを持ち帰った。鹿皮は武士の胴着や袋に、鮫皮は刀の柄や鞘、鎧のおどしに用いられ、なんと日本はそのピーク時、鹿皮を年間19万枚、鮫皮を年間3万枚も輸入していようだ。


もちろん交易されている物も、またその市場の形態も、当時とはあきらかに違ってはいるが、今でもインドシナの水辺の市場の賑わいには、そんな昔日の熱帯の港市の残香が微かに漂っている。おそらくこのタケークのメコンの船着場からも、大量の安息香が船に積み込まれ、海を渡りはるばるフランスに運ばれたのだろう。

「安息香」というのはエゴノキ科の樹木からとられる香料だ。幹についた傷から滲み出てくる乳白色の分泌物が空気に触れて凝固したもので、安息香はここラオスに産する。

古来、最も上質な物を「トラの涙」と称した。ちなみに安息香はインドネシアのスマトラにも産するが、やはりラオス産の安息香の香気には及ぶものではない。

安息香の薬効としては古くから強心作用と沈静作用が上げられていたが、安息香はそのミルキーなやわらかく甘美な香気から、ヨーロッパでは特に化粧品や芳香料などの香りづけに多用されていたのだ。

かつてヨーロッパの上流社会の女性たちの間では、芳香料の処方を蒐集することが流行していたらしく、新たに手に入れた処方は各自が愛蔵する手書きの処方書に丁寧に書き加えられ、こうして蒐集された処方の質と数が、また彼女たちのひとつのステイタスでもあったのだ。

その今に伝わる数々の処方書を見てみると、安息香を始めとする、インドシナからもたらされた数々の香料の名前が実に多く散見できる。

まず16世紀のヨーロッパでとても人気が高かったらしい「ダマスクローズ」という芳香料は、ダマスクローズの葉、安息香、麝香、蘇合香、ショウブ、ガリンゲール、ラダヌムといった香料を混ぜ合わせたもので、それを小さな絹の袋などに入れて携帯していたらしい。ちなみに当時はまだアルコールを使い香料から精油を抽出する方法が知られていなくて、こういった芳香料は香料を砕いて混ぜ合わせたり、それをさらに粉末にしてパウダー状にしたものが主だったのだ。

つぎにフランスの王アンリの愛用したリンネル製品に賦香するための「スミレ香粉」は、白花イリスの根、バラの葉、糸杉、ショウブ、コリアンダー、ラベンダー、安息香、白檀、蘇合香、桂竹香、竜涎香、マジョラムを粉末にして混ぜ合わせたものだったらしい。

またスペインの女王イサベルは、バラの葉、白花イリスの根、ショウブ、安息香、蘇合香、桂竹香、コリアンダーを混ぜ合わせた香粉を愛用していたとのことだ。

当時ヨーロッパで用いられていた芳香料としては、こういった香粉以外にも様々な種類のものがあった。練香もそのひとつだ。これは象牙や金、銀などで作られたプランタニエと呼ばれる小さな携帯用の香炉で用いた。婦人用芳香ネックレスなどというものもあった。安息香、蘇合香、麝香、霊猫香、ラダヌム、バラ水を乳鉢の中で加熱しながら練り上げ、それを小さなビーズ状に丸めて糸を通しネックレスにしたのだ。それ以外にも香料を入れる小さな箱のついた指輪や、芳香ランプ、香粉ふいごなど様々なものが考案された。


このようにしてヨーロッパの紳士淑女たちの豪奢な生活は、溢れんばかりの香りによって彩られていたのだ。

しかし実を言うとこういったヨーロッパ人の香料に対する執着は、愉しみというよりも、ひとつ大きな必然があってのことだった。当時、平均的なヨーロッパ人はせいぜい年に数回、水浴びでもすればましな方だという、清潔とはおよそかけ離れた驚くべき不潔な生活を送っていたのだ。したがって体臭はかなりひどかったらしく、その悪臭を消すためにこういった芳香料、そして後の香水の文化が飛躍的に発達していったというわけなのだ。

おもしろいことに17世紀、当時シャムと呼ばれていたタイを訪れたフランス人宣教師フランソワ・ティモレオン・ド・ショワジは、その際にシャムの王から「フランス人は清潔か、歯は手入れしているか、口をすすいだり、体を洗ったりするか」と訊ねられたと、その旅行記の中に記している。

ショワジはこのシャムの王からの質問に対して、「これは愉快な話だ。われわれが見るのは褐色の肌の、全裸に近い人々である」と一笑した後に、「しかし彼らは食べること、着る物、話し方に至るまで、全てにおいて、世界で最も潔癖な人たちだ」と結んでいる。


かくしてここタケークでも、木箱に詰め込まれた大量の安息香がメコンの川岸に係留されている船に積み込まれる光景が、熱帯の真昼の眩い陽射しの中で繰り広げられていたのだろう。

しかし今ここには、そんな過去の栄華を我々に思い起こさせるようなものは何もない。ただ、かつて色とりどりの花が咲き誇っていただろうと思われる矩形に区画された花壇の荒れ果てた遺構の中に、貧相なブーゲンビリアの花が真昼のメコンの川風に揺れていた。


   *


フランスの作家マルグリット・デュラスは、その自伝的小説『太平洋の防波堤』の中で、当時フランスの植民地のあらゆる都市には、白人の街と、それ以外の人の街という2種類の街があったと書いている。

彼女は1914年、仏領インドシナ、現在のヴェトナムのホーチミン近郊のギアダンで生まれている。両親は共にフランスからこの地へ赴任してきた教職者で、父親は数学を、母親は同じく数学とフランス語を教えていたらしい。そのメコンの流れに彩られた幼年期の体験が、『インディア・ソング』を、そして『ラ・マン』を生んだのだ。


〈『若人よ、植民地に行け、財産が君を待っている』。枝もたわわに実のなったバナナの木陰で、白一色の服装をした植民地のカップルが、微笑をうかべて忙しげに働く現地人にかこまれながら、ロッキング・チェアーに揺られている〉


こんな植民地への入植を煽る宣伝ポスターに夢をふくらませ、デュラスの母親マリー・ドナデューは、はるばる海を渡りインドシナへやって来たのだ。ところがこの地で病を患った夫エミール・ドナデューはやがて本国へと引き上げ、以後、二度と家族に再会することなく本国で没することになる。

こうして未亡人となってしまったマリー・ドナデューは、ここインドシナの小学校で教鞭を取りながら、3人の子どもたち、すなわち2人の兄とマルグリットを育てていくのだ。


〈米か、ゴムか、銀行か、高利貸しかで産をなした、植民地の吸血鬼ども〉


植民地の白人社会の中にも確かに、歴然とした階層があったのだ。ここインドシナの植民地社会で成功をおさめ、日々豪奢な暮らしに耽る実業家から、植民地での夢に破れ、現地人を見下すこと以外には、この地上での最優良人種としての自らのプライドを守る術をもたない、落ちぶれたただの白人たち。そしてその中間に位置するのが、賄賂と横領という特権を行使し私腹を飼い太らせる、腐り切った役人たちなのだ。

夫亡き後、最下層の白人へと転落してしまったマリー・ドナデューは、それでも細々と貯め込んだ貯金をはたき払い下げの土地を購入する。

ところが土地の公定価格とは別に植民地政府の役人に賄賂を支払うという慣例を知らなかったマリー・ドナデューは、結局、何の価値もない半ば沼地と化した耕作不能な荒地を割り当てられるのだ。

それでも彼女はこのなけなしの貯えを注ぎ込んだ土地を諦め切れず、現地の農民を駆り出しその場しのぎの拙い防波堤を築き耕作し始める。ところがある日、潮が満ち防波堤は跡形もなく押し流され、ドナデュー一家は破産するのだ。

『太平洋の防波堤』はこの事件をもとに、インドシナという腐敗しきった階層社会の中で、内側からギシギシと軋みながら崩壊し始める家族の情念を描いた作品なのだ。


僕がデュラスを知ったのはある映画の上映会でのことだった。その映画とは、デュラスが自作のテクストを自らが監督し映画化した『インディア・ソング』だ。そしてこの映画で僕は、ラオスという国に対して一種の憧憬に近い感情をいだくようになった。

『インディア・ソング』はインドのカルカッタのフランス大使館を舞台にした、大使夫人アンヌ・マリー・ストレッテルにまつわる物語なのだが、この映画は実に特異な表現形態をとっている。登場人物が一切、声というものを発しないのだ。声は登場人物たちによって朗読されたテクストの「言葉」として、映像の外部から介入してくるのだ。

延々と続く腐敗しきった沈黙と、息苦しいほどに甘く破滅的な音楽。その中に登場人物たちの声は、あたかも彼らの記憶の歪みの隙間から呼び戻されたかのように忽然としてスクリーンに流れ込み、その映像と言葉のずれが、この映画の虚構と現実の境目を美しく、極めて詩的に破壊しつくし、永遠に救われることのない終わりを暗示しているのだ。

そんな不可思議な映像言語をもったこの映画は、インドの大地へ没落してゆく、死臭漂う巨大な太陽の日没シーンから始まり、そして、そこに流れているのが大使館の夜会の折りに現われる乞食女の物憂げな唄声なのだ。実はその物憂げな唄をうたう乞食女が生まれたのが、ラオスの、ここタケークの下流にある街サヴァナケットだったのだ。


 物乞いの女よ、

 気が変なのね、

 そうよ、

 そうね、思い出すわ、

 川べりに立ってるのよ、

 ビルマから来るのね、


 インド人じゃないわ、

 サヴァナケットから来るのよ、

 彼女の故郷、


 ある日……、

 彼女は、十年も前から歩き続けて、

 ある日、ガンジス河の前に立ったの、

 そうね、

 そこにいるの、

 そうよ、


 十ニ人の子供が死んで、旅に出たの、

 そうね、

 子供を見捨て、売り……

 忘れたのよ

 ベンガルに来た時は不毛な女よ


 サヴァナケット……、

 ラオスね?

 そうよ、


 十七歳の時、

 彼女は妊娠したわ、十七歳で……、

 母親に追い出されて、家を出たわ、

 彼女は、破滅の道を尋ねるが、

 誰も知らない、


 カルカッタで、彼女らは一緒にいた、

 白人の女と、別の女、

 そう、

 同じ年のことだったわ。


こう映画の冒頭で語られるように、彼女はラオスのサヴァナケットからカルカッタまで歩いてやってきたのだ。メコンを上り、いくつもの川、いくつもの道を辿り、ビルマのマンダレーを抜け、イラワジ川を下り、そしてプローム、バセインを経て、ベンガル湾に突き当たり、とうとう歩き始めて10年目のある日、彼女の前にガンジス川が流れていたというのだ。

マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』という映画は、ルイ・マルの『鬼火』とともに、少なからず僕の人生に影響を及ぼしたと思う。


このタケークの川岸の小さな広場を取り囲む、メコンに寄り添うようにして広がる街並みは、おそらくデュラスの言うところの「白人の街」だったに違いない。

規則正しく区画された広場の周りには、小さいながらもフランス人の残したコロニアル様式の夢のような家が連なっている。コロニアル様式というのは、ヨーロッパ人の建築様式が植民地という熱帯の気候に順応していく過程の中で生まれたものだが、コロニアル様式ははからずも、宗主国が植民地に残した最も美しいものとなったのだ。

実はフランスはここインドシナの地でも、世界に散らばる他の植民地の例にもれず、誇り高きフランスの街並みを精力的に造営している。

その仏領インドシナ最大の都市となる植民地経済の中心地ヴェトナムのサイゴンでは、フランス植民地統治の象徴としてのインドシナ総督府を手始めに、サイゴン大聖堂、市庁舎、税関、裁判所、銀行、オペラ座、ホテルと、宗主国の威信を知らしめるかのように本国フランスの街を模した壮大な建造物が次々と建てられ、その美しい街並みは以後その街に「東洋のパリ」という称号を与えることになった。

同じく仏領インドシナの政治の中心地ハノイでも、理事長官邸やハノイ大教会を始め、銀行、オペラ座、ホテルと、旧来のヴェトナム人の街を押し崩し燦然たるフランスの街が出現したのだ。そしてもちろん規模の差こそあれ、ここタケークもまたそういったフランス人の街だったのだ。

かつてイギリスの建築家は「男性的な力強さ」でまさり、フランスの建築家は「女性的な優美さ」でまさると言われていたが、その言葉の示す通りここタケークの路地には、小さいながらも優美な意匠の施された美しいファサードが連なっていた。

朱い平瓦で葺かれた簡潔な勾配の屋根。乳白色の重い漆喰の壁は、控えめに施された化粧漆喰と淡いブルーやグリーンに塗られた鎧戸によって、瀟洒に、しかも詩的に演出されている。

そして階上にはお決まり通り、分厚い欄干に守られたベランダが外気に向かって開き、連なる古風な列柱と、それを結ぶラウンドアーチがそこにロマン溢れる空間を作っていた。

ちなみに「ベランダ」の語源を探ってみると、それはインドのヒンディー語に行き着くらしいが、それまで自然というものに対して閉鎖的だったヨーロッパ人の建築様式が、熱帯の高温多湿な風土の中で変化した、ベランダは最も象徴的で、しかも最も快適な居場所だったのだ。

そしてヨーロッパ人たちはそのベランダで、熱帯の苛烈な陽射しから守られながら現地人の召使いを従え、「白い特権階級」としての甘くも不毛なる時を浪費していたのだ。


しかし今ではもう、その何もかもが遠く過ぎ去った記憶の断片でしかない。

熱帯の狂暴な陽射しと豪雨に曝され黒く変色した平瓦はずれ落ち、カビと土埃で薄汚れた漆喰の壁はひび割れ、鎧戸もまた見る影もなく朽ち果てている。中にはすでに屋根も抜け落ち、壁も崩れ、もはや倒壊寸前のものさえある。

まさにこの熱帯の地で花開いたフランス人の「永遠」という儚い夢が、再び熱帯という生気のうねりの中にのみ込まれ、今まさに音もなく崩れ去ろうとしているのだ。

デュラスはまた映画『インディア・ソング』を撮影し終えたその数年後、彼女の言うところの、彼女の映画の中で最も重要な作品となる映画の撮影に取り掛かっている。『ヴェネツィア時代の彼女の名前』だ。『インディア・ソング』を破壊する。それがそもそもの発端だった。

実は『インディア・ソング』はインドのカルカッタのフランス大使館を舞台にしているが、撮影はインドでは行なわれていない。パリ郊外のロスチャイルド家の古城で行なわれている。

そして『ヴェネツィア時代の彼女の名前』の撮影も再びその同じ古城で行なわれるのだが、もはやそこには『インディア・ソング』の、あの夜会に揺らめくシャンデリアの輝きも、また黒い夜の服に身を包み、ガンジスのぞっとするほど息苦しく緩慢な闇にまとわりつくように、ただ気怠く踊り続ける男と女の姿はない。

『ヴェネツィア時代の彼女の名前』のスクリーンに映し出されるのは、歳月に押し流され廃墟と化したロスチャイルド家の古城だけなのだ。一面に黒く荒廃した広い大理石のテラス。剥がれ落ちた壁紙。厚く灰の散り積もったマントルピース。錆付いたガラス窓に無住の廃墟を静かに写し続けるくすんだ巨大な鏡。

そしてそんな腐乱した時の残像に覆い被さるのが、あの『インディア・ソング』の音声なのだ。ラオスの乞食女の物憂げな歌声。ガンジスの夜明けに湧き立つ無数の鳥たちの囀り。両大戦間に流行った甘いがゆえに儚い舞曲。そして男と女の呟きと、沈黙。

デュラスは、『インディア・ソング』の音声をそのまま使い、それを廃墟と化したロスチャイルド家の古城の映像と重ね合わせることによって、『インディア・ソング』で始まった死の啓示を、この『ヴェネツィア時代の彼女の名前』の中で完成させたのだ。

タケークの街にはまさに、『インディア・ソング』から『ヴェネツィア時代の彼女の名前』へとデュラスが暗示した、「白人」という危うい価値体系が、ある時代の終焉とともに脆くも自己崩壊していく、その「死」という名の破滅のイマージュが、詩的に、あるいは暴力的に、ひとつのリアリズムとして展開していた。

かつてこの家には、いったいどんな主がどんな家族と共に、召使たちを従えどんな暮らしをしていたのか。でも今となってはもうそれを伺い知ることはできない。ただひとつ言えることは、あるものが確かに滅びゆこうとしているということだった。

しかし滅びゆくものはかくも美しい。タケークの崩れゆく街の中を歩きながら、僕は改めて時の流れというものの残酷さに身震いすると同時に、この街の中に散り積もった時の残骸の美しさに思わずため息を洩らした。

インドシナの片隅に残された、フランス人の美しき小さな夢の脱け殻。それがこのメコンの川岸に残る、タケークの小さな街並みなのだ。


   *


我々はメコンの川岸の小さな食堂の、店先に置かれていた小さなテーブルに向かい合いひと息ついた。もちろん我々の目の前には大河メコンが悠然と横たわっている。そしてその対岸には、昨日まで我々がいたタイのナコンパノムの街並みが、熱帯の真昼の輝きの中に遠くかすんで見えた。

「なんだか夢見てるみたいだ。だって昨日は僕たちこのメコンの対岸にいたんですもんね。しかもただの対岸じゃない。メコンは国境で、その国境を渡し船に乗って越えて今こうして別の国にいるなんて……」

彼がメコンの対岸を眺め、改めて目を輝かせている。

確かに「国境」という言葉の響きにはロマンを掻き立てられる何かがある。でも、もともと国境なんてものはなかったんだ。それは何もない地表に我々人間が境界線を引いたんだ。

ある人が、この世には名前のないものはないのだと妙なことを言った。すべてのものは普く、好ましい名前を持っているんだと。でも、それはとんでもない間違いだ。名前なんてもともとないんだ。


〈主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった〉


これは『旧約聖書』の創世記の中のアダムが生き物に名前を付ける場面だが、そもそも名前を付けるという行為は人間がそれを支配することを意味していた。我々人間は常に名前を付けることによって、あらゆるものを支配してきたんだ。

それは生き物に限ったことじゃない。我々人間は山や海や川にも名前をつけた。そしてさら地表に境界線を引き名前をつけ、こうして我々人間この地球を支配してきたんだ。そう。その地表に引いた境界線、それが国境だ。

でも我々はなぜ国境という響きにこれほどまでにロマンを掻き立てられるのか?それは決して容易に足を踏み入れて越えられないという、その微かな絶望感と焦燥感がロマンというドラマとなって我々を掻き立てるのかもしれない。

「僕はこれまでいろんな場所で国境を見てきたけど、おそらくこれから先も、こんなに美しい国境を見ることはないんじゃないかって思うな……」

「僕も同感です……」

我々ふたり、改めて目の前に横たわる輝く国境、大河メコンの流れを眺めながらうなずく。


「そういえば、さっき川岸の店で何か買ってましたよね?」

メコンの川岸には小さな食堂が1〜2軒あって、そんな寂しい通りに紛れるようにして小さな雑貨店が1軒あった。そこで商っているものは、ほとんど対岸のタイから、おそらく我々が乗ったあの渡し船によって運ばれてきた、タイ製の日用雑貨やスナック菓子、清涼飲料水や牛乳といったものだった。そんな店内を見渡している時、ひとつおもしろいものを見つけたのだ。

「ア〜っ、切手だよ」

「切手、集めてるんですか?」

「いや。切手にはまったく興味ないんだけど。これさ」

僕はウォレットの中に入れておいた切手を1枚テーブルの上に出した。

「動物の切手なんですね。見たことない動物だなあ」

「サオラーだ」

「サオラーって言うんですか?」

「そう。この地球上には確かに過去の世紀に比べて格段に少なくなってはいるけど、まだまだ我々人間に発見されてない生物がどこかに必ず棲息してる。でもね、大型哺乳類に関しては19世紀までに、ほぼすべて発見され尽くしただろうって言われてた。そんな中、もう21世紀を目前にしたある年、新種の大型哺乳類が発見されたっていう大ニュースが世界を駆け巡ったんだ。その新種の大型哺乳類がここラオスの山中で発見されたこのサオラーなのさ」

「ヘ〜え、スゴい。この切手の動物が……」

サオラーはオリックスに類するウシ科の偶蹄類で、以前、国境を隔てたヴェトナム側で幼獣が目撃されてはいたが捕獲されたのはそれが初めてだった。この21世紀を目前にした1996年、ラオスで新種の大型哺乳類発見という世界的な大ニュースを、僕は日本のテレビで喰い入るようにして見ていた。

「捕獲されたサオラーはすぐに動物園での飼育が開始されたんだけど、捕獲後わずか2週間で死んじゃったんだ」

「なんでですか?」

「何も食べないで餓死したんだ。ようするにこの新種の動物がいったい何を食べてるのか分からなくて、とうとう何も口にしないまま檻の中で息絶えたのさ。その後の解剖によるとこのサオラーはメスで妊娠してた。胎児はすでに体も形成されてて、この世に生まれ出るのはもう間近だったらしい」

「可哀そう……」

「このラオスで発見されたサオラーは、その後、世界の生物学者たちの注目するところとなって本格的な学術調査が開始されることになったんだけど、サオラーにはすでに絶滅のカウントダウンが始まってて、IUCN、国際自然保護連合のレッドリストに指定されたんだ」

「その絶滅の原因も、やっぱカワイルカと同じく我々人間が原因なんですか?」

「森林破壊だ」

「森林破壊?」

「かつて百万頭のゾウの国って呼ばれてた頃のラオスの森林の深さは、もうとてつもない深さだったんだ。19世紀後半にラオスを訪れたフランス人は、カンボジアからラオスの森林に入って中国に抜けるまで18ヵ月もかかって、しかもその間、一瞬たりとも森林が途切れることはなかったって旅行記に書いてる」

「ヘ〜え。今からは想像もつかないですね」

「でもそんなラオスの豊かな森林も、世の例にもれず刻一刻と減少し続けてるんだ。1940年代には全国土の70パーセントを占めてた森林も、今ではもう40パーセント程度にまでも減少してる」

「40パーセント程度まで?」

「ラオスの森林減少の原因としてまず上げられるのが、やはりなんと言っても商業伐採だ。ラオスにはチークをはじめ紫檀や黒檀、マツにヒノキといった上質な木材資源が豊富にあって、これといった外貨を稼げる産業がなかったラオスでは、かつて木材はこの国の輸出品のトップだったんだ。ちなみになにをかくそう日本はラオスの木材の大手輸入国なんだよ。日本はラオスから様々な高級木材を輸入してて、中でもラオスのヒノキは日本の神社仏閣の重要な建築用材になってるらしい」

「知らないうちに僕たちも加担してたんですね。ラオスの森林破壊に」

「そんなラオスについて考える時よく指摘されてたことがある。ラオスはかつて世界最貧国って呼ばれてたけど、その情況は、たとえばアフリカ諸国なんかとは大きく異なってたんだ。なぜか。それはラオスには森林があったからだ。たとえラオスの人々が経済的に貧しくても、森に入れば彼らを養う果物や木の実、鳥や獣といった豊富な森林資源があった。だからその森林がある限り、エチオピアやソマリアで発生したような深刻な飢餓はラオスでは起こらないって言われてたんだ。ようするにラオスの人々は豊かな森の恵みにいだかれ生かされてきてたのさ」

「それが過去の話になりつつあるって悲しいことですね」

「実はラオスの森林減少の原因として、もうひとつ見逃せない大きな問題があるんだ」

「何ですか?」

「ダムだ。その最もいい例がナムトゥン第2ダムで、高原の川を意味するメコン本流に注ぐ大支流のトゥン川を堰き止め、なんと琵琶湖の4分の3にもおよぶ広大な森林が水没する巨大なダムを建設しようって計画が持ち上がったんだ。ちなみにこれはダムで発電した電力を輸出して外貨を稼ぐためで、なんとラオスは東南アジアのバッテリーなんて呼ばれてるんだ」

「東南アジアのバッテリー?」

「ところがこのダムの建設に重要な役割を担うはずだった世界銀行が、ダム開発が環境におよぼす影響に関する調査が不十分だとして計画を差戻したんだ。これによって現実的に資金の調達ができなくなり、ナムトゥン第2ダムの開発計画はお蔵入りになってしまう。でもすでに急速に経済発展し続けてるタイに、このダムによる一定量の電力を輸出する協定を結んでたラオス政府は、そう簡単に諦めるわけにはいかなかったんだ。そこでラオス政府はナムトゥン第2ダムの開発許可をオーストラリアの大手企業に与えることになり、こうしてこのオーストラリアの企業の呼び掛けによって集まった、フランスの電力公社やタイの大手ゼネコンなど総勢5社によってナムトゥン第2ダムプロジェクト開発グループが発足され、お蔵入りになってたダムの開発計画がいよいよ外国の民間企業によって動き出したのさ」

「ヘ〜え」

「でもね、動き出したとはいっても、この巨大プロジェクトは順風満帆とはいかなかった。やはりそのあまりにも莫大な資金の調達の目処がどうしてもつかなかったんだ。ところがそんな情況の中でダムの建設によって水没することが予想される森林の伐採が始まったのさ。しかもそれは世界の環境保護団体がこの巨大ダムの開発に対して抗議の声を上げ始めたそんな最中の出来事だった。ようするにもしダムの開発計画が中止になったとしても、もう森林はすっかり伐りつくされてしまってるなんていう可能性もあったわけだ」

「ヒドいなあ」

「ところがこのダムの開発予定地での森林の伐採は容赦なく続けられたんだ。樹齢何百年っていう大木が一瞬にして伐り倒され、その巨大な丸太を満載したトラックが、あたかも葬列のように長い長い列をつくって山を降りる光景は、まさに異様なものだったらしい。そしておもしろいことに、このダムの開発計画の是非を問う重要なカギを握るはずだった環境調査が行なわれたのは、こういった大規模な森林の伐採が始まってから、なんと1年以上も経った後のことだったのさ」

「もうそれってぜんぜん意味ないじゃないですか」


「そもそも我々人間にとっての文化の出発点、それはすなわち森林を伐り開くことだったんだ。だから森林は常に我々人間の発展と共に減少してきたのさ。そしてこういった人間と自然との関係性は今もまったく変わってなくて、それはなにも開発なんていう大かがりなことだけじゃなくて、ごく身近な日常、たとえばレジャーだってそうだ」

「レジャー?」

「アウトドアライフなんて言葉を聞くと、自然を愛する素晴らしい行為のように感じられるけど、それはとんでもない間違いだ。自動車で排気ガスを撒き散らして山野に乗り込み、歩き回る。人間が硬い靴底で歩き回ることによって植物は踏み潰され、土は踏み固められる。公園や学校のグランドを見れば一目瞭然だ。踏み固められた土にはもう雑草すら生えない。もちろん踏み固められることによって土中の微小生物の生存が脅かされ、それがまた草や木の生育に大きく影を落とすんだ。そしてそういった植物に及ぼされた影響はまた、それに依存して生きてる虫や鳥、動物たちの生存に深刻な影響を与えるのさ。よく雑誌やテレビで自然保護を訴える自他共にナチュラリストと認める有名人が、山や森を伐り開いてログハウスを建てて暮らしている様子が紹介されるけど、所詮あれもアウトドアライフっていう名の自然に対する暴力にすぎないって僕は思ってる」

「そういう人たくさんいますね。そしてみんな彼らの生活に憧れ、みんな彼らのことを尊敬してる」

「彼らは自然を愛してるんじゃない。ただ彼らは自分の価値観でもって自然を所有してるだけなのさ。そしてそれは我々人間すべてに言えることだ」

「確かに」

「実はこういった人間と自然との関係性は観光についても言える」

「観光?」

「現代の観光化が自然に及ぼす影響は絶大だ。実際、自然保護を行なうためにまずやらなくちゃいけないことは観光化を防ぐことだって指摘されてる。たとえば美しい森林が広がってたり、珍しい野生動物が生息してる写真や映像がメディアで取り上げられれば、世界中から観光客がドッと押し寄せる。そして彼らの無神経な行動によって美しい森林がいとも簡単に破壊され、もはや生態系を修復不能なまでにメチャメチャにしたなんて話は今ではもう特にめずらしい話でもなんでもない。また観光客が押し寄せることによって電気や水、ガス、石油といった莫大なエネルギーが消費され、大量の廃棄物を出し、それがまた深刻な環境汚染をまねくんだ。皮肉にもユネスコの世界遺産に登録されると同時に、自然破壊が始まるって言われてる」

「もう我々人間の行動そのものが、気づかないうちに自然に対する暴力になってるってことなんですね」

「かつてはそういった我々人間の自然への圧力に上回る余力がまだ地球にあって、問題が、問題として具体的に現われていなかっただけなのさ」

「でももう地球にはその余力がなくなってきたってことなのか」

「その結果として今、我々に突きつけられてるのが、地球規模で深刻化してる環境に関する問題なわけだからな。たとえば森林を例にとると、森林は土が雨で流れ出したり風で吹き飛ばされないように、ちょうど地表を保護する役割をしてるんだ。したがって森林が伐採されると深刻な土壌侵食が起こる。確かに土壌侵食はひとつの自然現象だ。土壌侵食があるからこそ侵食された土砂が河口へと流れ出し、堆積され、かのメコンデルタも、そしてバンコクのチャオプラヤデルタもこうして出来上がったんだ。でも我々人間による森林の伐採の結果として発生する土壌侵食は、自然のレベルをはるかに上回る暴力的な土砂崩れや土石流になって発生する」

「確かに」

「また森林の樹木は、葉などから水分を蒸散させ降った雨水を大気中に戻す役割をしてる。だから森林のこういった生理は降雨パターンと密接な関係をもってるんだ。したがって大規模な森林の伐採が行なわれると、この雨水の循環作用が衰え降雨量の低下をもたらし深刻な旱魃を引き起こす。実際、森林が著しく減少した熱帯地域では、乾季が長く雨季が短くなったっていうデータが出てるんだ」

「へ〜え」

「また森林の樹木はこういった水分の蒸散以外にも、その土壌に水分を保水する役割も担ってる。これは地下水とも密接な関係をもってて、森林が伐採され保水力を失うと、深刻な地下水の枯渇をまねく。そして保水力を失った山に降った雨は、そのまま地にしみ込むことなく地表を流れ出し大洪水を引き起こすんだ」

「もう地球にとって、ただ木が減ったって問題じゃあなくなってきたってことですね」

「その通り。そしてさらに我々の生活はより快適な、より便利な生活へと邁進していったわけだけど、その結果として石炭や石油といった化石燃料の燃焼が爆発的に増加し続けることになった。こうして大気中の温室効果ガス、ようするに言わずと知れた二酸化炭素を猛烈に排出することになり、地球の気温を上昇させてる」

「なるほど」

「まず地球の気温が上昇するってことは単純に考えて、南極や北極の氷が解けてしまうってことだ。極地の氷が解けると当然、海面の水位が上がる。また海水自体、気温の上昇によって熱膨張する特性があることから水位はさらに上がる。実際、もうすでに気温の上昇とともに極地の氷も、ヒマラヤやアルプスなどの永久凍土も解け始めてて、海面の水位は年々確実に上がってる。もちろん世界各地の氷が溶け海面の水位が上がるっていうことは陸地の面積が狭まるっていうことだ。すでに平均海抜が2メートルしかないツバルは海に沈みかけているし、極端な話、海面の水位が上がればデルダの上に築かれたバンコクの街だってアンダマン海の底に沈んでしまうことにもなりかねない。これはバンコクに限らず、東京もニューヨークも、世界の大都市のほとんどが海岸沿いにあって、世界の人口の大半が海岸線の近郊に住んでるんだから」

「ああ、言われてみればそうだ」

「そして温暖化は、気候のサイクルを狂わせ異常気象を引き起こす。まず気温が上昇すると地表や海面からの水の蒸発が進み雨量を増大させる。でもこれは世界に均等に降るんじゃなくて、局地的に集中的に降り、猛烈な大洪水や土砂崩れを誘発する。また逆に気温の上昇は極端な乾燥をまねき、深刻な旱魃や熱波、そして大規模な森林火災を誘発する。さらに海水温の上昇から台風やハリケーンがますます強力になり、その発生頻度も確実に高くなっていき各地に大災害を引き起こす」

「実際ニュースを見てると、もう毎年、世界中で大洪水や森林火災が起こってますよね。そして気温だって、年々確実に上昇して暑くなってて、どう考えても来年は涼しくなるだろうなんて楽観的には考えられない」

「これはもう、いつかやってくるかもしれない未来の話なんかじゃないんだ。そして、これからさらに現実の話となるだろうって指摘されてるのが昆虫の問題だ」

「昆虫?」

「昆虫っていう生物はその身軽さから、自由に棲息地を移動させる可能性がある。そして統計的に見ると何らかの危険性のある昆虫の多くは、熱帯や亜熱帯といった温かい地帯に生息してるんだ。だから熱帯の昆虫が媒介する病気が温暖化によって、これまで媒介が不可能だった地域に拡散する可能性があるのさ」

「なるほど」

「だから温暖化の恐怖っていうのは、なにも洪水や森林火災といったような環境の暴力的な変化だけじゃなくて、蚊を始めとする、そういった小さな昆虫によって媒介される伝染病の蔓延っていう危険性も秘めてるんだ。たとえばマラリアを媒介する蚊は、気温が15度以上になればどこでも繁殖してマラリアを蔓延させられる。そして蚊は気温が高いほど急速に繁殖し、頻繁に血を吸う性質を持ってる。ようするにマラリアの感染は、気温が高くなるとさらにその危険性を増し、そして温暖化が進み気温が上昇すれば、マラリアを媒介する蚊はその棲息域をどんどんと広げ、マラリアの感染の危険性は世界中に広がっていくんだ」

「じゃあ、きっと日本も例外じゃないんですね?」

「もちろん日本も例外じゃない。実際、日本の国際空港でも、日本には本来棲息してないはずの蚊が捕獲されることは特に珍しいことじゃない。もちろんそれはマラリアに限ったことじゃなくて、同じく蚊を始めとする小さな昆虫が媒介する伝染病ってたくさんあるんだ。たとえば蚊が媒介する黄熱病やデング熱、西ナイル熱、フィラリア症。ハエが媒介するアフリカ睡眠病。ブユが媒介するオンコセルカ症。ダニが媒介するコンゴ出血熱にライム病。シラミが媒介する発疹チフスや回帰熱。ノミが媒介するペストとか、これ以外にもたくさんあって、こういった小さな昆虫が温暖化によって、その勢力範囲を地球規模に広げることになるのさ」

「確かに、気温に国境ってないんですもんね……?」


「ところでナムトゥン第2ダムの開発予定地で伐採されたその膨大な量の木材は2つのルートを辿った。ヴェトナムのビン港に運ばれた木材は、そこで船に積み込み日本などに輸出され、そしてもう一方、ここタケークに運ばれた木材は、この目の前の船着場からメコンを渡ってタイに運ばれたんだ」

「エ〜っ。このタケークって、そういう場所だったんですか?」

「実はそのナムトゥン第2ダムの開発予定地は、このタケークの街の背後にあるんだ」

「マジですか?」

「そしてそこには東洋のガラパゴスって呼ばれてるナカイ高原が広がってる。ナカイ高原は豊かな原生林に覆われた広大な高原で、その中には絶滅に瀕する世界的に貴重な種の野性動物が生き残ってるんだ。実を言うとこのサオラーが捕獲されたのも、そのナカイ高原だったのさ」

「この切手の動物が。このタケークの近くで……」

彼かが改めて切手を手に見入っている。


   *


「オ〜っ、やっときた」

そうこうしているうちにオーダーしておいた料理がテーブルに運ばれてきた。

「ア〜っ、すごく美味しそうですね。何ですかこれ?」

「ほら、あそこを見てみろ」

僕は食堂の脇を指差した。

「ヘ〜え、これアヒルなんですか?」

「そうだ。アヒルさ」

食堂の脇では食堂の女主人がアヒルを手際よくさばき、せっせと炭火で焼いている。

「僕、アヒル食べるの初めてだ!」

彼が目を輝かせた。するとその時、学校の授業が終わったのか、まだ制服を着た小学生らしき女の子が、テーブルに冷たいコーラを持ってきてくれた。

「コープチャイ」

僕がラオ語でありがとうと言うと恥ずかしそうに笑いながら、アヒルを焼いているお母さんのところへ走って逃げた。その無邪気な笑顔がとても可愛かった。


僕はアジアを旅していて、こんな子供たちの純真な笑顔に触れると、いつもある本の一節を思い出す。オールコックの『大君の都』だ。彼は幕末の日本に来航したイギリスの外交官で、日本駐在の初代公使・総領事になった男だ。『大君の都』は彼がその際、日本で見聞きした様々な事どもを1冊の本に記したものなのだ。その中にこんな一節がある。


〈イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子供たちはもっているとわたしはいいたい。すなわち日本の子供たちは、自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることはない〉


オールコックが見た日本は、今から百数十年前の日本だ。この百数十年の間、日本はその長い歴史の中でも最も激しい変化を経験したと言えるだろう。

そんな変化の中で我々の生活もまた目まぐるしく移り変わり、かつて想像もつかなかったほどの快適さを我々は手に入れたのだ。そして今の子供たちはと言えば、彼らは少なくとも僕の知る限りアジアのどこの国の子供たちよりも格段に、ある意味において、とても恵まれた生活を送っている。異常なまでに清潔で快適な居住空間に有り余るほど豊富な食料、目新しくきれいな衣服に戸惑いを覚えるほど多くの刺激的な娯楽。

ところが今、日本の子供たちにはかつて思いもよらなかったような、いろいろな問題が露呈してきている。それは親や社会が子供のために、過去のどの時代よりもはるかに膨大な情熱とお金を注ぎ込んでいるにもかかわらず、問題はそれに反比例するかのように多様化、多発化の一途を辿っている。

もしかするとそれらの問題の多くは、食べることや、生きることが大変だった時代にはなかった問題だと言えるかもしれない。もちろんそういった時代が良かったと言っているわけじゃなくて問題はそんなに単純じゃない。しかしひとつだけ言えることは、これは今まで我々大人たちが追い求め、作り上げてきた社会に対して出されたひとつの答えだということだ。


子供の精神はなにも密閉された試験管の中で突発的に自己形成されるわけじゃない。成長の段階での家庭や、社会といった取り巻く環境の影響を受けつつ形づくられていくのだ。確かに子供たちにとっての「生」の在り方は、家庭環境の、社会環境の激変とともに大きく変わっっていったのだ。

子供たちは生まれ落ちたその瞬間から、親の価値観の下にブランド化された人生のレールの上に乗せられ、目的意識をなくし空洞化した受験教育の枠に有無も言わせずはめ込まれ、「自由」と「権利」ばかりを教え「義務」を教えない社会の中を、大学の門を目指しひたすら走り始める。塾という入学試験合格者養成所と、それによって存在感を失ってしまった学校という学歴取得所のふたつの場を行き来しながら。

そして彼らはまたその決して例外を許さない、採点や偏差値によって判断される数字による高度な平均化を理想とした教育プログラムの中で、相反する「個性」という極めて不明確な言葉を繰り返し唱えられ、あたかも個性的であることが生きる意味であるかのごとく暗示を受け、時としてそれが大きなコンプレックスとして彼らに植え付けられることにもなる。

家庭生活はと言えば、子供たちにとって勉強するという責務以外のすべてのことが手放しに許され、少子化という現象も手伝って、親は子供の意のままに何でも好きなものを買い与え、好きなものを好きなだけ食べさせ、親のすべてが子供に集約される。これによって子供たちは「我慢」という節度を永遠に見失ってしまうのだ。

かくして家庭生活の中心に大切に据えられた子供たちは、親の盲目的な愛を一身に受けつつも手応えある充足感を得られず、その結果また極端な息抜きに熱中するようになる。中でも特にテレビに対する依存度は絶大だ。スポンサーの確保に視聴率を稼ぐためなら何でもやる短絡的な番組や、モニターの中でお手軽に人殺しができる刺激的なゲーム。そして子供たちは、そんなテレビやケームから価値観を、人生観を学ぶのだ。

当然、もはや家庭生活の中で「躾」などという言葉は死語だ。勉強さえしていれば際限なく甘やかされる子供たちは、また過剰なまでに保護されることによって自己責任能力を奪われ、確実に善悪の判断基準を見失っていく。そしてその結果としての不具合の責任はすべて、学校という教育の場へ転化するという無責任な慣例を定着させることにもなった。

こうしてそんな長い受験教育がいよいよ大学の合格発表という形で幕を閉じると、彼らには「ただなんとなく」と無意味に時を浪費させることが青春という名の下に美化される夢のような空白の時代が始まる。しかし本来は手段であるべきはずの大学への入学を、ただひたすら目的として育てられていた彼らは、大学への入学を果たした途端に目的を失い、以後、自分探しに長い人生の路頭に迷うのだ……。


確かにアジアの多くの国々では、学校などの教育施設や教科書などの教育資材、そして就学するための家庭環境や経済状態と問題は山積みだ。でもやがてそれらの国々も先進国と呼ばれる大国の後を追い、めざましい経済発展を遂げ、日本のような高い就学率を誇る国へと変貌していくんだろう。

僕は「先進国」とか「後進国」という言葉は嫌いだが、後進国は先進国の後を歩んでいるからこそ、先進国のおかした過ちを回避できる猶予がある。少なくともイギリスの、そしてすでに日本の子供たちから奪われてしまったオールコックの言うところの「美点」を、アジアの子供たちからは奪ってほしくないと僕は心から願わずにはいられない。


「コープチャイって、隊長はタイ語だけじゃなくて、ラオ語もできるんですか?」

「いやあ、ラオ語はただの聞きかじりさ。それにそもそもタイ語とラオ語は言語学的にすごく近い言語で、おそらく方言くらいの差しかないんだ。実際ラオ語のありがとうコープチャイは、タイ語の友達同士のありがとうと同じなんだから」

「コープチャイって、そういう意味だったんですね」

「でもね、そんな偉そうなことを言ってるけど、僕には語学のセンスってものがまったくないんだ」

「そうなんですか?」

「僕はこれまでタイ語やビルマ語、ベトナム語にクメール語、インドネシア語にチベット語と、いろんな言語の勉強をしてきたけど、どれもまともに身についてない。ちなみにそんな中で一番長くやってるのがタイ語で、実は去年まで慶応に自転車通学してタイ語の授業を受けてた」

「隊長が慶応にチャリ通って、なんだか想像しただけで笑える」

「おい。自転車はビアンキのロードレーサーだぞ。お前のママチャリと一緒にすんな」

彼におもいっきり笑われてしまった。

「じゃあなぜ僕にとってそれがビルマ語でもなくチベット語でもなくタイ語だったのか。実はタイの伝統文化にはかなり興味を持ってたんだけど、現代のタイにはまったく興味なかったんだ。近代化されすぎてて。でもね、当時、僕が行きたい国には日本からの直行便がなかった。だから僕はいつもまずバンコクまで飛び、バンコクにしばらく滞在して蚊取り線香とか洗剤とか、それから先の旅で必要になる物なんかを買い揃えたりした後、目指す国へ飛んでた。そしてもう僕にとって行きたい国がなくなった時、突然バンコクのことが懐かしくなったんだ。僕の旅はいつもこの街、バンコクから始まってたんだなってね。するとなんだかタイのことがスゴく愛おしくなった。それが僕にとってビルマ語でもなくチベット語でもなくタイ語だった理由なんだ」

「へ〜え」

「ところが今だに僕の発音するタイ語はタイ人に通じない。タイ語には42個の子音文字があって母音は9個。母音にはまた短母音と長母音と複合母音があって、それを加算すると母音の数は32個もある。それに紛れ込むようにして末子音とか、有気音、無気音なんていうものがあって、こういったものが5つの声調でガッツリと雁字搦めになってるんだ。末子音っていうのは単語の最後についてる子音なんだけど、ちゃんと発音するとアウト、でも発音しないとこれもアウトになる。有気音と無気音ってのも、息を吐くか息を吐かないかの差なんだけど、それも末子音や声調と同じく、そんな些細なことなんて大目に見てくれていいじゃないかって思っても、そのどれかが間違っててもタイ人は理解できないというか、理解してくれない。だから僕は自分の発音が通じない時はもう無駄な努力をしないで筆談するんだ。そらく言葉の発音っていうのは絶対音感みたいなもので、きっとその絶対音感が僕にはないんだ」

「言葉の発音は絶対音感って、なんだか分かるような気がする」

「でも僕は語学って大好きなんだ。だから基本的に僕は、旅は、旅する国の言語で旅することにしてる。それが僕の旅のスタイルなんだ」

「それっておもしろいですね」

「これはね、実は必然もあってのことなんだ」

「必然?」

「そう。そもそも僕は英語が大嫌いだったんだ。英語は僕にとって勉強し始めた中学生の頃から、単なる学校の授業の科目のひとつでしかなかった。それは僕自身あまり西欧指向がなかったってこともある。英語が話せるよりも『源氏物語』を原文で読める方がカッコいいなんて言ってた、おかしなティーンエイジャーだったからね。だから英語を身につけて英語圏の国の人々と親交を深めたいっていう憧れもなかったし、また将来、英語を武器にして仕事をしたいっていう夢もなかった。ようするに英語は僕にとって目的でも手段でもなかったんだ。だから英語はあえて学校の授業以外の勉強はしなかった」

「なるほど」

「こういう必然もあって僕は、旅は極力可能な限り英語を使わないで、その旅する国の言語で旅してる。だから旅する前は、その旅する国の言語を勉強するんだ。参考書を何冊も買い込んで、会話だけじゃなくて文法も徹底的にね。当然アメリカやイギリスを旅する時はせっせと英話の勉強をするんだろうけど、今までそういう機会はなかったし、これから先もそういう機会はないと思う」

「これまで僕、旅は英語でするもんだって思ってたなあ」

「そしてここに僕の発音する言葉が相手に通じないっていう大きな問題がある。でもね、これは決して負け惜しみじゃなくて、言葉が通じないっていうのもいいもんだって思ってるんだ」

「どういう意味ですか?」

「それはね。英語がもはや地球語になった今、英語圏の国の人たちは彼らが日常使ってる言葉で、ほぼ世界中どこへでも旅できてしまう。どこの国の空港や駅でも、ホテルでも、そしてレストランでも必ずといっていいほど英語の表示があって、英語を解するスタッフがいて英語で話しかけられる。そういう現状を見てるといつも僕は、英語圏の国に生まれなくてよかったって思うんだ。もしも日本語が英語みたいに地球語になって、世界中どこへ行っても日本語の表示があって、どこへ行っても日本語が通じて日本語で話しかけられることになったら、それはそれで確かに便利なのかもしれないけど、僕にとって旅は少し味気ないものになってしまうだろうなって思う」

「言われてみると確かにそうですね」

「日本語が通じないからこそせっせとその国の言葉を勉強して、拙い発音で苦労しながらなんとか相手に自分の思いを伝える。これも確かに僕の旅のひとつの楽しみなんだ。それにね、言葉を学ぶっていうことはすなわち文化を学ぶってことだ。言葉を知ることによって初めて見えてくる余りある多くのことがある」

「これまで僕、語学はツールだって思ってたなあ」

「そしてそもそも僕が旅に出て話をしたいのは、都会のホテルやレストランなんかの英語が堪能なスタッフじゃなくて、田舎の街や山奥の村で普通の生活をしてる普通の人たちなんだ。だからアジアの田舎や山奥でそういう人たちと話をするのに英語なんて話せても何の役に立たない。あとそれにもうひとつ。もちろん旅は英語でする方が便利で簡単だ。でもね、たとえそれが短く拙い一言であったとしても、相手の国の言葉を話すことによってお互いの距離感が確実に近くなる。それが何といっても楽しいんだ」

「じゃあ僕もラオ語、勉強しなくちゃ!」

「そうだな。英語だけが言葉じゃないんだ」


『旧約聖書』によると、もともと我々人間はみな同じ言葉を話していたらしい。それが何故に違う言葉を話すようになったのか。それは人間が天まで届く塔、バベルの塔を築き始めたことに神が怒り、人々を四散させ言葉を混乱させたかららしいが、今、世界で使われている言語の数はおよそ68000語ほどあるらしい。

しかし少なくともその半数が今世紀中に絶滅してしまうだろうと言われている。ある推定によると、すでに過去500年の間に4000語から9000語もの言語が絶滅したのだ。

こういった言語の絶滅には、戦争やジェノサイト、そして植民地化による強制的な言語統制など、いくつかの要因が上げられるが、これから確実に言語を絶滅させる大きな要因になるだろうと指摘されているのが、なんと言ってもグローバリズムによる世界の均一化だ。それはテレビを始めとする様々なメディアの発達によってますます加速されるだろう。


   *


とうとう山盛りのアヒルもなくなり、テーブルの上には少し生温くなってしまったコーラだけが残された。ラオスのコーラはなぜかコカコーラではなくてペプシだった。

そういえば僕が初めてヴェトナムに入った時、我々が買えたノンアルコールドリンクはなぜか炭酸の入ったミネラルウォーターだけだった。そんな中ホーチミンの街中でコカコーラが売られているのを目にして、えらく感激したことを今でもよく憶えている。あのヴェトナム戦争の国にアメリカのコカコーラがあるはずないと思い込んでいたからだ。それはまだホーチミンの街中には、ヴェトナム戦争でのアメリカの爆撃による戦傷者がたくさん物乞いをしていた、そんな頃の話だ。


「実はラオスにはね、普通どこの国の街にも必ずあるものがないんだって指摘されてるんだ。何だと思う?」

「何だろう?」

「ちなみにそれは実際、ここタケークにもない」

彼があたりを見回して頭を傾げている。

「まったく想像つかない。降参」

「信号機だ」

「マジですか。信号機ないんですか?」

「ないらしい。もちろん自動車の数が少ないってこともあるんだろうけど、それはゼロじゃない。だから信号機なんて必要ない、それだけラオスの人たちはのんびりと暮らしてるってことなんだろうな」

「いいなあ。そういうの」

彼が改めてあたりを見回し嬉しそうだ。

「稲を植えるのがヴェトナム人、稲が育つのを眺めているのがカンボジア人、そして、稲の育つ音を聞いているのがラオス人」

「何ですか、それ?」

「これは仏領インドシナ、ようするにヴェトナムとカンボジアとラオスを植民地にしたフランス人が、ヴェトナム人とカンボジア人とラオス人のことを表現したことばなのさ」

「ヘ〜え、おもしろい」

「この言葉が示してる通り、勤勉なヴェトナムの人々とは違ってラオスの人々はのんびりしてると言うか、のどかと言うか、悪く言えば野心も向上心もない。でもそれがラオスの人々のいいところなんだよね」

「僕、まだラオスに来たばかりだけど、それ、なんとなく分かるような気がします」

「そのいい例がね、これは僕の個人的な印象なのかもしれないけど、僕が見る限りラオスの人々は、自分の国を植民地にしたフランス人のことも、ヴェトナム戦争で自分の国を空爆したアメリカ人のことも恨んでない」

「じゃあ植民地時代のラオスとフランスとの関係って良好だったんですか?」

「そうだなあ。それに関しては微妙かな?」

「微妙?」

「フランスによる仏領インドシナ連邦の統治も、基本的に他の植民地と同じく同化政策だったんだ」

「同化政策?」

「そう。それは植民地を本国フランスと同化させることで、そこにはもちろん、すべての人の幸福は白人を模倣し、白人と同じ生活習慣を身につけ、そしてキリスト教に改宗することだっていう、誇り高き彼らフランス人の善意があったことは否定しない。でもこの同化政策は残念ながら、現地人をフランス人と同化させ、お互いに良好な交友関係を築こうとしたんじゃなかった。この場合の同化っていうのは、現地人にフランス人の生活習慣を押しつけ、ただひたすら宗主国フランスに奉仕する、宗主国フランスのために働く歯車に仕立てあげるためだったのさ。でもね、仏領インドシナ連邦の中でもラオスの状況は少し違ってたんだ。フランスによるラオスの統治は愚かな民、愚民政策って言われてる」

「なんか、ひどそうな政策ですね?」

「フランスはメコンを中国雲南への交易路とすることを目論んで、そのメコンの要衝としてのラオスに多大な期待をいだき強行的に仏領インドシナ連邦へ編入したわけだけど、実際メコンは雲南への交易路としては使いものにならなかったのさ。メコンは揚子江のような平坦な川じゃなくて、途中に急瀬や滝といった障害がいくつもあって、河口から船で雲南まで溯上するのは不可能だったんだ。おまけにラオスはヴェトナムやカンボジアと違って、どこにも海への開口を持たないっていう内陸の孤立性と人口の極端な希薄性っていう悪条件も重なって、とうとうフランスはラオスでの経済効果は見込めないっていう結論に達する。そこでフランスはラオスには極力お金をかけずに統治する方法を選ぶことになり、それがすなわち愚民政策だったのさ」

「なるほど」

「したがってフランスは、他の植民地のようにラオスの教育体制をととのえ、この国の人々を教育して植民地運営の一役を担わせるってことをしないで現実的に見捨てたんだ。これがその後のラオスにおける教育体制を決定的に遅らせることになったって言われてる」


実際ラオスでヨーロッパ社会で言うところの近代教育が行なわれるようになったのは19世紀後半のことだった。しかしそれはラオスの、ラオスの国民による、ラオスの国民のため教育といった性質のものでは決してなかったのだ。

文明化の使命。このなんとも奇妙な信念に後押しされフランスの植民地支配は邁進してゆくわけだが、ここラオスでも宗主国フランスによる道路や橋の建設といった事業がまがいなりにも着手されていった。そして教育もまた例外ではなかった。

ラオスでは1897年、王都ルアンプラバンで王族の子弟のための初等学校が開校されたのを皮切りにして、各地の省庁所在地、すなわちヴィエンチャンやチャンパサック、シェンクアンやサヴァナケットに初等学校が開校されることになる。

しかしこの国で中等教育が行なわれるのは、1921年、ヴィエンチャンの中等学校コレージュ・デュ・パヴィの開校まで待たなくてはならなかった。そして高等教育にいたっては、同じくヴィエンチャンに高等中学校リセが開校される1947年まで待たなくてはならず、さらにそれ以上の教育を受けるにはヴェトナムやフランスといった国外の大学へ留学するしかなかったのだ。

しかもこれらの学校の授業はラオ人ではなく、フランス人、もしくはフランス人に教育されたヴェトナム人の教師によって行なわれていた。ちょうどデュラスの両親のような、誇り高き教師たちがはるばる海を渡ってやってきていたのだ。

そしてまたその授業の内容もラオ人が自らの言語や文化を学ぶというものではなく、このアジアの片隅の小国で、フランス本国から取り寄せた教科書を使い、フランスの歴史や地理、文化といったものをフランス語で学んでいたのだ。

ここでひとつ忘れてはならないことがある。実はこういったラオスの学校の生徒は、フランスの植民地政策によって移住させられていたヴェトナム人の子弟によって占められていて、ラオ人はほとんどいなかったのだ。

当然そんな情況の中でラオ人がハノイやパリの大学に留学するなどといったことは、王族や貴族といった特別な階級の家柄の子弟以外には不可能な話しで、実際1937年、612人いたハノイのインドシナ大学の在学生の中でラオ人はたったの2人だったらしい。


「なんだか、ひどいですね?」

「まあフランス人にとって、アジアの小国に暮らす現地人の教育水準なんてどうでもよかったんだ。それにそもそも植民地っていうものは大なり小なりそんなものなのさ。目的というか、あくまでも優先されるのは現地人の幸福なんかじゃなくて自国の利益だ」

「確かに」

「そんなヨーロッパの植民地支配を考える上で、ひとつ、それがキリスト教の布教と両輪をなして拡大していったってことは無視できない重要なポイントだな」

「キリスト教?」

「キリスト教の布教はキリスト教徒にとっての使命であり、また何といってもそれが彼らの善意でもあったんだ。彼らは、彼らの言うところの世の絶対的真理を知っていて、それはとても幸福なことで、逆にそれを未だ知らない人々は彼らにとってとても不幸な人々だったんだ」

「ヘ〜え」

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らの父と子の聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。そう『新約聖書』のマタイによる福音書にも書かれてる」

「聖書に?」

「こうして彼らは聖書に書かれてるこの言葉を胸に、熱い使命感と善意に燃え、未知なる大海の彼方へと向かうことになったわけだけど、残念ながら彼らのその誇り高き善意は現実として、傲慢で排他的な、独善極まりない行為として各地の歴史に暗い影を落とすことにもなった。特に南アメリカにおける彼らの非人道的と言わざるを得ない改宗行為は枚挙にいとまがない。また聞くところによるとインドでも、異教徒を根こそぎにするためヒンドゥー教の寺院を破壊し、キリスト教に改宗させた人々を完全にヒンドゥー教から離別させるため、ヒンドゥー教が神聖なる生き物として食べるこを戒めてるウシを強制的に食べさせることさえ行ってたらしい。そしてまた彼らのそれが多くの場合、まさに布教という皮をかぶった侵略行為以外の何者でもなかったってことだ。異教徒を強制的に改宗させ、富を掠奪し、異教徒の土地を流血をもって征服することが、キリスト教という旗の下に見事に正当化されたのさ。皮肉にも布教という宗教行為が軍事力と両輪をなし、ヨーロッパの植民地帝国は全世界へと拡散拡大していき、その侵略者たちの足跡には煌めく十字架が高々と、1本、また1本と立てられていったんだ」


幸いどこの国の植民地にもならなかたタイでは、そのような露骨な改宗行為は行われなかったようだが、17世紀、タイを訪れたフランス人宣教師フランソワ・ティモレオン・ド・ショワジの著書『シャム旅行記』の中には、タイの王の謁見の場でルイ14世の言葉を代弁する大使の演説が入念に書き残されている。それを見ると当時の彼らキリスト教徒の、キリスト教徒としての揺るぎない自尊心と、排他的な歪んだ正義感がよく現れていておもしろい。


〈王は陛下の真の栄光に思いを至らせばこそ、ぜひとも陛下が、現在地上において包まれておられるこの至上の尊厳の由って来たるところは、真の神を措いて他にないことを御賢慮下さるよう、切に願っておられます。真の神とはすなわち全能、永遠、無限の神、キリスト教徒の認める神であり、諸々の王をして君臨せしめ、万民の運命を司るのは、ただこの神のみであるゆえに、陛下のあらゆる偉大さを捧げるべきは、天と地の神なるこの神であって、東洋において人びとの崇める弱き神々ではございませんし、そもそもこれらの神々の無力さは、かくも英邁にして明敏であらせられる陛下の御洞察を免れるはずのないところでございます〉


「こういったヨーロッパ人の揺るぎない自信と確信は、やはりキリスト教の教えに根ざした、自分たちは神によって選ばれた地上における特別にして最高の人種だっていう、そんな尊大な優越意識によって支えられていたことは疑いの余地がない。そしてこれが白人は生まれながらにして支配する人種であり、有色人は生まれながらにして支配される人種だっていう白人至上主義となっていくんだ」

「なるほど」

「インディオは人間なのか?」

「何ですか、また唐突に」

彼が思わず笑いながら聞き返してきた。

「これは大航海時代が始まって大海の果てを目指し船出したヨーロッパ人が、未知なる新大陸で出会ったインディオに対して、はたしてこれは人間なのかどうかって激論を交わした、かの有名なバドリア大論争の議題だ」

「バドリア大論争?」

「この論争は、カトリックの聖職者ラス・カサスと神学者セプルベータとの間で始まったんだけど、インディオは人間なのか。これは神の福音を与えるに値する生き物なのかっていう、こんなバカげた論争が大真面目に行なわれたのさ」

「マジ、バカげてますね」

「そしてこの大論争は結局、インディオも人間と認めるっていうローマ教皇パウロ3世の宣言によって、ようやく決着をむかえるんだ」

「ア〜っ、完全にバカげてる」

「でも実は彼らは、神によって選ばれた地上における特別にして最高の人種だっていう自分たちの優越性を、科学的に証明しようっていう試みまで行ってたんだ」

「何ですか。そのバカげた試みって?」

「社会ダーウィニズムだ」

「社会ダーウィニズム?」

「これはダーウィンの『進化論』を社会に置き換えたもので、国家間や人種間の闘争までも、ダーウィンの言うところの進化の過程における優勝劣敗の自然淘汰と結びつけ、正当化するまでに発展していくんだ」

「ヘ〜え」

「かつてヨーロッパではこの『進化論』をもとにして、人種の肉体的差異を研究し、人種の優越を科学的に証明しようっていう試みが盛んに行なわれてたのさ。たとえば頭蓋骨の形態や、額から顎にかけての傾斜角度を始めとした、あらゆる肉体的差異を測定して、それを人種の優越をつける尺度としたんだ」

「おもいっきりバカげた試みですね」

「頭蓋骨の大きさは大きいほど高等であり、人間は動物よりも大きく、白人は野蛮人よりも大きい。また白人は生まれた時、野蛮人のもついくつかの特徴、たとえば低い鼻をしているが、成長するにつれて鼻が高くなりその特徴は消える。つまり野蛮人は白人へと進化する前の形態なのだ。こんな、なんともバカげたことがかつてヨーロッパでは大真面目に論じられてたのさ」

「もう、そのバカさ加減に呆れてものも言えない……」

「こうして社会ダーウィニズムは不可思議な科学的裏付けを得てヨーロッパ社会に浸透していき、以後脈々として彼ら白人の尊大なるアイデンティテイを支える柱となって、白人至上主義をさらに揺るぎないものにしていくんだ」

「そうか。白人至上主義って宗教と科学の両方から裏付けられてたんですね」

「そしてこれがまた、白人による野蛮人である現地人の淘汰を美化させることになるのさ。当時の科学者たちが導き出した、優秀民族が地球上でふえるために、我々白人は世界のいたるところに進出しなくてはいけないっていう科学的結論に後押しされ、植民地支配はいよいよ全盛をむかえることになるんだ」

「やっぱそう考えると人種問題って、そう簡単に解決しないって感じしますよね」

「我々人間は高度な知能を得て動物とは違う生き物になってしまった。したがって動物は基本的に本能で生きてるけど、我々人間は理性で生きてる。だから我々人間は本能ではなく各自の理性でもって思考し行動しているわけだから、その時点ですでに我々人間は同じではなくて大なり小なり違ってるんだ。ようするに我々人間が違ってることは当たり前のことなのさ。でも我々人間は違ってるってことがどうしても許せない。それは集団生活をやり始めて、高度な知能を得た我々人間の自己防衛でもあったのかもしれないな。集団生活っていうのは基本的に同じ者が集まり、同じことを思考し、同じであることが要求されてる。だから違ってることが許されない。それを許してしまうと我が身が危険にさらされ、集団生活が破綻してしまうかもしれない」

「違ってることを否定することによって安心感を得てる。そういうことですか?」

「それ、すごく的を得た指摘だ。そして彼らヨーロッパ人はその違ってるってことをお互いの存在の優劣をつける尺度にし、優勝劣敗の法則に従って世界の支配構造を確立していったわけだ」


「実は僕はね、白人至上主義って言葉を耳にすると、いつも頭をよぎることがあるんだ」

「何ですか?」

「コンプレックスだ」

「コンプレックス?」

「そう。たとえばだ。髪の毛の色は黒じゃダメだ。やはり髪の毛の色は明るい色で、中でも一番キレイな色はまず間違いなくブロンドだ。目の色もそうだ。目の色は黒でも茶でもなくて、なんと言ってもブルーかグリーンだ。もちろん肌の色は白だよ。そして鼻は細っそりしてて高く、中でも特に重要なポイントは目が大きくて二重まぶたで、しかも睫毛も長い、それこそが美しい顔なんだ。こういった世界中の人々が追い求めてる容姿の美のスタンダードって、白人へのコンプレックスから生まれたんじゃないかって僕は思ってるんだよね」

「それ、すごくおもしろい。今までそんなふうに考えたことなかったけど、言われてみると確かにそうですよね。逆にブロンドの髪の毛を黒く染める人はいるかもしれないけど、美容整形で鼻を低くしたり目を細くしたって話、聞いたことないですもん」

「なぜかって考えてみると、けっこうおもしろい現象なんだよな。さらにおもしろいのは、少なくともそれは白色人種が有色人種に強要したことじゃなくて、有色人種が自らが、自らの意思でやってるってことだ」

「確かに」

「そうだ。少し補足しておくと、宗主国フランスは愚民政策によってラオスの人々を見捨て、その結果として、ラオスにおける教育体制を決定的に遅らせることになったわけだけど、この政策は何もラオスの人々をただの愚民として見捨てたわけじゃないんだ。ラオスの人々は、人頭税や、塩やアルコールなどの間接税を始め、植民地政府によって課せられた数々の重い税金に苦しめられ、また強制的に道路や橋の建設に賦役として駆り立てられ、ラオスの人々の生活はフランス人によってみごとに踏み躙られたんだ」

「最低……」


   *


すっかり生ぬるくなっていたコーラを飲み干し、お母さんに支払いをして女の子にバイバイすると、我々はとりあえずメコンを背にして歩き始めた。

「隊長が言ってた通り、マジ、信号機ってないですね」

「まあたとえここに信号機があったとしても、わざわざ停車して信号待ちする車がない」

「言えてる。それにしてもタケークって静かな街だ」

確かに静かな街だった。普通、街というものが微かに立てる心臓の鼓動のような騒音、そういったものがこの街ではまるで感じられないのだ。

「そうだ。隊長、気づいてました?」

「何を?」

「今回バンコクを発ってから、ウボンラチャタニーでも、ナコンパノムでも、ここタケークでも、僕たち、観光客っていう人種にひとりも会ってないってこと」

「この前も思ったけど、いつも変なことに気づくんだな」

「そうですか?」

「僕はこれまでそんなこと考えたこともなかったけど、言われてみると僕は旅に出ても、ほとんど観光客っていう人種に会ってない」

「へ〜え」

「そもそも僕は観光地ってものに興味ないんだ」

「なんでですか?」

「観光地って、これまで実際に行ってみて感動したことってほとんどないんだ。写真は嘘をつくっていうけど、たとえばまだジャングルの中にポルポトがいた頃、やっとの思いで行き着いたアンコールワットも、ちっぽけで、小さい頃から食い入るように眺めてた写真家が撮影したアンコールワットのほうがはるかにインパクトあった。あの乳海撹拌も、屋根を取り外したところでカンボジアの内戦が始まってそのまま放置されてたらしいけと、もはや僕の心を揺さぶるものは何もなかった」

「乳海撹拌って何ですか?」

「乳海撹拌ってのは古代インドの神話で、それがアンコールワットの東回廊の壁面に彫られてるんだ」

「へ〜え」

「少なくとも遺跡は公園になったらおしまいだ。その時そう思った。それ以来、僕はすっかり観光地ってものに興味がなくなったんだ。でもね、一見して何もない、こういう平凡な街の中には、そこに暮す人たちの日常があって、それが僕の心を揺さぶる。だから僕はいつも旅をするんじゃなくて、その平凡な日常の中に紛れ込むんだ」

「ア〜っ、ちょっと隊長の謎がとけてきた気がする……」

「なんだって?」

それにしてもこの通行人もほとんどいない閑散とした通りを、まっすぐ進むべきか、それとも目の前の角を右に曲がるべきか、あるいは左に曲がるべきか、まったく判断のしようがない。今、歩いているメコンから直角に伸びるこの通りも、そのまま歩き続ければどこかに辿り着くんだろうが、行く手を見渡してみても、ただそこには赤茶けた土で汚れた道がまっすぐに伸びているだけで、その先に、このまま歩き続ける理由となりうるようなものがあるとも思えない。そこで我々は目の前の角を左に曲がった。もちろんなぜと問われたところで答えられる理由などない。

メコンからひとつ奥まったこの通りは、道の両側にごくありふれた2階建ての家屋が連なっていて、その間に、土埃で薄汚れた舗装道路が何の障害もなくどこかへ向かってまっすぐにのびている。そんな色気のないすっからかんとした通りの光景を、ただ熱帯の真昼の太陽が、くっきりと白と黒のコントラストに眩しく染め分けていた。

「そういえばラオスってヴェトナム戦争にどう関係してたんですか。ヴェトナム戦争のことは高校の授業で少しやったけど、まったく憶えてない」

そんな何ひとつとして目を引くものがない静かな通りを歩きながら、彼が唐突に、単なる暇つぶしに適当な話題を思いついたといった感じで聞いてきた。

「ラオスはね、実はヴェトナム戦争での空爆が最も激しかった国なんだ」

「エ〜っ、意外だ」

「まずそれは日本の無条件降伏によって第二次世界大戦が集結した、その時を同じくして起ったんだ。ヴェトナム全土でホー・チ・ミン率いるヴェトミンが一斉蜂起したのさ」


「天子は南面する」という中国古来の伝統に従って、禁色の色瓦をいただき南面するヴェトナムの古都フエの王宮。その正門は「午門」と呼ばれている。それは正午、太陽がこの門の真上に差し掛ることに由来していて、基壇には3つの門があり、中央の大正門はかつて皇帝のみに開かれいた。

そんな中国の吉祥に光り輝く午門の前には「8月23日通り」と呼ばれる街路樹の連なる美しい通りがある。この通りの名前、1954年の「8月23日」という日付は、フエの人々にとって永遠に忘れることのできない特別な日になった。1954年。そう、それは第二次世界大戦終決の年だ。

当時ヴェトナムはフランスの植民地支配から日本の軍事占領下へと移行していたのだが、この年の8月15日、ポツダム宣言に従って日本が無条件降伏したことによって、ヴェトナムは突如、権力の空白状態になる。これを機にホー・チ・ミン率いるヴェトナム独立同盟、すなわち「ヴェトミン」は20万人の武装した民衆とともにハノイで蜂起し一気に官庁を占拠した。「八月革命」だ。

ヴェトミンのこのクーデターはただちにヴェトナム全土へと飛び火し、そして8月23日、とうとうフエの王宮前広場の旗台にはためいていた黄色旗が引きずり降ろされ、それに代わってヴェトミンの金星紅旗が掲げられたのだ。「黄色旗」とは黄色の地に八卦の「離」を表す3本の赤い線をあしらった皇帝を象徴するグエン王朝の旗だ。当時、時の皇帝バオダイ帝は日本の占領下、日本の傀儡としてかろうじて帝位にとどまっていた。

そしてその日フエの街は革命に沸く群衆で溢れ返り、あたりはヴェトミンの旗、金星紅旗の赤で埋めつくされた。バオダイ帝の傍に仕えていたフエ朝廷宮中官房長官だったファム・カク・ホエはその日の様子を、怒涛のように人であふれる広場は赤い旗と標語で埋まり、そのあふれる人々の誰もが歓喜し、ついに民衆の手に国を勝ち取る蜂起の空気に浸っていたと回想している。


そして8月30日の正午。フエの王宮前広場の旗台には再び皇帝の黄色旗がはためいていた。やがて広場は次々と押し寄せるおびただしい数の群衆に埋まり、その群衆が一斉に歓呼の声を上げたのが午後4時のことだった。ヴェトミンの金星紅旗ひるがえる車に乗り込んだ革命政府の代表団がついに、これまで皇帝のみに開かれていた王宮の大正門をくぐったのだ。 

バオダイ帝は黄色のターバンを頭に巻き、黄色の宮廷装束に龍の文様を施した履物という出で立ちで革命政府の代表団を午門の楼閣で出迎えた。こうしていよいよバオダイ帝退位の式典は始まったのだ。

式典は群衆の拍手と歓声の中で執り行われ、感極まり込み上げる涙に幾度も声をつまらせながらようやくバオダイ帝が退位の詔を読み終わると、いよいよ旗台の黄色旗が静々と降ろされ、それに代って、紅に五稜の金星光り輝くヴェトミンの金星紅旗が王宮前広場の黄昏の空に高々とはためいたのだ。常に押し寄せる列強の波に翻弄され続け、まさに波乱に満ちたヴェトナム最後の王朝、グエン王朝144年の歴史はこうして幕を閉じた。

午門にはただちに21発の祝砲が雷鳴のごとく轟き、あたりは「ヴェトナム独立万歳」「ヴェトナム民主共和国万歳」という取り巻く何万人もの群衆のシュプレヒコールの渦に包まれた。

しかしこの時、日本が無条件降伏をしたことによってヴェトナムへの復権を目論むフランスの野望がもうそこまで迫り来ていることも、そしてその衝突がやがて「ヴェトナム戦争」と名をかえ、二十世紀最悪の戦争として語り継がれる出口の見えない暗澹たる深い泥沼の底へと沈み込み、この国の全土を戦火に包み焼き尽くそうとしていることなど、誰ひとりとして予想すらしていなかったのだ。


「そのホー・チ・ミン率いるヴェトミンと、ヴェトナムへの復権を目論むフランスとの間でひとつの幕が切って落とされ、ヴェトナム戦争の前哨戦インドシナ戦争が始まったわけだけど、戦火は7年7ヶ月燃え続け、とうとうディエンビエンフーの戦いによってフランスは完全に敗北し、ヴェトミンは悲願の勝利を手にするんだ」

「へ〜え」

「そしてスイスのジュネーブに当事国の代表が集まって国際会議が開かれたんだけど、ディエンビエンフーの戦いで敗北したにもかかわらず、ヴェトナムにおける利権を失うことを恐れたフランスが、ヴェトナムの独立に反対し単なる停戦を主張し始めたのさ」

「なんだかそれって、いつでも大国のやりそうなことですね」

「その結果、調印されたのがジュネーブ協定だ。この協定によってヴェトナムは北緯17度線を軍事境界線として、北をヴェトミン側、南をフランス側の領土として暫定的に2つに分断されることになる。こうしてやがてこの南北ふたつのヴェトナムは、社会主義と自由主義が対峙する冷戦っていう枠組みの中にはめ込まれ、北を支援する社会主義の中国ロシア、そして南を支援するフランスに代わって本格的に軍事介入し始めた自由主義のアメリカによる、20世最悪の戦争と称されることなにる、ヴェトナム戦争っていう出口の見えない暗澹たる深い泥沼の底へと沈んでいくんだ」

「いつの時代も結局そういう図式になるんだな」

「そして南ヴェトナムではね、フランス政府に反感を持つ住民への猛烈な弾圧が始まったんだ。フランスに対する反政府的な思想の新聞や書物の出版はすべて禁止され、多くのヴェトナム人が拘禁、拷問、処刑された」

「それって今でもどこかの国で同じようなことやってるじゃないですか」

「そんなフランスによる言論弾圧と思想統制が南ヴェトナムで激化される中、北ヴェトナムでは南の仲間たちを救うための物資を輸送する秘密の補給路の建設が始められたのさ。それがホー・チ・ミン・ルートだ。ホー・チ・ミン・ルートは実に巧妙に作られ、ヴェトナム戦争終決までに作られたその総全長はとてつもない距離だったんだ。そしてそれはヴェトナムの国境を縫うようにしてラオス領内を通ってた」

「それをアメリカが空爆し始めたってことなんですね?」

「正解。このアメリカによって開始された自由主義を守るっていう大義名分によるラオスへの猛烈な空爆は、森林、耕作地、住居、学校、寺院とまさに無差別に行なわれ、なんとアメリカが第二次世界大戦中に投下した爆弾の量に匹敵するほどの莫大な量の爆弾がラオスに落とされたんだ。そんなアメリカの猛烈な無差別爆撃によって、深い森林に覆われてたラオスの国土は地形を変えてしまったとも言われてて、そしてその空爆によって犠牲になったのは、ほとんどが何の罪もない一般の人々だったのさ」

「マジそういうのってもう昔の話なんかじゃないですよね。今でもテレビをつけると、必ずどこかの国で同じようなことをやってる。我々人間っていつになっても同じことを繰り返してるんだなあ」

「まったくその通りだよな。ドイツの哲学者マルクスは歴史は繰り返すって言ったけど、これは繰り返すんじゃない。そもそもそ我々人間ってそういう生き物なのさ。それはもう今さら歴史を振り返るまでもない。我々人間はどうしても殺し合いがやめられないんだ」

「それが事実だとすると悲しくなりますね」


「そういえばヴェトナム戦争を描いたフランシス・コッポラの『地獄の黙示録』って映画があったけど、その映画のオマージュになった『新約聖書』のヨハネの黙示録って読んだことある?」

「ア〜っ、その名前はすごくよく耳にするけど実際に読んだことないです」

「それはイエス・キリストの黙示。ヨハネは神の言葉とイエス・キリストが示した証、そして彼が見たすべてのことを書き記した」

「なんだか、おもしろそう!」

「まず天の門が開かれた。そしてトランペットのように響く声がヨハネに、こちらへ来なさい、この後に必ず起こるすべてのことをお前に示そうって語りかけてきた。するとヨハネは精霊にいだかれ天に導かれるんだ。そこには天の玉座に座っておられる方がいた。そして玉座はエメラルドのような虹が取り巻いてて、またその玉座の周りには24の座が設えてあり、そこに白いローブを身にまとい黄金の冠をかぶった長老たちが控えてた。すると突然、稲妻が輝き、雷鳴が轟き、玉座の前に7つの灯火がともり、水晶のようなガラスの海が広がった」

「スゴい展開だ」

「その玉座の周りには4つの生き物がいた。それらの生き物にはすべて前にも後ろにも目があった。第1の生き物は獅子のようで、第2の生き物は雄牛のようだった。第3の生き物は人間のような顔をしてて、第4の生き物は鷲のようだった。これら4つの生き物にはすべて6つの翼があって、その翼にもことごとく目が開いてた。そして玉座に座っておられる方の右手には7つの封印で封じられてる巻物があり、玉座と4つの生き物の間には刃物の傷跡がある殺された小羊がいた。その小羊には7つの角と7つの目があって、小羊は玉座の前に進み出ると、玉座に座っておられる方から巻物を受け取る」

「ヨハネの黙示録ってそんな話だったんですか」

「なかなかおもしろいでしよ。そしてここからヨハネの黙示録の中でも最も有名な、傷だらける小羊がその巻物の7つの封印を解いていく話が始まるのさ」

「7つの封印?」

「小羊が第1の封印を解くと、第1の生き物が雷鳴のような声で来たれと言った。すると白い馬が現れ、その馬に乗ってた弓を持った者は、冠を与えられると勝利の上にさらに勝利を得ようと出ていった。小羊が第2の封印を解くと、第2の生き物が雷鳴のような声で来たれと言った。すると赤い馬が現れ、その馬に乗ってた者は、大きな剣と、地上から平和を奪い人々に殺し合いをさせる力が与えられた。小羊が第3の封印を解くと、第3の生き物が雷鳴のような声で来たれと言った。すると黒い馬が現れ、その馬に乗ってた者は手に秤を持ってて、オリーブ油とブドウ酒を疎かにするなって声が聞こえた。小羊が第4の封印を解くと、第4の生き物が雷鳴のような声で来たれと言った。すると青白い馬が現れ、その馬に乗ってた死っていう名の者には地獄っていう名の従者がいて、彼らには地上の4分の1を支配する権限と、剣と飢餓と病、そして獣によって人々を滅ぼす権限が与えられた。小羊が第5の封印を解くと、祭壇の下に神の言葉を信じ神に証をたてたがゆえに殺された人々の霊魂が現れた。そして彼らは大声で叫んだ。真実の聖なる主よ、いつまで裁きをお下しにならないのですか。なぜ私たちの血を地面に流した者たちに報いをお与えにならないのですかと。すると、もうしばらく静かにしていなさい。お前たちと同じようにまだこれから殉教する兄弟たちがいるからだって告げられた。小羊が第6の封印を解くと、大地が大きく激しく揺れ動き、太陽は分厚い荒布に覆われたように黒くなり、月は血のように赤くなった。さらに天の星がバラバラと地に落ちてきて、それはあたかもイチジクの青い実が大風によって枝を揺すられ落ちるようだった。また天はあたかも巻物がスルスルと巻き取られるようにして消え去り、山も島も、その激しい揺れによってその形をとどめることはなかった。そこで人々は洞窟や山の岩の間に身を隠し、山や岩にむかって大声で叫んだ。どうか私たちの上に崩れかかり、玉座に座っておられる方の視界から私たちを遮り、小羊の怒りから私たちをお守りくださいと。でも、もうその時すでに神と小羊の大いなる怒りの日がやって来てたんだ。小羊が第7の封印を解くと、天が半刻ほど沈黙につつまれた後、現れた7人の天使にはそれぞれトランペットが与えられ、また祭壇のそばに現れた別の天使には香と黄金の香炉が手渡された。その香と香炉は、すべての聖徒の祈りとともに玉座の前の黄金の祭壇に捧げるためで、香の煙は聖徒の祈りとともに神の御前に立ち昇った。そして天使がその香炉に祭壇の火を入れて地に投げつけると、雷鳴が轟き、稲妻が輝き、大地が再び大きく激しく揺れ動いた」

「なんだか圧巻だ」

「でもまだこれで終わってない。ここからいよいよ7人の天使がトランペットを吹くんだ」

「トランペット?」

「第1の天使がトランペットを吹くと、血の混じった雹と火の玉が天から降ってきて大地の3分の1が炎につつまれ、木々の3分の1が焼け、またすべての青草が焼失した。第2の天使がトランペットを吹くと、山のように燃え盛る炎が海に広がって海の3分の1が血のように赤くなり、海の中の生き物の3分の1が死滅し、海に浮かぶ舟の3分の1が焼け落ちた。第三の天使がトランペットを吹くと、松明のように燃え盛る大きな星がいくつも天から落ちてきて、地上の川とその水源の3分の1に落ちた。この星はニガヨモギって呼ばれてて水の3分の1が苦くなり、それを口にした多くの人々が死んだ。第4の天使がトランペットを吹くと、太陽の光の3分の1、月の光の3分の1、そして星という星の3分の1が失われ、この世の3分の1が暗くなった。したがって昼の光も3分の1になり、夜の光もまた同じようになった。第5の天使がトランペットを吹くと、天から星がひとつ地に落ちてきた。この星には地の淵の穴を開ける鍵が与えられてて、その穴が開くと竃から立ち上るような煙が湧き出して、太陽も空も煙に覆われこの世は暗くなった。するとその煙の中からイナゴの大群が現れる。このイナゴにはサソリのような力が与えられてて、地上の草や、いかなる作物も、またいかなる木々にはも危害を与えてはならないが、額に神の刻印のない者には、5ヶ月間、苦しみ続けさせることが許されてたんだ。第6の天使がトランペットを吹くと、神の御前にある黄金の祭壇の四隅から声がした。その声はトランペットを吹いた第6の天使に向かってこう言った。大河ユーフラテスの畔りにつながれてる4人の使徒を解き放てと。そしてこの4人の使徒は人々の3分の1を殺すために解き放たれた。馬に乗った彼らは炎のような赤、紫、そして硫黄ような黄の胸当てを身につけてて、馬の頭は獅子のようで口からは炎と煙と硫黄を吐き出してた。その口から吐き出される炎と煙と硫黄による3つの災いによって人々の3分の1が殺された。また馬の尾にある蛇のような頭によっても多くの人々が殺された。そしていよいよ第7の天使がトランペットを吹くと、神の秘められた計画が完成し、神ご自身が預言者たちに伝えていた通りのことが起こるんだ」

「もう、どんだけ強烈な話なんですか、ヨハネの黙示録って」

「ヨハネの黙示録はこんな話がこの後も延々と続くんだけど、人間ってのはおかしな生き物だよな。こういった悪を為した人間の行き着く先を諭した終末論や、ダンテの『神曲』の地獄編みたいな悪を為した者が堕とされる地獄観なんてもは、もうほぼ世界中の民族に大なり小なりあって、特に宗教には必ずといっていいほどある。にも関わらず我々人間は悪を繰り返し、そして我々人間はどうしても殺し合いがやめられないんだ」

「確かに」

「そして我々人間はとうとう核兵器っていう究極の手段まで手にした。そしてたった1発でも取り返しのつかないことになるその核兵器を何発もってるかによって国力を誇り、国の優劣を決め、その地球を破壊する起爆装置のスイッチを各国の偉い政治家たちが手元に置いてゲームをしてるわけだ。そのスイッチを押してしまえば最後、この世の終わり、すなわちゲームオーバーになるっていうゲームをね。彼らがそこまでして得ようとしてるものっていったい何なんだよ。それは命よりも大切なものなのか。まったく我々人間っていうのは救いようのない愚かな生き物だ」

「そういえば恐竜が絶滅したのは、小惑星の衝突による地球規模の気候変動が原因だって言われてるけど、もしかすると次のインパクトは小惑星の衝突じゃなくて、核兵器のスイッチを押して始まるのかもしれませんよね。そしてその我々人間が自ら引き起こしたインパクトによって、我々人間は絶滅するんだ」

「オ〜っ、それってヨハネが聞いた天上の玉座に座っておられる方の予言よりも説得力ある予言だぞ」

「実は僕って預言者だったのかあ……」

 彼が得意げなおかしな顔をして笑う。

「アッそうだ。確かヴェトナム戦争でヴェトナムとラオスを空爆したアメリカの爆撃機は、タイのナコンパノムの空港から飛び立ったんだと思ったけどな?」

「エ〜っ、マジですか。ビックリ!」


   *


目が醒めるとドアの下の隙間から光が一筋、部屋の中に差し込んでいた。

最初は、どこかの公民館で居眠りでもしてしまったのかと妙な感じだったが、間もなくしてここがタケークのホテルのロイヤルスイートだったんだということを思い出す。素晴らしく広く殺風景な部屋の中は、昼寝をし始めた頃よりも幾分か暗くなっていて、随分と長く眠り込んでしまったものだと我ながら呆れた

確かにここまでこれといったトラブルもなく順調だったとはいえ、やはり少しずつ旅の疲れがたまっていたんだろう。今回の旅もいつものごとくバンコクから始まり、4月13日のせいで旅は大きく方角を変え、カンボジアの国境近くのウボンラチャタニーを経て、そこからローカルバスを乗り継いでナコンパノムに辿り着いた。そしてナコンパノムのメコンの船着場から渡し船に乗って国境を越え、こうしてここラオスのタケークのホテルの部屋で昼寝をしている。

苦労してやっと10日間の休暇をかき集めた今回の旅も、とうとう今日で8日目だ。明日は街外れの市場からバスに乗り込み、いよいよこの旅のゴール、ラオスの首都ヴィエンチャンだ。確かにまだここからヴィエンチャンまでの移動が残っているからなんとも言えないが、このままトラブルがなければ、出国前に予約しておいたヴィエンチャンからバンコックまでの飛行機にはなんとか間に合いそうだ。

でもいくら旅の疲れがたまっていたとは言っても、いつまでもこんなところでゴロゴロしていては話にならない。ふと隣のベッドを見ると、彼はまだ金魚みたいな口を開けて熟睡していた。

「おい、起きろ!」

「お、おはようございます。起きろって、隊長、今いったい何時ですか……?」

「おい、おはようございますってお前、もう夕方だぞ!」

というわけで彼を叩き起こし、ふたり急いで身仕度をして部屋を出た。


ドアを開けるとメコンが真っ赤に燃えていた。

ちょうどメコンの川面に浮かぶ漁の小舟も、川岸に繁る木々の葉も、もちろんあたりを飛びまわっている痩せこけた貧相なスズメたちの羽根も例外なく、この世の何もかもを真っ赤に染めながら熱帯の太陽がメコンの対岸の果てに傾きかけていた。そんな太陽が刻一刻と燃えつきようとし出していることに少し焦りを感じ、我々は急いで階段を駈け降り川岸の通りへ出た。

ホテルの前の通りにはメコンに沿って熱帯の大木が大きく枝を広げて連なっていて、我々はそんな通りをしばらく歩いたところで、見晴らしのいい川岸のコンクリートのガードに腰をおろした。もちろん目の前には大河メコンが、今日という日の終焉を真っ赤に彩る熱帯の太陽の輝きを水面いっぱいにキラキラと照り返している。


「なんだか平和だな……」

「平和ですね……」

その時ふと眼下の土手を見ると、メコンが水嵩を増せばあっという間に押し流されてしまいそうな、そんな草叢の中の猫の額ほどの狭い空き地を使って小さな畑が作られていた。そして男がひとり大きなバケツをさげて、メコンの水際と畑を行き来して作物に水をやっている。

思えば我々は食物の生産の場から完全に離れてしまった。もはや我々にとって食物は、こんなふうに額に汗して畑を耕して手に入れるものではない。我々にとって食物はスーパーマーケットやコンビニエンスストアで簡単に、欲する時に欲するだけ手に入るのだ。

ようするに我々に食物をもたらしてくれるのは、太陽の輝きでもなく、また肥沃な大地や豊穣の海や川でもなく、もちろん農夫や漁夫たちの汗でもなく、まして神や仏でもない。今、我々に食物をもたらしてくれるのは、そう、「マネー」なのだ。

川岸の男はその後も、何度も何度も水際と畑を行き来していた。


「ドイツの哲学者ヘルダーはね、言語は人間が思考するための道具だって言ったんだ」

「ヘ〜え」

「そしてまたヘルダーは、言葉と思考は共に発達してきたんだって言った。だから言葉の成り立ちをみると、その民族が何をどう思考してきたかってことがよく分かるんだ」

「なるほど」

「ちなみにタイ語で水のことをナームって言うんだけど、タイ語にはね、この水ナームを使った単語がすこぶる多いんだ。だからその単語をみると彼らにとっての水っていうものがいったいどういうものだったのかってことがよく分かる。そこでクイズだ」

「エ〜っ、いきなりクイズですか?」

ふたり顔を見合わせる。

「じゃあいくぞ!」

「はい!」

「水ナームに熱いローンをつけると何になるか?」

「水に熱いか?これはお湯でしょ?」

「正解。ナームローンはお湯だ。じゃあ水ナームに固いケンをつけると?」

「固い水?これは氷でしょ?」

「正解。ナームケンは氷だ。じゃあ水ナームに色スィーをつけると何になるか?」

「これは水色でしょ?」

「ハズレ。ナームスィーは色合いだ」

「エ〜っ、なんでですか?」

「それはタイ人に聞いてくれ。じゃあ水ナームに音スィアンをつけると?」

「これは、たぶんさっきのヒッカケ問題と同じだな?だから水音じゃない。水に色が色合いだから、水に音は音色だ」

「オ〜っ、正解。ナームスィアンは音色だ」

「やった!」

「じゃあ水ナームに目ターをつけると何になるか?」

「目の水だから、これは涙でしょ?」

「正解。ナームターは涙だ。じゃあ水ナームに顔ナーをつけると?」

「水に顔か?う〜ん、水に音が音色でしょ?ということは顔色だ」

「惜しい!ナームナーは顔つきだ。じゃあ水ナームに手ムーをつけると何になるか?」

「う〜ん、水の手ですか?これはひとつしか思い浮かばない。スリだ」

「おい、スリって手癖の悪い、あの財布とか盗むやつか?」

「はい!」

「ハズレ。ナームムーは腕前だ」

「エ〜っ、なんでですか?」

「それはタイ人に聞いてくれ。じゃあ最後だ。水ナームに心チャイをつけると何になるか?」

「水に心でしょ?最初に思い浮かんだのは浮気だけど、それだとあんまりだから、これは薄情だ」

「ハズレ。ナームチャイは思い遣りだ」

「エ〜っ、なんでですか?」

「それもタイ人に聞いてくれ」

「あっ、ちょっと待った。分かったような気がする。我々日本人は水ってけっこう否定的な意味で使うことが多いけど、タイ人は水ってけっこう肯定的な意味で使うんですね?」、

「そうなんだ。タイ人は水ってものに対して我々とは違った特別な感情を持ってるのさ。そしてこのメコンのことをタイ語でも、またラオ語でも同じくメーナームコンって言う。メーナームが川を表す単語で、水ナームと母メーによってできてるんだ」

「じゃあタイやラオスの人たちにとっては、母なる海じゃなくて、母なる川なんですね?」

「その通り。そして彼らにとって川はまた、川そのものが信仰の対象でもあるのさ。今、目の前のメコンの川面を行き交っているあの漁の小舟の舳先には、きっと川の神への捧げ物メーヤナンが括りつけられてる」

「ヘ〜え、なんだか素敵だ……」

彼が、目の前の真っ赤に燃えるメコンの輝きに、思わず目を細める。


「また自然っていうものを世界の人々がどういう言葉で表現してきたかってことを考えると、彼らにとっての自然っていうものがいったいどういうものだったのかってことがよく分かるんだ」

「自然?」

「古代ギリシアには自然を意味する言葉としてピュシスって言葉があった。ピュシスは生まれるって意味の動詞ピュオマイに由来してて、古代ギリシアの自然は、生成、成長、衰退、消滅っていう意味合いをもってたんだ。ようするに古代ギリシア人たちにとって自然は、すべての存在を包括したひとつの調和的統一体だったのさ。もちろん人間もその中の一部にすぎなくて、神もまたそれを越えるものじゃなかった」

「なるほど」

「古代ローマではギリシア語ピュシスに対してナートゥーラっていうラテン語があてられた。ナートゥーラはギリシア語と同じく生まれるって意味の動詞ナスコに由来してて、ここでも自然は、人間も万物も神々も何もかもが対立することのないひとつの調和的統一体としてとらえられてたんだ。そして古代ローマではすべての事物は、自然か、偶然か、技術のどれかによって生じるって考えられてた。その中で最も重視されてたのは自然によって生じるもので、人の手によって生じるものは存在としては重視されてなかったんだ」

「へ〜え」

「英語の自然ネイチャーの語源は、古代ローマと同じナートゥーラってラテン語なわけだけど、中世キリスト教世界に入ると、その調和的統一体としての自然観は一気に崩れ去り、創造主としての神と被創造物としての万物とが明確に分けられ、神、人間、自然っていう階層関係が確立されるんだ。神は創造主としてより超越的な存在になり、人間は神によって造られた特別な存在として自然から切り離され、そして自然は神から人間に与えられたものとして人間が支配すべき存在になったのさ」

「ひょっとするとこの辺から、おかしくなってきたんですね?」

「そうだな。ここでとうとう人間は自然界から抜け出してしまったわけだ。そしてやがて自然を物質、資源とみなすヨーロッパ世界の自然支配の構図が形作られ、こうして産業革命へと向かう思想的基盤が準備されたのさ」


〈神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのものを支配させよう」神は御自身にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女を創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」〉


これは『旧約聖書』の創世記の中にあるあまりにも有名な一説だ。

そもそも『聖書』という書物は他の宗教のそれと同様、表現方法において実に複雑な比喩を駆使していることから、さまざまな解釈を可能にする含みを持っている。しかし少なくとも『聖書』という書物に説かれている世界観が、人間をその中心的存在として展開していることは疑いの余地がない。

そんな人間中心主義の宗教と言われるキリスト教世界では、創世記にある通り、まず人間と動物とはまったく異なった意義を持ってこの世に存在している。すなわち人間は神が自らに似せて造った特別な創造物であり、動物や鳥、魚といったすべての生物は神が人間のために造ったものなのだ。ようするに人間は自然の一部などではなくて、完全に自然とは別格なものとしてこの世に存在していて、人間は、人間のために神が造ったすべての生物を思い通りにできる権利を神によって与えられたというわけなのだ。

したがって基本的に彼らキリスト教徒は、たとえば動物を殺し食べる際に、その動物に対して畏敬の念を感じる必要性はまったくなかった。食卓に肉がのぼることへの感謝も、もとより動物にではなく神に対して行なうのだ。

このようにしてそもそもキリスト教には自然というもの自体を神聖視する観念は存在しなかった。すなわち「神聖なる森」などというものもなかった。森も、木も、そして動物も鳥も、すべて神から人間に与えられたものであって、『聖書』の中に神の心を読み取るように、自然の中に神の計画を読み取ることはできるが、その自然自体を神自身に置き換えることは、すなわち神を冒涜することを意味したのだ。

「キリスト教は自然を殺した」

そう指摘されているように、これがかつての狭い意味でのヨーロッパ人が何の気の咎めを感じることなく動物を殺し、森林を伐採してきた所以であって、またそれはすなわち彼らの神の意志でもあったわけだ。


「イスラム教世界ではね、ギリシア語ピュシスに対してタビーアってアラビア語があてられた。タビーアは刻印するとか封印するって意味の動詞タバアに由来してて、神が印をつけるって行為が万物の成り立ちを意味してたんだ。ようするにイスラム教世界でもキリスト教世界と同じく、自然は唯一無二の絶対的存在である神によって作られたって信じられてたのさ」

「なるほど」

「そしてインドでは自然っていうものを単なる物質としてとらえる考え方はついに生まれなかった。だからインドでは我々が普通に使うところの自然を意味する言葉が存在してなかったんだ」

「ヘ〜え」

「じゃあインドにおいて自然にもっとも近い言葉っていったい何だったのかっていうと、それはどうやら神っていう言葉になるらしい。ようするに自然イコール神。神イコール自然だったわけだ。だから自然はことごとく神格化され、人々はその神格化された自然のために祭祀を行い、供物を捧げ、讃歌を謳い、そしてそんな神格化された自然はその見返りとして人々に多くの恵みを与えてくれた。まさに彼らインド人にとって自然はただひたすら賛嘆する対象であって、神格化された自然と人間との間には強い相互関係が保たれていたのさ」

「それってすなわち自然との共生だったんですね?」

「その通り。またインド最古の文献『リグ・ヴェーダ』の中にはリタって言葉が出てくる。リタは天体の運行や季節の循環を始めとする宇宙や自然を貫く秩序を意味してて、太陽や月の運行も大気の流転も、また万物の生成消滅もすべてこのリタにしたがって繰り返されてるって考えられてたんだ」

「おもしろい!」

「そしてさらにおもしろいことに、リタを彼らは人間の倫理や道徳をも貫く根本原理としてとらえてて、リタに正しくしたがって生きることを人間の在るべき真の姿としてたのさ」

「じゃあ宇宙も自然も人間も同じ秩序にしたがって存在してるってことだったんですね?」

「正解。ちなみに我々日本人が使ってる自然って言葉の起源は、中国で使われてた同じ漢字を書く自然って言葉なんだけど、中国でこの言葉は自ずから然りありとかっていうような存在を意味する言葉だったんだ。で、我々が使ってる自然っていう意味の言葉としては、天とか天地、造化とか万物って言葉が使われてた。そしてその中でも最も重視されてたのが天だったのさ」

「天?」

「すべての自然現象は天に起因し、天に根源を持ち、人間もまた天に従属する存在にすぎなかったんだな。人間は天と合一することによって不完全性を克服し、それはそのまま天を介しての自然と融合することでもあったのさ」

「なんだかスゴい!」

「また中国ではそれ以外に、万物の実体を形づくるものとして発展していった気っていう概念があって、人間と万物は気によって一体化するって考えられてた。そして道教ではさらにその考えが発展して、人為を否定した無為自然こそが人間の在るべき真の姿とされたのさ」

「ヘ〜え」

「もちろん日本でも神道はまさに自然崇拝の最たるもので、山にも海にも、滝や岩、老木、シカやサルにも、我々日本人は神の姿を見出だしてた。実はそんな日本もインドと同じく、今で言うところの自然を意味する言葉はなかったんだ。そもそも日本語の自然って言葉も中国と同じく、自ずから然りあるっていう存在を意味する言葉だったんだ。その自然っていう言葉が英語のネイチャーを表す言葉として使われるようになったのは、明治後半、すなわち二十世紀を目前にした頃からだ。でもね、自然をことごとく神格化して祭祀を行ったインド人とは違って、花鳥風月っていう言葉が示してるとおり、自然を愛でるっていう独自な文化を発達させた我々日本人は、あえて自然って言葉を使う必要がなかったんじゃないのかなって僕は思ってる。ようするに我々日本人は、花や、鳥や、風や、月って言葉さえあれば、あえてそれ以外の言葉は必要なかったのさ」

「なるほど」

「とにかくアジアでは古来、自然は常に侵されざる神聖なものだったのさ。そして多くの神々が太陽や大地、森や川、鳥や獣に姿を変え、我々人間の生を圧倒的な威光を放って取り巻いていたんだ。その考えは言い換えると自然への敬意であって、だから自然そのものに神を見るアジアでは、人間の力で自然を征服しようなんて思考はついに生まれなかったのさ」


「これまで僕、言葉ってものについて特に意識して考えたことなかったけど、こんなふうに改めて考えてみると言葉っておもしろいですね」

「でもね、言葉はまた大きな危険性を秘めてるんだ」

「危険性?」

「そう。それは意味を知らない言葉の危険性だ。意味を知らないで使う言葉ほど恐ろしいものはない。たとえば自由だ。自由っていったい何だと思う?」

「自由ですか。突然それは何かって聞かれるとちゃんと答えられる自信ないなあ。少なくとも無人島での自由と、渋谷のスクランブル交差点での自由とは違うような気が……」

「自由についてはこれまでサルトルやミル、ルソーやカントといった哲学者があれこれ勝手なことを言ってきたけど、自由は未だに解明されてない哲学の大命題だ。でもね、自由は今、世界で最も力を持ってる言葉だってことは疑いの余地がない。この自由って言葉さえ持ち出せば、誰でも黙らせることができるんだ」

「確かに言論の自由とか、表現の自由とか、報道の自由とか、テレビを見てるとそういう自由って言葉が溢れてて、それでもって相手を黙らせてますね」

「問題はその言論とか表現とか報道とか、そういったものの自由を声高に訴えてる人々に、じゃあその自由っていったい何なのかって質問をして、はたして答えられるかってことだ」

「ちゃんと答えられる人っているんですかね?少なくとも自由って、自分勝手に何でもやっていいってことじゃない気が……」

「それは自由と同じく平等もそうさ。特に今、男女平等っていう問題は複雑化してる。それは平等っていう定義とともに、性別っていう定義が関わってるからだ。その性別とはいったい何なのかっていう問いに対する答えが、今、自由っていう定義と絡み合って分からなくなってきてる」

「そういえば性別って本人の意思で自由に変えられる世の中になりつつあって、男性女性っていう性別自体、何がなんだか分からなくなってきてますよね?」

「でも少なくとも男女平等は、平等とは何か、性別とは何かっていう答えを出さずして論じることはできない。でなきゃ絶対に結論になんてたどり着けない、所詮ただの空論で終わるだけだ」

「なるほど」

「ちなみにノーベル生理学医学賞を受賞したフランスの生物学者アレクシス・カレルはこんなことを言ってる。女性は男性とは非常に異なってて、女性のすべての細胞には女性のしるしがついてる。それは人間の希望によって取り換えることのできない、そのまま、あるがままに受け入れるべきものだ。だから女性は男性を真似ようとせず、本来その女性にこそ備わってる男性にはない機能を放棄せず、その適性を発展させるべきだってね。もしかするとこの彼の発言は、ジェンダーの平等っていうムーブメントが席巻するこの世の中では、明らかな女性に対する差別発言だって非難されるのかもしれない。でも僕はね、この彼の発言は今だからこそ大きな意味を持ってるんじゃないかなって思うんだ」

「確かに男性にはXY、女性にはXXの染色体があって、性別っていうものが存在してるってことは、もう誰にも変えることができない生物の大原則ですよね。なのに今そのジェンダーの平等っていう言葉に後押しされて、その性別っていう区別すら廃止しようっていうおかしな世の中に変わり始めてる」

「それが意味を知らない言葉を使う危険性なのさ。自由とは何か、平等とは何か。性別とは何か、その問いに対する答えを出さないまま、その意味を知らない言葉が、意味を知らないことによってさらに恐ろしい力を持ち、この世の中をどんどん作り変えようとしてるんだ」

「言葉が世の中を作り変えるって、なんとなく分かるような気がする」


   *


「隊長の人生に、挫折ってありました……?」

とうとう熱帯の太陽が遠く地平の彼方を真っ赤に染めて燃え尽き、まだ黄昏色におおわれていた対岸のナコンパノムの街に、気の早い夜の明かりがひとつポツンと小さく点ったその瞬間、彼が妙なことを言った。

「挫折か……?」

急いで考えてみたのだが、自分でもよく分からなかった。もちろん今までの人生がすべて輝かしい成功で彩られていたはずなどない。でもそれを挫折と呼ぶのかどうか、自分でもよく分からなかったのだ。

「君はあったのか?」

彼は一瞬こちらを向き意味不明な笑顔を作った後、また視線をメコンの対岸に点り始めた街の明りに向けた。

「僕はその分野では日本でも一、二を争うある大学で大学生をやってたんです。予定通り……」

「予定通り?」

「そう予定通り。だって小さい頃からとにかくいい大学に進学するためにずっと塾通いして、家族一丸となって努力してきたんですから。まるでNHKのドラマに出てくる現代のダメ家族の見本みたいでしょ?」

「そうでもないよ。もしかしてそれって普通かもよ」

「普通か……」

普通。自分でそう答えたものの、なぜか僕も彼のあいづちを頭の中で反復していた。

「専攻は宇宙工学だったんです。自分で言うのも変だけど成績も優秀で、就職も早々と宇宙開発に取り組んでる大手企業に決まり、家族は大喜びでした」

「なるほど」

「でも卒業式が近くなり、親と一緒にデパートに行って就職用の高いスーツや靴なんかを買い揃えたりしてるうちに、ちょっと分からなくなってきたんですよね」

「分からなくなった?」

「このままあの会社に就職して、僕は一生そんなことをやっていくんだろうかって。もちろん僕が採用されたのは宇宙開発に携わるためだったんで」

「宇宙開発か……」

「実は僕、大学生をやってるうちに、こんな宇宙なんてものを研究していったい何になるんだろうって疑問が、どうしても頭から離れなくなってきたんですよね。それを知ることによって、それが我々の未来にこんないいことがあるんだとか、いろんなことが言われてるけど、はたしてそうなのかって。まあ研究ってお金が必要なわけで、何も役に立たない研究にお金は集まらない。だから研究にはお金を集めるための理由が必要なんですよ。でも僕はどうしても無意味なことをやってるような気がしてならなくなった……」

僕は一瞬、移ろいゆく夕刻の輝きの中で彼の横顔を見た後、すぐに彼と同じ対岸の街の明りに目をやった。

「それでも就職シーズンが始まると、世の例に漏れず他の学生と一緒に就職活動をして、僕は早々と大手企業の内定を手に入れた。そしてみんなからスゴいなんて言われて、確かに僕もその頃は浮かれてたんだと思う。朝、地下鉄の階段なんかでも、みんなをスイスイ追い越したりして」

「へ〜え」

「でも卒業式が近づくにつれて頭の中の疑問がだんだん不安に変わってきて、心にドッと重く圧しかかってきたんですよね。マジこのままあの会社に入社していいんだろうかって。僕はあの会社で一生そんなことをやってていいんだろうかって。そしてそんなことを思い悩んでいるうちにふと気付くと同じ地下鉄の階段で、今度は僕がみんなにドンドン追い越されてた……」

彼はどこか遠くを眺めたまま話し続けた。


「隊長は宇宙って、どう思います?」

突然、彼が聞いてきた。

「宇宙か。僕は宇宙については何も知らない。でも我々が宇宙について知ることは決して悪いことじゃないと思ってる。ただし。それを国家プロジェクトとして莫大なお金をつぎ込んでやることに対しては、僕は個人的には間違ってると思ってる。それはいつかの戦時下、空を制するものが世界を制するって言われてた、その軍事的な達成目標とも大きく関わってるのかもしれない。だから空の次は宇宙なんだって。実際すでにもう宇宙軍なんてものすら作られてる。僕は宇宙軍って完全にバカげてるって思ってるけど、同じくバカげてるって思ってるのがなんと言っても宇宙開発だ」

「やっぱそうか……」

「僕が宇宙開発でもっとも気掛かりなのは、我々人間がこの地球でやってきたことを、今度は宇宙でやろうとしてるってことさ。しかも我々人間がこの地球で引き起こした多く問題を何ひとつとして解決しないままね。我々人間はまず間違いなく、宇宙でも開発と称して星の地表を塗り固め、宇宙を我々の利益に即した環境に作り変え、宇宙の資源を収奪して大量の廃棄物を出し続ける。そしてきっと、核廃棄物といった地球では手に負えなくなったゴミをどこかの星に捨てに行くんだ。こうして今度は宇宙で爆発的に人口を増やし大発生した我々人間は、宇宙の領域をめぐってまたお互いに殺し合い争い続けるのさ。その結果、我々人間がすでに地球でやってきたように、宇宙を修復不能なまでにメチャクチャにしてしまう」

「廃棄物に関してはすでに宇宙デブリって言って、我々人間が打ち上げた人工衛星の残骸やロケットから切り離された機体の破片とかが宇宙空間に大量に散らばってる。それってロケットが打ち上げられるたびに増えるんですからね。ちなみに宇宙デブリに関しては、その宇宙空間に散らばってる大量のゴミを回収するプロジェクトが発足されてるみたいですけど、海洋プラスチックひとつとっても地球上のゴミだって回収できてないのに、宇宙空間のゴミなんて回収できっこないですよ。そしてロケットはどんどん打ち上げられてて、宇宙空間のゴミはどんどん増え続けてる」

「我々は宇宙にいったい何を求めてるのか。その問いに対して、それは夢だって答える人がいる。確かに夢を持つことはいいことだ。でもその夢が現実となって何らかの危害をおよぼすことになれば、それはもうはっきり言って悪夢でしかない」

「確かに夢っていいところだけを見て思い描いてる間はいいけど、僕も我々人間の宇宙開発は、決して醒めることのない悪夢の始まりのような気がしてならない」

「実は僕はね、我々人間って生物の出現は地球にとって最も不幸な出来事だったんじゃないかって思ってるんだけど、それがあたかもガン細胞みたく、今度は宇宙にまで広がろうとしてるってことが恐ろしいんだ」

「そう考えると宇宙なんかを開発するよりももっと大切な、やるべきことがまだこの地球にはあるんじゃないかって思いますよね?」

「なんだか当事者でもなく専門家でもない僕が勝手なことを言ってるけど、僕も同感だな」

「僕ってこれまで、いい大学に入学することだけを目標にして勉強をして、今度は大学で、いい会社に就職することだけを目標にして単位を取って、それ以外のことって何も考えてこなかったんですよね。だからちょっとここで立ち止まって、今度は自分の人生ってものをじっくりと考えてみようって思ったんです。きっと社会に足を踏み出すのは、それからでも遅くないんじゃないかって。だからもう入社式に出ないでそのまま退社したんです。もちろんせっかく手に入れた安定っていうか、老後までの座席指定券をポイと窓から投げ捨てて途中下車するのって、そう簡単な問題じゃなかったですけどね。だってそれって人生ゲームをまたスタートにもどってサイコロを振りなおすみたいなもんでしょ?」

「ということは入社式に出ないで、そのままバンコクにやってきたってことなのか?」

「そうなんです」

「フフっ」

「可笑しいですか?」

「いや、ゴメン。ちょっとね。同じだなと思って」

「同じって?」

「僕と」

「隊長も入社式、出なかったんですか?」

「いや、僕の場合はもっと悪い。だって僕は就職活動すらしなかったんだから。そして僕も卒業式を終えてとび乗った飛行機の行き先がバンコクだった」

「ヘ〜え。それで何か見つかったんですか。バンコクで?」

「いや、何も見つからなかった」

「何も?」

「そう、何もね……」


「世の中にはね、実際に自分でやってみなくても、ちゃんと何もかも分かってしまう優秀なヤツがいる。でも僕は少なくともそんな優秀な男じゃない。すごく不器用な男なんだ。僕は実際に自分でやってみなくちゃ何も分からない。だから僕は思い立ったことは何でもやった。そして実際に自分でやってみて、それが自分の追い求めてたものじゃないってことが分かったら、とっととやめて別のことをやった。それが自分の追い求めてたものじゃなかったってことが分かっただけでも、それは僕の人生における大きな収穫だったんだって信じた。たぶんそれを世間では失敗って呼ぶんだろうけど、きっと失敗も人生における大切な経験なんだ。だから僕は三日坊主だって思われることなんてまったく気にしてなかった。恐れるべきことは失敗することじゃなくて、失敗を恐れて足を踏み出さないことなんだって、僕はいつも自分に言い聞かせてた。だから僕はあの時、卒業式を終えるとそのまま飛行機に飛び乗ったんだ」

「へ〜え」

「そして結局、バンコクの旅では何も見つからなかったわけだけどな。でも僕は思うんだ。そもそも成功だけが人生を好転させるんじゃないんだって。もしもあのバンコクの旅で、劇的な出会いがあって何かを見つけてたとしたら、その後の僕の人生がどうなってたのか、それはもちろん分からない。でもね、何も見つからなかったからこそ、その後も僕は歩き続け、その先には思いもよらない多くの素晴らしい出会いが待ち構えてて、その出会いが僕の人生を大きく豊かにしてくれたんだ。だからここに今の僕がいて、そして、こうして君と出会って旅をしてる。人生は銃の弾丸みたいなものだ。銃口がかすかにズレただけで、的を貫く弾丸の位置は大きく変わる。だから僕は、今、少しでもいいなって思えることがあれば過去をすべて肯定するんだ。まあ、これは究極の負け犬の言い訳なのかもしれないけどな」

「いや、きっとそれは負け犬の言い訳なんかじゃないと思います」

「それにそもそも人間は、失敗しながら成長していく動物なんだって僕は思う。母親の腕から離れ、自分の手と足で地面を這い回り始めたその時から、頭をぶつけたり、転んたり、数え切れないほど多くの失敗を繰り返しながら我々は成長していくんだ。そしてその人間が大きく成長できるかどうかってことは、その失敗から何を学んだかによって決まるのさ」

「なるほど」

「だから失敗は人生のゲームオーバーなんかじゃない。失敗から始まる人生だってあるんだ。その失敗を乗り越え踏み出した人生は、もっともっと強く豊かな人生になる。だから失敗はそれから始まる人生のアップデートだって思えばいいのさ」

「アップデート……」

「第一、パーフェクトな人生なんておもしろくないじゃないか。それこそ運命のレールの上を歩かされてるような、間違えて横道にそれることもないパーフェクトな人生なんて。どこか欠けてるからこそ人生はおもしろくなる。その欠けてるところを埋めていくこと、それが人生の楽しさであって、きっとそこにあるのが夢なんだ。それに良い人生だったのか悪い人生だったのか、それを決めるのは誰でもない自分自身なんだからな。そしてそもそも人生の価値なんて、終わってみないと分からないのさ。ちなみに僕は人生の価値って、何を成し遂げたかってことじゃなくて、どう生きたかってことなんだって思ってる。それは旅と同じさ。旅は目的地に辿り着くことじゃなくてその過程なんだ。突然、目の前に現れた素晴らしい光景に心をかき乱され、間違って薄暗い路地に迷い込み行き止まりになり、小石につまずき、誰かと出会い、そして誰かと別れ、笑い、涙を流し、立ち止まり、そしてまた歩き始める。それが旅であって、それがそのまま人生なのさ。だから人生は成功を掴み取ってゴールのテープを切ることじゃない。それに実は僕はね、成功って人生の目的なんかじゃないんだって思ってるんだ。きっと成功なんて、人生をちゃんと生きたことに対する、ほんのご褒美にすぎないのさ」

「隊長って、やっぱスゴいなあ。あやうく惚れちゃいそうだ……」

「おい、よせ!」

ふたり思わず顔を見合わせ吹き出した。その時、彼の顔に表れた明るさに、なんだか僕も一緒に大きな山をひとつ越えたような気がして、少しホッとした。


ふと対岸に目をやると、いつの間にかすっかりと夜の様相へと移り変わっていたナコンパノムの川岸には、小さな明かりがいくつも連なっていて、そんな街の輝きを、大河メコンが広大な暗い川面にユラユラと照り返している。そして空には、早くも小さなガラスの欠けらのような星がポツンとまばたきだしていた。

「そうだ。僕は宇宙について何も知らないけど、ひとつだけ宇宙について知ってることがある」

「なんですか?」

「世界と宇宙って言葉は、ほぼ同じ言葉なんだ。世と宇が時間を表してて、そして界と宙が空間を表してる。でもね、このふたつの言葉にはひとつだけ大きな違いがあるんだ」

「大きな違い?」

「そう。それはね、世界って言葉が我々人間の存在を大前提にしてるのに対して、宇宙って言葉は我々人間の存在を大前提にしてないってことなのさ」

「スゴい。隊長のおかげで探し求めてた答えが見つかったような気がします!」

「おい、何を言ってんだよ。答えはこれから旅を続けて探すんじゃないか。こんなところで簡単に出すんじゃない」

「でも今の言葉、忘れずに心に刻んでおきます……」

「じゃあ腹も空いてきたし、晩飯を食べに行くか。明日はこのメコンともオサラバして、いよいよ首都ヴィエンチャンだ。メコンの夜の最後の晩餐だな」

「はい!」

我々ふたり、改めてメコンの夜空に見入った。


  *


我々がやっと再び川岸の通りを歩き始めた頃には、あたりはもうすっかりと夜の様相へと移り変わっていた。

そこで改めて考えてみたのだが、どこへ行けばいいのかさっぱり分からない。まあ早い話この街にはメコンの川岸以外、これといって行くところがないのだ。とはいえ、ずっとここに立ち止まったまま考え込んでいても、突然いい行き先が思い浮かぶ可能性はまずなさそうだ。しかしこれは幸運というか何というか、この街には悩むほど腹ごしらえする場所の選択肢がないんだってことに気づく。頭に思い浮かんだのは、メコンの川岸にあるヴェトナムのフォーを食べさせる食堂とアヒルを食べた食堂、そして昼間、歩いていてふと目に止まったホテルの裏通りにあった寂れたレストランくらいのものだ。我々は悩むことなく、寂れたレストランへ向かって歩き出した。


レストランはホテルの脇の路地を入った奥の通りの角にある。四角いオレンジ色の屋根といい、茶色のペンキが塗られた鎧戸といい、このあたりの古びた街並みの中では飛び抜けてモダンなレストランだった。とは言ってもかなり古ぼけていて、すっかり路地の暗闇の中に紛れ込んでいる。

さっそくドアを開けて中に入ってみると、予想通り店内は古ぼけたカウンターに古ぼけた木のテーブルとイス、そして古ぼけた扇風機といったものが雑然と並んでいて、さらにこのレストランの長い歴史と共に意味も脈絡もなく散り積もってしまったといったような、煤けたガラクタが店内いっぱいに飾り立ててあった。

客はまだ誰もいない。我々がドアを開け店内に入ると、カウンターの奥で暇そうにテレビを見ていた女の子が、突然の客の出現に驚き慌てて出てきた。にこやかな笑顔で我々を店のど真ん中のテーブルへ案内してくれる。

そして古ぼけた扇風機をテーブルの傍へ持ってきてスイッチを入れると、奥の古ぼけたカウンターの上に置かれていたテープレコーダーにカセットテープを入れてプレイボタンを押した。流れてきたのはまたもやここでも歯にしみるように甘いローカルなポップスだった。

こうして店内のムードをグッと盛り上げると「さあどうぞ」と彼女がメニューを手渡してくれる。茶色のビニールレザーの分厚い表紙に金の英文字で「メニュー」と刻印された、予想外にゴージャスなメニューだった。

「コープチャイ」

ありがとうと礼を言ってさっそくメニューを開いて見てみると、ラオ語と英語で書かれた丁寧なメニューがズラリと並んでいた。アンティパストから始まって、サラダ、スープ、そしてメインディッシュにデザートといったようにメニューは実に充実している。もっともそれらの料理のすべてが、この薄汚い小さなレストランでほんとうに作れるのかどうかはかなり疑問だったが、もちろん中には地元ラオスの料理もあった。

ラオスの料理もまた言語と同様、多くの民族文化を共有しているタイの料理と実に似通っている。共に魚から作った醤油を用い、トウガラシやハーブ、柑橘類を多様し、酸っぱくて辛くて甘い味付けをする。両者の料理の明確な差は残念ながら僕には分からない。それはラオスの料理が東北タイの料理としてバンコックへと広まり、今ではもうすっかりタイの料理として定着してしまっていることによって、なおいっそう不明確になっているのだ。

そしてこのレストランのラオスの料理のメニューにも、今ではタイでも全国区の市民権を得ている「ソンタム」や「ラープ」といったお馴染みの料理が並んでいた。

「ソムタム」というのは青いパパイヤのサラダだ。未熟な青いパパイヤを千切りにして、トマト、トウガラシ、ニンニク、それにサワガニや干しエビなどと一緒に「クロック」と呼ばれる石の摺り鉢に入れて、それを太い棒でトントンと突きマナオ、砂糖、ナンプラーなどで味付けをする。

「ラープ」というのは肉とハーブの和物だ。「ラープ」という言葉は、幸運とか、喜びといったことを意味していて、これはラオスの人々のハレの席にはなくてはならなかった料理なのだ。ハレの日には牛を一頭殺し、その新鮮な生肉と血を使ってラープを作ったらしい。実はこのように生肉を食べるというのも、ラオスの食文化の特徴だと言われている。しかしラープに使用する肉はすべて生というわけではなく、生の肉を使用したものを「ラープデップ」、火を通した肉を使用したものを「ラープスック」と言う。

肉を俎板の上にのせ二本の包丁でもってトントンと細かく刻み、これをミント、バジル、レモングラスといった数々のハーブや、タマネギ、ショウガ、トウガラシ、ニンニク、炒り米などと一緒に和え、マナオ、ナンプラーなどで味付けをする。

「アリのスープ?」

そんなメニューにズラリと並んだ料理を目で追っている内に、面白い料理が目に止まった。ラオ語に関してはよく分からなかったが、確かに英語でアリのスープと書かれている。

このスープに入っているアリはたぶん赤アリなんだろうと思った。タイの小説家カンプーン・ブンタヴィーの『東北タイの子』の中に、赤アリのスープが出てきたことを思い出した。主人公の少年クーンの父親が木に登り見事なアリの巣を切り落としたり、母親が手際よく美味しいアリのスープを作る様がクーン自身の目でいきいきと描かれていた。

赤アリというのはなんでも酸っぱいのだそうだ。彼らの体内には蟻酸という爽やかな酸味成分があって、ラオスで赤アリはいろんな料理の酸味付けに使われているようだ。

ところがだ。なんと今日はアリのスープはできないらしい。まあよく考えてみれば無理もない。来るか来ないか分からない客のために毎日アリをストックしておくなどということは不可能だ。もっとも飼育しているのなら話は別だが。

残念だなあと独り言を言うと、傍でそれを聞いていた彼女が「じゃあ×××ならできるわよ」とすすめてくれる。「×××」と言うのは、実はこの時、僕には彼女が何を言ったのかさっぱり分からなかったのだ。

そこでどんな料理が出てくるのか分からないというのもおもしろいから、その彼女がすすめてくれた料理を一皿注文することにした。あとは豚肉のラープをラープスックで一皿と、サカナの辛いスープ、そしてカーオニャオ、すなわちモチ米を選び、無事に注文を終えた。今夜のスープのサカナはメコンのナマズらしい。


「ウ〜っ、最悪だ。メコンの川岸に座ってる間に、こんなにたくさん蚊に刺されちゃいましたよ……」

彼が生っ白い腕や足に点在している小さな赤い膨らみを掻きむしっている。

「僕、ぜんぜん刺されてないけど」

「ズルいなあ。なんでですか?僕だけ……」

「たぶん生っ白くて美味しそうだったんじゃないのか?」

「それ、ぜんぜん喜べない……」

「そうだよ。もしかすると何か危ない伝染病に感染したかもしれないぞ?」

「危ない伝染病?」

「そう。マラリアとかね」

「脅さないでくださいよ。実は僕、これでもけっこう小心者なんですから……」

「まあ安心しろ。少なくともマラリアは近くにマラリアの感染者がいなきゃ大丈夫だ」

「そうなんですか?」

「マラリアって伝染病はよく誤解されるけど、蚊に病気を発生させる何らかの力があるわけじゃないんだ。蚊はあくまでも媒介っていう役割を担ってるだけで、その病気を発生させるのはマラリア原虫っていう原生生物だ。そしてそのマラリア原虫はすべての蚊によって媒介されるってわけじゃなく、今までおよそ3000種以上発見されてる蚊の中でもハマダラカ一種に限られてる」

「ああ、その名前は聞いたことあります」

「ちなみにその名前は日本語で、翅に斑があるからハマダラカなんだ。でね、マラリア原虫はまたすべてのハマダラカによって媒介されるってわけじゃなくて、マラリア原虫を媒介できるのはメスだけに限られてる。でもそれはすべての蚊に共通した特性で、すなわち血を吸うのは産卵するメスだけに限られているからなのさ」

「へ〜え。じゃあさっき僕の血を吸った蚊は、みんなメスだったんですか」

「そういうことだ。モテる男はつらいよな」

「それって、ぜんぜん笑えない……」

「ようするに蚊のメスはね、体内の卵に栄養を与えるために血を吸うのさ」

「知らなかった」

「そしてマラリアの感染の仕組みは、マラリアの感染者の血を吸って体内にマラリア原虫を取り込んだハマダラカのメスが、次に血を吸う際に唾液の中に潜んでるマラリア原虫を唾液と一緒に人体に注入して感染が成立するってわけだ」

「ああ、そういうことだったんですね」

「ところで蚊が血を吸う際、人体に唾液を注入するのは吸血を円滑に行なうためで、蚊の唾液の中には血管の止血作用を抑制して出血を継続させる成分が含まれてるんだ。それを注入することによって血を凝固させずに吸血できるってわけで、実はこの蚊の唾液が我々が感じるあの痒みの原因なのさ」

「そうだったんですか。クソ〜っ」

彼が急に思い出したかのように、また手足を掻きむしっている。


「このマラリアっていう伝染性の熱病と人間との関わりは実に古くて、アフリカに人類が誕生した頃にまでさかのぼるって説もあって、文字がなく記録が残されなかった時代のことを考えても、やはり人間の歴史は、またマラリアとの共生の歴史だったって言えるのかもしれない」

「なるほど」

「でもね、この熱病が小さな原生生物によって引き起こされ、それが蚊っていう空中を浮遊する小さな節足動物によって媒介されてるってことが分かったのは、まだほんの100年ほど前のことなんだ。それまでこの熱病の正体は淀んだ湖沼から発生する有害な空気によるものだっていう、古代ギリシア以来の説が相も変らず信じられていたのさ。実はマラリアっていうこの病名もイタリア語の悪い空気っていう言葉を語源としてる」

「悪い空気?」

「ちなみにマラリアっていうこの熱病は日本でも古くから無縁じゃなかった。『大宝律令』の中の医疾令にも、すでにマラリアの名が記載されてる。その名とは瘧だ。『源氏物語』の中で18歳の源氏が、まだ幼女だった若紫を垣間見てそのあまりの可憐さに心を奪われ誘拐してしまうのも、彼がマラリアの治療を受けるために北山の聖のところに赴いた時のことだった」

「なんと『源氏物語』にも」

「そんな熱病の正体を突き止めたのはアルジェリアに駐在してたフランス陸軍軍医のシャルル・ラヴェランだった。彼がマラリア患者の血液の中に初めてこの原虫の存在を確認したのさ。ところがそのラヴェリンもまた依然として、マラリアは汚染された水や土壌によって感染するんだって思い込んでたんだ。そしてとうとうそれが空中を浮遊する小さな節足動物によって媒介されるってことを突き止めたのは、残念ながらラヴェリンじゃなくてイギリスの若きインド衛生局医官のロナルド・ロスだった」

「へ〜え」

「でも実はロスに偉大なる助言者がいたんだ。それは中国の廈門に駐在してた熱帯病理学の第一人者、イギリスの清帝国税関付医務官のパトリック・マンソンだ。彼はそこでフィラリア症、ようするにエレファントマンの研究をしてて、すでに病原体であるフィラリア仔虫が蚊の体内で発育するっていうことを突き止めてたんだ。そこでマンソンは、もしかするとマラリアもフィラリアと同じく蚊によって媒介されるのかもしれないっていうヒントをロスに与えたのさ」

「なんだか当時の科学者たちの熱量を感じますね」

「それからというものロスのマラリアに対する情熱は凄まじいもので、過労のあまり一時失明状態に陥るほどだったらしい。捕獲してきた蚊にマラリア患者の血を吸わせ、来る日も来る日もこの極小の節足動物を解剖し続けたんだ。その姿は端から見ると狂気を通り越して、まさに滑稽極まりなかったに違いない。それは蚊というものに対する生物学的な満足な知識もない中、忍耐と直感による気の遠くなる作業の連続で、またそれは彼にとって失意と落胆の連続だったのさ」

「だって相手はあの小さい蚊なんですもんね」

「そしてある日、1匹の翅に斑のある蚊の解剖にとりかかった時のことだった。ロスはついに蚊の唾液腺に集まったマラリア原虫を確かにその目で見たんだ。この瞬間、長い人間の歴史とともにあったこの熱病の全貌が初めて明らかになったのさ。それは20世紀を目前にしてラヴェリンが初めてマラリア患者の血液の中に蠢く原虫を発見してから、ロスがその原虫が蚊の体内で生育してることを発見するまでなんと18年もの歳月が流れてた」


「このマラリアっていう熱病の治療は、ヨーロッパではその昔、オオカミの右の眼球を塩漬けにしたものを身につけたり、冷たい海に入ったり、ヒルに血を吸わせたりっていう治療が行われてたらしい。これに関して我々は一方的に笑うわけにはいかない。日本でもかつては加持祈祷だったんだ。ちなみに『源氏物語』の中でマラリアに感染した源氏は、器の中に満たした水に小さな護符を浮かべ、その水を飲み干すっていう治療を受けてる」

「それって別の意味でスゴくおもしろい」

「でもそんな摩訶不思議な治療も、大航海時代が始まると飛躍的に進展することになるんだ。実は意気揚揚と新大陸に乗り込んだヨーロッパ人だったけど、彼らもまたマラリアに悩まされてたのさ。そして皮肉にも彼らは、人間ともみなさず虫けらのように扱ってた先住民に救われることになる。それは先住民に教えられたある植物だった」

「ある植物?」

「キナだ。キナはアンデスの高地に自生する植物で、その樹皮には多くのアルカロイドが含まれてて、インカの人々はこの樹皮を煎じたものを古くから熱病の治療に使ってたんだ。そしてこのキナの樹皮がなんとマラリアに対してめざましい効果を発揮したのさ」

「先住民の人たちの知識って本当にあなどれないですよね」

「まさにその通りだよな。先住民は偉大だ。こうしてこのキナの樹皮から有効成分キニーネが抽出されるとマラリアの治療は飛躍的に進展するんだ」

「スゴい!」

「でもね、ここで少し補足しておくと、このキナの出現はまたひとつの兵器の出現にもたとえられてたんだ。この薬を手に入れたことによって、それまで謎の熱病によって行く手を阻まれてた場所にまでも、ヨーロッパ人の侵入を可能にしたのさ。かつてこの地球に燦然と君臨した大植民地帝国も、このキニーネなくしては為しえなかっただろうとも言われてる」

「なるほど」

「そして以後マラリアの薬は両大戦においても重要な役割をになうことになる。実際、各地の戦場でマラリアによって命を落とした兵士の数はとてつもない数だったんだよ」

「へ〜え」

「そんな情況の中ついに化学合成薬クロロキンが完成する。このクロロキンっていう新薬の効果はめざましくて、これによってマラリアは完全に撲滅されるんじゃないかって思われたのさ。でもね、この薬が一挙に多用されたことによって、この薬の効かない耐性のマラリア原虫が出現してしまったんだ。それはクロロキン完成からわずか十数年後の出来事で、その耐性のマラリア原虫が最初に確認されたのが実はタイだった」

「エ〜っ、タイだったんですか?」

「その後クロロキンの効かないマラリア原虫は世界各地で確認されるようになり、そしてやがてタイではさらにキニーネに対しても耐性を持ったマラリア原虫が確認されることになる」

「じゃあ我々人間の研究が未だにマラリア原虫の進化に追いつけてないってことなんですね?」

「その通りなんだ。残念ながらこの古い伝染病に対しても我々人間は、まだ決定的な対抗策を何も持ってないんだ。そして現実的にマラリアには年間2億人以上の人たちが感染してて、60万人以上の人たちが命を落としてる」

「やっぱ宇宙を開発するなんてことよりも、我々がやらなくちゃいけないことが、まだこの地球にはあるってことですね?」

「僕もそう思うな。僕はいつも、どこかの大学が不治の難病の新たな治療方法に着手したってニュースを知ると、心から拍手喝采するんだ。もちろん宇宙に夢を追い求めることは悪いことじゃない。でもね、僕は我々人間が月に家を建てて週末には宇宙船に乗って火星を旅行する、そんな未来よりも、難病の子供たちが病から快方されて大空の下を元気に駆け回る、そういう未来を夢見たい……」


   *


そうこうしているうちにまずテーブルに運ばれてきたのは、サカナの辛いスープとカーオニャオ、ようするにモチ米だった。少し遅れて豚肉のラープもテーブルに並ぶ。

さっそく豚肉のラープを食べてみる。口に入れるとハーブの爽やかな口当たりや豚肉の脂っぽいコク、スパイスの辛味に酸味といったいろんな味が支離滅裂に口の中で混ざり合い、それをカーオニャオのモッチリとしたほのかな甘味が絶妙なバランスでもって見事にひとつの料理としてまとめ上げている。同様にしてカーオニャオをひと握りし、サカナの辛いスープに浸して口に放り込む。今夜のサカナ、メコンのナマズは身がプリプリしていて淡白で、これも文句なく旨い。だがサカナの辛いスープはその名の通り、ラープも同様かなり辛い。


「違う。いいか、こうするんだ、まずモチ米をひと口ぶん手に取って軽く握り固める。そしてその握り固めたもち米を親指で少しへこませ、それをスプーンみたくして料理をすくって、こうしてパクリと口に入れるんだ」

「ヘ〜え、うまく考えられてますねえ」

ラオス特有の食文化としてまずあげられるものといえば、それはやはりなんと言っても「カーオニャオ」、すなわちモチ米だ。


〈ラオ人は粘る米を食べ、杭の上に家を建て、ケーンを吹く〉


このことわざにある通り、タイ人の多くがパラパラとしたインディカ米を好んで食べているのに対して、ラオ人は古くからモチ米を主食として食べていたのだ。ちなみにモチ米は今ではバンコクの高級レストランでも普通に食べられているが、かつて「モチ米を食べる者」という言葉は、無教養な田舎者としてラオ人を侮蔑する言葉として使われていたらしい。

カーオニャオは「ティップカーオ」と呼ばれる円筒型の竹篭に入れられている。これがラオスのお決まりのスタイルなのだ。ティップカーオには手で下げられるようにヒモが付いていて、これは携帯用の弁当箱にもなる。

もちろんカーオニャオは炊くのではなくて蒸す。通常1日に2回、朝と夕に蒸すらしい。そして食べきれなかったカーオニャオは次のカーオニャオを蒸す際その上にのせて蒸し直す。それでも残ったカーオニャオは天日に干してカラカラに乾燥させる。乾燥したカーオニャオは口に入れてしばらくすると蒸したてのように柔らかくなるらしく、これは一種の保存食で、カーオニャオは実にコンビニエンスな食物なのだ。


「これ、マジ強烈に辛いですね……」

彼が思わず水をがぶ飲みする。

そういえばカンプーン・ブンタヴィーの『東北タイの子』の中で、まだ辛いラープが食べられない主人公の少年クーンが、「男の子は辛いものが平気になるように練習しなくてはいけないよ」と母親に諭されている下りがあった。クーン少年もまた素直に分かったと答えながら、「そうすれば大きくなったら強くなれるってお父さんも言ってたよ」などと母親に話していた。やはり彼らとて、この辛さを味わえるのは一朝一夕にはいかない、長い努力の賜というわけなのか。

そしていよいよ最後の料理がテーブルへ運ばれてきた。そのアリのスープの代わりに彼女がすすめてくれた料理とは。水をがぶ飲みしていた彼の目が一瞬にして点になる。

茶色くて艶があって、丸い大きな目をしていて、またギザギザした毛の生えた細い足があって、カリカリというか、パリパリというか、そして香ばしいとてもいい匂いがしている。そう、それはコオロギの唐揚げだった。カリッと油で揚がった大きなコオロギが皿の上に山盛りになっている。

「誤解されないように補足しとくけど、これ、彼女がすすめてくれたんだ。今夜はアリのスープができないらしくてその代わりにね」

「ア〜っ、無理だ。僕、これ、絶対に無理です……」

彼が山盛りのコオロギをジッと凝視しながら言った。

「おい、食べられないものはなくて、何でも美味しく食べるんじゃなかったのかよ?」

「隊長、それは食べ物のことですよ。これ食べ物じゃない。だって虫ですよ。隊長、レーバーも明太子も刺身も食べられなくて虫は食べられるって、やっぱ変な人だ……」

彼が顔を引きつらせて笑っている。

「何を言ってんだよ。まあ確かにちょっとデザインは違ってるけど、虫も、エビやカニと同じ節足動物だぞ」

「いやあ、それって絶対に違うと思う。違うって思いたい……」

そこでコオロギを1匹、足をつまんでパクリと口に入れた。揚げたてのコオロギの唐揚げは、カリカリ、パリパリとしていて香ばしく実に美味しい。ふとカウンターに目をやると、彼女がカウンターに頬づえをついて笑いながら、我々の一部始終を観察している。

「ほら、彼女もお前がコオロギを食べてどんな反応をするか楽しみにしてるじゃないか」

彼が恐る恐る彼女と目を見合わせ、顔を引きつらせて笑っている。

「参考までにコオロギの唐揚げはね、食べるといつもコンビニで買ってるあるお菓子を思い出すと思うぜ」

「隊長、それって罠じゃないでしようねえ。まあコオロギなんてここで食べなきゃ、僕、一生食べることないだろうからなあ。ヨッシャ〜。コオロギの唐揚げ、イキます!」

彼がコオロギの足をつまんで、意を決し目を閉じてパクリと口に入れた。

「……」

「どうだ。コオロギ?」

「ア〜っ、コオロギって……。マジこれ、ポテトチップスだ!」

彼が突然、大笑いしたのを見て、カウンターの中の彼女も大笑いした。

「これでもう日本に帰ってポテトチップスを見るたびに、コオロギの唐揚げが食べたくなるぞ」

「いや、そんな恐ろしいことには絶対にならないと思います。ならないことを願う……」


   *


「アレ?」

その時、我々のテーブルの脇を何かが走り抜けた。

「今の、何だった?」

「イヌでしょ。白いイヌ」

「イヌじゃなかったと思うけどなあ?」

「イヌですよ。だってイヌしか考えられないじゃないですか」

と言うわけで我々ふたり、カウンターの奥にその正体を突き止めに行った。

「ア〜っ」

「ほらね。イヌじゃない」

イヌではなかった。それはヤギだった。白い仔ヤギが彼女とじゃれている。

「あれ、ペットなんですかね……?」

「当たり前さ。まさか食べるんじゃない……」

「だといいんですが……」

そこで彼女に確認してみたところ、彼女はヤギだと教えてくれる。その答えは、それは何かという僕の質問に対する至極まっとうな答えだった。実は僕はペットという単語を知らなかったのだ。かといって友達なのかと質問するのも変な気がして、あえてそれ以上は質問しなかった。

それから彼とふたり、ついでに店内に意味脈絡もなく飾られているガラクタを見てまわった。もち米を入れる竹カゴやラオスの楽器。少数民族の衣装にバッグ。何かスローガンがプリントされた薄汚れたTシャツに色あせた政治家の写真、ペプシの看板にハッピーニューイヤーとプリントされた金色のキラキラしたモール。そういったものが支離滅裂と壁を埋め尽くしている。そしてそのガラクタに埋もれるようにして誰かから送られてきた絵葉書がたくさん壁に貼り付けてあった。

よく見てみるとNGOの関係者らしき差出人の絵葉書がいくつもあった。おそらくラオスの環境保護なんかに乗り込んできた心熱き人たちから送られてきたんだろう。

「それにしてもこれから地球って、いったいどうなるんですかねえ……?」

彼が絵葉書を1枚を手にして、しげしげと眺めながらふとそんなことを言った。

「どうなるんだろうな……?」

ひと通り店内を見て回った我々は、またテーブルに戻り最後の晩餐の続きを始めた。


「ところでプラトンの書いた『プロタゴラス』って読んだことある?」

「いや、ないです。『ソクラテスの弁明』なら授業で無理やり読まされましたけど」

「それにね、おもしろいことが書いてあるんだ」

「おもしろいこと?」

「そう。古代ギリシアの哲学者プロタゴラスがソクラテスに語った、その物語がおもしろいんだよ。むかし神々がまず土や火といったものを混ぜ合わせて生き物を作った。そしてその生き物を地上に送り出すにあたって、プロメテウスとエピメテウスの兄弟に、それぞれの生き物にふさわしい能力を分配するようにって命じたのさ。すると弟のエピメテウスは兄のプロメテウスを説得して、それを自分ひとりでやり始める」

「なんだか、おもしろそう!」

「能力の分配はこんなふうにして行われたんだ。ある生き物には強さを与えてたけど、速さは与えなかった。速さは弱い生き物に与えたんだ。またある生き物には武器を与えた。そして武器を与えなかった生き物たちの中の、ある生き物には身を守るための小さな体と翼を与え、またある生き物には身を隠すための地下の住み処を、またある生き物には身を守れるだけの大きな体を与えたんだ。こんなふうにしてエピメテウスは、すべての生き物が滅びることがないように能力の分配をしたのさ」

「おもしろい!」

「次にエピメテウスは、全能の神ゼウスの司る季節の変化に適応できる体を与えた。冬の寒さや夏の暑さのために厚い毛や硬い皮を与え、その毛や皮は眠る時の寝具にもなった。さらに歩くために足には蹄や、血の通わない硬い皮膚を与えた。そしてその後エピメテウスは、それぞれの生き物に食べ物を与える。ある生き物には地に生える草を、ある生き物には木に実る果実を、またある生き物には土の中の根を与えた。他の生き物の肉を食べることを許された生き物もいた。その代わりにその生き物は少しの子しか産めないことにした。一方、食べられてしまう生き物には多くの子が産めるようにしたのさ」

「おもしろすぎる!」

「こうしてすべての生き物たちに能力の分配をしたんだけど、実はエピメテウスはそんなに賢くなかったから、うっかりミスをしちゃったんだ。人間に能力の分配をするのを忘れてた。しかもそれに気づいた時には、すでに分配できる能力はすべて他の生き物に分配してしまってて、何も残ってなかったのさ」

「なんと!」

「そこへ兄のプロメテウスがやってきた。そして人間だけが裸のままで、寝具もなく履き物もなく、武器も何も持っていないことに気づく。そこでプロメテウスは火を司る神ヘパイストスと知恵を司る神アテナのもとから、火と知恵を盗み人間に与えるんだ」

「なんだかスゴい!」

「かくして人間は火と知恵を与えられたものの、人間はそれを生かす能力を持ってなかった。そこでプロメテウスは再びヘパイストスとアテナのところに忍び込み、火と知恵を使って技術を生み出す能力を盗みそれを人間に与えたのさ」

「へ〜え、ギリシア神話ってこんなにおもしろかったんですね」

「いや、プロタゴラスの話はまだ終わってない。人間はその後プロメテウスから与えられた神の能力によって、言葉を作り、家や衣服、寝具や履物を作り、そして土地を耕し食べ物を得るといった、様々な技術を手に入れたんだ。でもね、武器を与えられてなかった人間はとても弱い存在だったから、簡単に肉食獣の餌食になってたのさ。そこでそれまでバラバラに暮らしてた人間たちは、身を守るために集団で生活し始め国家を作った」

「おお!」

「ところが人間たちは集団で生活し始めると、お互い争ってばかりいていざこざが絶えなかったんだ。そして結局、人間はまたバラバラに暮らすはめになり、こうして人間はこの世から滅びようとしてた」

「アリャっ!」

「それを見てた全能の神ゼウスは人間が滅びるのを恐れ、ゼウスの息子の幸運の神ヘルメスに命じ、人間にある2つのものを与えたんだ。それが慎みと戒めだった。慎みによって国家の秩序が保たれ、戒めによって人間同士が争わないようにね」

「なんだかすごく説得力のある話ですね」

「また古代ギリシアの詩人アイスキュロスが書いた『縛られたプロメテウス』ではね、人間に火と知恵を与えたことがゼウスの怒りをかい、プロメテウスは世界の淵の岩山に縛りつけられ、ゼウスの化身の鷲に内臓を喰われるんだけど、実はプロメテウスは火と知恵の他に、ある重要なものを人間に与えてるんだ。それが盲目的な希望だ」

「それって何ですか?」

「それはね、自分の未来が見えなくすることで、ようするに、あくまでも人間のやることには限界があるんだっていう現実に気づくことなく、自らの行いによって輝かしい未来がやって来ることをひたすら信じて突き進む、そういった希望を人間に持たせるものだったのさ」

「へ〜え」

「でもね、このプロメテウスが人間に与えた盲目的な希望っていうもの、それは逆の意味で、現代の我々に教訓として重く響くものがあるんじゃないかって僕は思うんだ」

「どういう意味ですか?」

「その技術を手にしてしまったことによって、結果としてもたらされるかもしれない、行き着く先に待ち構えてる解決不能な深刻な問題、それが見えないまま、あるいは見ようとしないまま、我々人間は盲目のままひたすら希望だけを追い求めて邁進してきたのさ。すなわちそれがプロメテウスが我々人間に与えたことによって、もしかすると地球を破滅へ導こうとしてるかもしれない、盲目的な希望なんじゃないかって僕は思うんだ」

「それって言えてますね」

「たとえば100万キロワット級の原子力発電を稼働すると、その核分裂によって広島に落とされた原爆と同等の熱エネルギーが、8時間に1発の割合で放出されるらしい。ようするにその熱エネルギーでもって水蒸気を作り、タービンを回して発電するわけだけど、それにともなって炉心を冷却するために毎秒10トンもの冷却水を炉心に送ってる。この危ういシステムが地震や事故なんかで破綻するとメルトダウンを起こし、放射線汚染っていう大惨事をまねくことになるわけだ」

「ア〜っ、なるほど」

「さらにこういった原子力発電を1年行うと、数千億人を殺せる放射性物質が炉心に蓄積されるらしい。そしてその蓄積された放射性廃棄物を我々人間はどう処理していいのか分からないまま、今も世界中で原子力発電を稼働させ続けてる。ちなみにその放射性廃棄物の危険性は数百万年後になっても目立った変化がないって言われてて、当然、その危険性が消え去る数百万年後まで完璧に密閉された状態で隔離し続けなくちゃいけないわけだ。今のところそれを地中深く埋めることを考えてるらしいけど、結局それはただ見えなくするだけのことであって何の解決にもなってない。第一たとえうまく地中深くに埋めたとしても、数百万年もの間まったく腐食せず放射能が漏れ出さないまま完璧に密閉できる素材を我々人間はまだ持ってない。そして今この瞬間も原子力発電を稼働し続けてて、刻一刻と放射性廃棄物の量は増え続けてる。これをバカげてないっていったい誰が言えるんだ?」

「確かに!」


「そういえば21世紀を目前にして、各メディアがいっせいに20世紀ってどんな世紀だったかっていう問かけを始めたけど、20世紀っていったいどんな世紀だったって思う?」

「20世紀ですか?」

「そう、20世紀だ」

「突然そう言われると難しいなあ。ほとんど実感として湧いてくることがない。隊長はどんな世紀だったって思ってるんですか?」

「20世紀はねえ、ついに人間が神になった世紀だ」

「ヒェ〜っ、神ですか?」

「そう神だ。それは我々人間自らが生み出した科学によってね」

「ア〜っ、それは僕にもなんとなく分かるような気がする」

「ちなみに東洋では科学は生まれなかったってのが定説なんだ。東洋のそれは技術であって、科学はあくまでも西洋のものだったのさ」

「ヘ〜え」

「そもそも科学は、神から我々人間に与えられた自然ってものをいかに支配するかっていう、飽くなき探求だったんだ。そこには当然、自然に対して敬意なんてものを介入させる必要性は一切ない。敬意は自然を創造した神にこそ捧げるものであって、その自然の法則を解明するっていう科学の行為は、すなわち創造主である神の創意を読み解く行為に他ならなかったんだ。もちろんその根底にあるのは『旧約聖書』の創世記に記されてる自然観、神、人間、自然っていう支配構造だったことは言うまでもない」

「なるほど」

「したがって東洋のように、もしも西洋の彼らにとって自然というものが侵しがたい尊く神聖なものだったとしたら、今日の科学の状況は大きく変わってたんだろうな。この世に存在するすべてのもの、有機物も無機物も、もちろん我々人間を始めとする生物も、あくまでもひとつの対象物としてただひたすら客観的に、冷徹に、観察、分析、解明できたからこそ今日の科学の進歩があったんだ」

「確かに!」

「またその進歩っていう概念自体も、キリスト教の目的論から生まれたんだってことを忘れちゃあいけない。そしてそんな科学の純粋な知の追求には当然、倫理感や道徳感なんてものを介入させる必然性はまったくなかった。ようするに科学は、いかに生きるかといった思索などとはまったく無縁の学問なのさ。そして科学の知の追求は言い換えれば手段の追求であって、しかもそれは目的を必要としない究極なる手段の追求なんだ」

「ア〜っ、僕もそう思います」

「そして神の手として自由っていう名の許しを得た科学者はまた、その知の追求の呪縛から逃れられない。ひとつの問が解明されると、ただちに新たな問が生まれ、永遠に満たされることのない知的好奇心に犯された科学者は、出口のない知の連鎖の中をひたすら走り続けるんだ。そしてこうして生み出された科学の新たな発見は、概ね経済っていう名の欲望の循環システムの中にただちに取り込まれ、我々の欲望を刺激し、欲望を肥大化させる担い手になる。そもそも経済ってのは、宗教を始めとするかつての様々な英知が常に戒めてきた人間の欲望を養分として成長するものなんだ。だから科学が宗教を解体したように経済は我々の価値を解体し始め、科学が次から次へと生み出す新たな発見は、次から次へと新たな欲望を生み出し、それがあたかも血液のようにこの社会の中を廻り経済を活性化させるのさ」

「そう考えると、経済って恐ろしいものですね」

「もちろんそこで重視されるのは、倫理感や道徳感などじゃなくて経済効果だ。その経済効果は時として我々の健康や幸福よりも優先される。そして科学と経済は一種の寄生と宿主のような相互関係を持って、経済が活性することによって科学はそこから得られる代償を養分としてさらに発展し続ける。こうして経済体制の中に組み込まれた科学が生み出す、倫理感や道徳感の欠落した目的のない手段の追求が、新しい価値となって我々の生き方を大きく左右し始めたんだ」

「なんだか聞いてると怖くなる」

「目的を見失った手段ほど恐ろしいものはない。そしてこれはね、核兵器の開発といった大掛りなものに限らない。ここ近年急増してる、ごく身近なコンピューターやインターネットを使った犯罪もしかりだ。恐ろしいことに今、我々の倫理感や道徳感がどんどん低下してる中、科学が次から次へと生み出す技術だけがどんどんと発達し続けてるのさ」


我々人間はとうとう自然界から抜け出してしまった。そんな人間たちは山を切り崩し、森林を伐採し、地表をコンクリートで塗り固め、より快適な生活を求めて突き進み、それまで自然界には存在していなかった物質を作り出し大量に使用し始めた。

そのため我々人間はまた膨大なエネルギーが必要になり、新たなエネルギーを確保するためにありとあらゆる手段を駆使して、地球を開発、言い換えると変質していくことになった。

我々人間は、そういった自分たちの営みが自然界に及ぼす影響がどのようなもので、それによってどのようなことが自分たちの未来に起こるのかといった疑問など、永らくまったく脳裏をかすめることすらなかったのだ。その結果として我々人間はこの地球上で、森林の消滅、生物の絶滅、海洋汚染、大気汚染、温暖化、土壌侵食、砂漠化、酸性雨、オゾン層の破壊、有害廃棄物といった多くの問題を抱えることになった。それはもちろんすべて我々が追求してきた豊かさの代償なのだ。

こうして我々人間は、自然界の中での動植物たちのような、相互に補完し会って生態系を維持永続させてゆく共生の存在ではなくなり、人間は自然に対し危害こそ与えるが、決して自然に対して利益を与えることのない存在になってしまったのだ。

もちろんこういった悲劇が、輝かしきヨーロッパの産業革命によって一気に加速してしまったことは疑う余地のないことだ。産業革命以降のヨーロッパの工業文明は、飛躍的に発達する科学の後盾を得ていよいよ巨大化し、地球に潜在している資源を猛烈に収奪し始めた。

そしてそこに新たな価値体系として出現したのが経済だ。イギリスの経済学者ライオネル・ロビンズは、「経済学とは、人間の無限の欲望を満足させるために、地球の有限な資源をいかにして分配するかという学問だ」と言った。

さらに経済が、こういった人間の飽くなき欲望という基壇の上に出現させたのが資本主義だ。資本主義は大消費社会を誕生させ、これによって資源の収奪はますます激化していくことになる。

街の中は、膨大な資源と膨大なエネルギーを費やして大量生産された真新しいモノであふれかえり、人間の欲望の拡大を称賛する資本主義は民衆を飼いならし、こうして「消費」というモノを買って捨てるという新しい価値観が我々人間の「豊かさ」の指針となっていった。

ようするにここで我々人間は遂に「豊かさ」を精神にではなく、モノと貨幣に向けたのだ。


かくしてこのヨーロッパ世界の価値観は、かつて宣教師たちが伝道した「神」に代わり、新たなる揺るぎなき信仰として地球の隅々までに伝道されることになり、世界中の国の人々が先進国と呼ばれる国の人々と同じ豊かさを追い求め、世界はこの価値観によって物凄いスピードで均一化していった。

そしてやがて20世紀がヨーロッッパの世紀からアメリカの世紀へと移行すると、新興国家アメリカの強力な経済力によって、世界は驚くべき加速度でもって均一化、極端な言い方をすればアメリカ化への道を進み始めたのだ。


〈きわめて生産制の高いわが国の経済を維持するために、われわれは消費を生活の基本にし、商品の購入と使用を習慣化し、精神や自我の満足を消費に求めなければならない。物は消費され、燃やされ、すり減らされ、どんどん捨てられねばならない〉


これはアメリカのアナリストであるビクター・ルボーの言葉だが、やがてこの資本主義国アメリカの消費を中心に据えた生活スタイルが、世界共通の生活スタイルになってく。そもそも資本主義とは「均一化」という作用をもった力なのだ。

事実、世界中の国々がアメリカを中心とした資本主義の歯車と連動され、アフリカのサバンナでも、ニューギニアの小島でも、またアマゾンの密林でも、洋服を着てスニーカーをはき、コーラを飲みテレビを見て、自動車やバイクを乗り回す人々の姿は、もはや珍しいものではなくなった。しかしこれは単なる生活スタイルの変化ではない。経済大国アメリカの資本主義の価値観を、我々は消費という日常的行為の中で無意識の内に受け継いでいるのだ。

「文化帝国主義」という言葉がある。これは強い政治力、経済力を背景にして、メディアを操作し行なう文化的支配のことを過去の植民地帝国主義になぞえて呼んだ言葉だ。『フォンタナ現代思想辞典』は文化帝国主義について「土着の文化を犠牲にしてまで外国の文化や価値や習慣を高め、広める政治力と経済力の効用」と定義している。

ようするに経済大国によって大量生産された商品やメディアといったものが、世界中の伝統的文化を無差別にのみ込み淘汰しようとしているというのだ。アンソニー・J・F・ライリーはまた、「いったんテレビが置かれると、肌の色、文化、背景がどうであれ、だれもが同じものを欲しがるようになる」とも指摘している。

とにかく世界の各民族が有していた多彩な文化が、膨大な資源と膨大なエネルギーを使って大量生産したものを大量に消費し大量に廃棄するという、資本主義が生み出した先進国の文化によって淘汰され、地球全土がこの同じ価値を求めて突き進み始めたことによって、地球の悲劇はいよいよ絶望的な結末へ向け加速し出すことになったのだ。


「ちなみに新世紀をむかえる直前、NHKでも、あなたにとっての20世紀の重大事件は何かってアンケートをとった。NHKが独自に選んだ、確か100項目くらいあった20世紀に起こった事件の中から選ぶんだ」

「へ〜え。NHKでもそんなことやってたんですね。知らなかった。で、隊長っていったい何を選んだんですか?」

「プラスチックの発明だ」

「マジですか。たぶん100項目の中からよりによってそんなもの選んだのって、隊長ひとりだったんじゃないんですか?」

また彼に笑われる。

「いゃ。でもそれって、マジ笑い事じゃないんだって、今は思えますよね?」

「だろ?」


   *


「またカンボジアのアンコールワットの東回廊の壁に彫られてる古代インドの神話、乳海撹拌っていうのはね、こんな話なんだ」

「乳海撹拌?」

「ある時、仙人がインドラ神に花環を捧げた。すると突然インドラ神の乗り物である神象アイラーバタがその長い鼻で花環を大地に叩きつけてしまい、花環は無惨にも粉々に打ち砕かれてしまう。実はその花環は豊穣の女神シュリーの棲みかだったのさ。豊穣の女神を失ったこの世はみるみる内に混沌とし荒廃していった。それを目にした神々はこの世を再生させるべくヴィシュヌ神のところに相談に向かう。するとヴィシュヌ神は神々に、豊穣の女神を生き還らせるため悪魔たちと力を合わせ、乳海を撹拌して不死の妙薬アムリタを得よと命じた。そこで神々はまず宇宙の中心に聳えてるメール山を引き抜き乳海の中に立て、それに大蛇ナーガを三巻き半させると悪魔たちに協力を求め、ナーガの頭を悪魔たちが、尾を神々が持ちいっせいに引き合いゴウゴウと乳海を撹拌し始めたんだ。またヴィシュヌ神も自らメール山の山頂に姿を現し、撹拌に合わせて号令をかけ始め、ナーガの吐き出す火は悪魔たちを活気づけ、吐き出す息は尾のあたりで雨雲になり雨は神々を活気づけた。でもメール山が回転するとその摩擦によってとてつもない熱が生じ、乳海の底に穴が開きそうになり、乳海に棲んでる生き物たちがその煮えたぎる熱でもがき苦しみだす。それを目にしたヴィシュヌ神はただちに亀クールマに化身して乳海の底に潜ると、メール山を甲羅の上にのせて軸受けになった。こうしてやがて乳海が撹拌されると、乳海の中から天女アプサラスが天空に躍り出て、ついに不死の妙薬アムリタが抽出されたのさ。かくして豊穣の女神シューリーは生き還りこの世は再生された」

「おもしろい話ですね乳海撹拌って」

「この古代インドの再生神話ではね、神々と悪魔は1000年間、乳海を撹拌し続けてアムリタを抽出しこの世を再生させたってことになってる。でもきっと我々にはそんな時間は残されてない」

「そうなんですか?」

「たとえばある優秀な科学者が今この瞬間、人間の生活による二酸化炭素の排出量をゼロにする革新的な技術を発明してノーベル賞を受賞したとしよう。その技術か地球全土に広がって二酸化炭素の排出量が激減するのに、いったい何年かかるのか。そしてその日までこの地球の余力が残っているのか。その間も地球の熱はどんどん上がり続ける。この現実から我々は絶対に目をそらすことはできない。もはやなんとかなるさなんていう楽観論を口にするような時期ははるか昔に過ぎてるのさ」

「そう言われると少なくとも、今さら二酸化炭素の排出量を売買してるような場合じゃないって感じしますよね」

「今、手にしてる快適さは何ひとつとして手放さず、もっと快適な生活を求め続け、同時に二酸化炭素の排出量が激減する革新的な技術を開発し上がり続ける地球の熱を下げ、かつての快適な環境に地球をもどす。本当にそんなことが可能なのか。『星の王子さま』のキツネの言葉じゃないけど、少なくともいったん豊かさに飼いならされてしまうと、我々人間はその豊かさから逃れられない。しかもその豊かさでもって我々を飼いならしてるのは、他でもない我々人間自身なんだから」

「確かに」

「実は僕はね、今、我々に突きつけられてる問題は、人間が石を使い、火を使い始めた瞬間、こうなることが決まってたんだって思ってるんだ」

「ア〜っ、その通りかもしれませんね」

「だから僕は、それはもうすでに遅すぎたって思ってるけど、今我々は、人間っていったいどういう生き物なのかってことを改めて考える時がやってきたんじゃないかって思ってるんだ」

「人間ってどういう生き物か?」

「それをしっかりと考えて答えを出さない限り、二酸化炭素の排出量がどうのとか、エネルギーの消費量がどうのなんていう、そんな上辺だけを取り繕ってても問題は解決しない。もしもそれを解決する技術が生み出されたとしても、我々人間そのものが変わらない限り、所詮、我々はまた同じことを繰り返し続けるのさ」

「それって言えてますね」

「それに僕はね、科学技術の発達によってもたらされる、何もかもが我々人間の思い通りになる、何もかもを諦めなくていい社会、その社会の未来にどこか恐ろしいものを感じてるんだ」

「恐ろしいもの?」

「そう。科学技術の発達を後押ししてきたもの、それは深いシチュー鍋の底からグツグツと湧き出してくるような我々人間の限りない欲望だ。そして、そんな科学技術の発達は、我々人間の欲望を止めどなく溢れさせ、その結果として目の前に突きつけられたのが、今、地球規模で深刻化している問題なわけだからな」

「なるほど」

「ちなみに諦めるっていう言葉は、確かに後ろ向きでネガティブな言葉だ。でも僕はね、時として諦めることも必要なんだって思う。諦めるってことはまた、限界を知るってことだからな。教育の現場では子供たちに、諦めるな、諦めずに成功を掴み取れって教えてる。それは正しいことだ。でもね、これは難しい問題だけど、子供たちにこの世には限界っていうものがあるんだってことを教えることも、僕は同じくらい重要なんだって思う」

「諦めるか?」

「諦める。ようするにプロメテウスから与えられた盲目的な希望を捨て、目の前の現実をしっかりと見て、この世には限界というものがあるんだってことを知る、それは我々人間にとって大切なことだ」

「確かに」

「そもそもかつてまだ諦めることが当たり前だった時代、ようするに我々人間のいだく欲望のほとんどが叶わなかった時代、その諦めるっていう失望感に寄り添ってたのが宗教だったんだ。そしてそんな宗教が我々の人間の限界を諭し、我々人間の暴走を制してきたのさ。でも今、すでに宗教に我々人間を制する力はなくなった。う〜ん。じゃあ今この社会で我々を制することができるものっていったい何だろうって考えてみると、ひょっとするとそれって株価か?」

「なんだか冗談っぽく聞こえたけど、マジその通りかもしれないですよ」

「冗談で言ったつもりなんだけど、まんざら間違ってないか?」


「20世紀、我々人間は自ら生み出した科学技術によってとうとう神になった。そして21世紀、いよいよその科学技術が我々人間に代わって新たな神になり、我々人間はその新たな神が生み出す奇跡の眩しさに目をうばわれ、ひたすらその輝きを追い求め、振り返る余裕もなく、立ち止まる余裕もなく、そのめくるめく奇跡のスピードに追いつこうとして必死に後を追い走り続ける。その暴走を制するものはもはや何もなく、その行き着く先に待ち受けているものはいったい何なのか、そんなことに関心を示す者はもう誰もいない。こうして全速力で走り出した我々人間によって、地球の未来は確実に、人類が誕生した時点で約束されていたグランドフィナーレに向かって突き進んでいくんだ」

「そこに希望ってあるんですかねえ?」

彼がテーブルの上に転がっていたコオロギの足を指で弄びながら、こんなことを言った。

「希望か?」

「はい」

「そうだな。ちなみにタイ語の希望を表す単語プラータナーには、希望とは別にもうひとつと意味があるんだ」

「何ですか?」

「祈りだ」

「祈り?」

「そう。だからもう最後は祈るしかないのかもな……」


   *


テープレコーダーから流れていた音楽はいつの間にか終わっていた。我々はとうとうメコンの最後の晩餐をきれいにたいらげ、それに気付いた彼女が皿を下げにやって来た。食後のコーヒーはどうかと尋ねてくれた彼女に「もうお腹いっぱいだよ」と辞退し、食事代を支払う。

それからふたりして少し取り止めのない話しをしている内に知ったのだが、彼女は実はラオ人ではなくタイ人なんだそうだ。どうしてタイ人の彼女がこんなラオスの田舎のレストランで働いているのか少し興味があったが、「なぜ」と聞いたところで答えが複雑すぎて僕の語学力じゃあ理解できないような気がして、あえて聞かなかった。

そしてテーブルにチップを残しさてホテルに帰って早々と寝ようかと席を立ったその時、ふとあのコオロギの料理の名前を憶えておこうと思い、彼女にペンを渡し書いてもらうことにした。

彼女は「いいわよ」と言ってペンを受け取り、そばにあったナプキンに何かサラサラと書いてペンと一緒に手渡してくれる。広げて見てみると、ナプキンの端に小さなタイ文字で「チングリット」コオロギと書いてあった。


そんな時だった。先に外に出ていた彼が慌てて戻って来た。

「隊長、雪が降ってますよ!」

「おい、そんなバカなことがあるわけないじゃないか。ここは熱帯だぞ」

また彼がくだらない冗談でも言っているんだと思い、僕は笑った。

「じゃあ自分の目で確かめてくださいよ!」

まったく、コイツは冗談のセンスってものがないなと、少しあきれてドアを開け外に出た。


雪だ。確かに雪が降っている……。


レストランのドアを開けると外は猛吹雪だった。空は漆黒の、もうすっかりと夜のそれに代わっていて、そんな夜空の深い闇を白く塗り潰すかのように、真っ白な雪が目もくらむほど降りしきっている。レストランの前の路地にひとつだけ点る小さな街灯の明かりも、そこに吹き込む雪によってあたかも白い光の柱のように闇夜にクッキリと浮かび上がり、すでに降り積もった雪があたり一面を真っ白な銀世界に変えていた。

「まさか……」

そんなことがあるはずない。ここは熱帯だ。どう考えてみても雪が降るなんてことは絶対にありえない。じゃあこれは。夜空を真っ白にくらまし今も刻一刻と降り積もっている、これはいったい何だ?

虫だ。これは雪じゃない。この白いものは虫なのだ。もう「数えきれない」などといった言葉で表現できる数じゃない。吹雪のように熱帯の夜空を真っ白に覆いつくし、メコンの街をおびただしい数の小さな白い虫が埋めつくしている。

「カゲロウだ……」

確かに、それはカゲロウだった。

「カゲロウって何ですか?」

「虫だよ。これは雪じゃない。虫なんだ……」


カゲロウとは、3億年ほど前の古生代からほとんど形を変えることなくこの地球上に生き続けている水生昆虫の一種で、トンボのような4枚の薄く透明な翅を持ち、ガのような透き通る白く柔らかい体をしている。そしてこの昆虫は水生昆虫と言われる通り、幼虫の間はずっと水の中で過ごしているのだ。

それがいよいよ水面に浮かび上がり羽化し空へと飛び出すわけだが、その羽化したカゲロウは翅も体もくすみ濁っている。実はこの虫は羽化した後、間もなくしてもう1度外皮を破り脱皮し、そして、あの美しい透明な翅と透き通るような純白の体に変わるのだ。ちなみにこのように成虫になるために2度の脱皮を行なうのは、数ある昆虫の中でもカゲロウだけに限られているらしい。

虫という生き物にとって脱皮という生理が、我々哺乳類の出産の陣痛のような苦しみを伴うものなのかどうかは知らないが、とにかくカゲロウはこの2度の神秘の儀式を経ていよいよ成虫になるわけだが、なんと成虫へと羽化した彼らには口がないのだ。退化してしまったのだ。したがって彼らは以後、もう死ぬまで何も食べないのだ。

そして彼らはやがて群れを成して空を飛び回り、交尾し産卵を終えるとそのまま死んでしまう。それは羽化してから数時間あまりの、まさにあっという間の命なのだ。カゲロウの洋名「エフェメロス」は、「わずか1日の命」を意味するギリシア語に由来している。


まさに生まれて初めて目にするゾッとするような不気味な光景だった。彼もまた言葉を失ったまま立ち尽くしている。

しかしカゲロウの吹雪はいっこうにやむ気配はなかった。すべての音がこの吹雪によって掻き消され何も聞こえない。おびただしい数の白い虫が夜空いっぱいに群がりメコンの街を覆いつくし、そしてその白い死骸が刻一刻と雪のように夜空から音もなくハラハラと地に散り積もっている。まさに想像を絶する数の増殖と死が、目の前で繰り広げられていた。思わず足がすくみ、吐き気がした。

だがこのままずっとドアの前に立っているわけにはいかない。僕は意を決し1歩足を踏み出そうとした。ところがどうしても踏み出せない。

カゲロウはすでに10センチ近く降り積もっていた。そしてよく見てみると、まだ死にきれず最後の力を振り絞り、それがパタパタと羽撃いているのだ。夜の暗闇の中、降り積もった真っ白な雪があたり一面、蠢いていた。


我々は無言のまま顔を見合わせた。

「ヨシっ、行くぞ!」

「ハイ!」

最初の1歩を踏み出した感覚というのは、今でもはっきりと憶えている。おそらく車に轢き殺された動物の死骸を足で踏み潰す感覚というのはこういうものだろう。パタパタと蠢く真っ白な雪を踏み付けた途端に足はそのままブニュッと横すべりした。その拍子に危うく足を取られ転びそうになったが、2歩目からはなんとか上手く立てた。だが足の裏に伝わる、確かに生き物を踏み潰しているという嫌な感覚は消えることはなかった。

そして我々は一気に道路に飛び出し走り始めた。その瞬間、目の前が真っ白になり息ができなくなる。顔中に、体中に白い虫がパタパタとまとわりつき、目に、口に、容赦なく白い虫が飛び込んでくるのだ。しかしカゲロウの吹雪はますますひどくなっていく。

その時、突然、白い暗闇の奥から重い沈黙を引き裂き、怯えるような犬の遠吠えが聞こえてきた。それをきっかけにしてどこかでまた別の犬が遠吠えをし、吹雪の中を遠く近く犬たちの遠吠えが谺し始める。

「おい、何やってるんだ!」

彼が足を滑らせ転んでしまった。そんな彼の体に容赦なくカゲロウの白い死骸が降り積もる。急いでカゲロウを振り落とし、彼を起こして再び走り始めた。

この後も我々は幾度も足をすべらせて転びそうになり、それでもなんとかパタパタと顔にぶつかるカゲロウを手で振り払いながら全速力で走り続けた。そしてやがて前方に目をやると、やっと吹雪の向こうにメコンの川岸の街灯の明かりが白く輝いているのが見えた。あの明かりの下を曲がればホテルだ。

もう足の裏の感覚はどうでもよくなっていた。踏み潰している小さな虫のことなど頭の中からすっかりと消え去っていた。でも踏み潰した虫の体液がパンツの裾に飛び散っている。シミになるまでに早く洗い落さなくては。そんなことを考えながら体にまとわりつく虫を振り切り、我々は全速力でホテルへと走った。明日はいよいよヴィエンチャンだ。


【カゲロウ】

節足動物門。昆虫網。カゲロウ目。学術名「Ephemeroptera」。カゲロウはこの地上で最初に翅を獲得した昆虫だとされている。そんな彼らは羽化してその翅をはばたかせ1度空に飛び上がると、死ぬまで地上には降りてこないのだそうだ。彼らは地上に降りるともう2度と飛び上がることができないのだ。だから羽化していったん空に飛び上がると最後、彼らは延々と羽撃き続け死ぬまで飛び続けなくてはならない。そう。それはあたかも我々人間のように。死ぬまで延々と。いつまでも、いつまでも……。


   *


うっかり朝寝坊をしてしまい、渋谷のオフィスに少し遅れて出勤すると、アシスタントの彼女が慌ててやってきた。

「早く支度してください。撮影は11時からなんですから」

「ゴメン。アっ、モデルには少し早くスタジオに入るように連絡してくれた?」

「はい、仰せの通り」

「ちょっと待った。スタジオに行く前にコピーライターに早くコビーをあげるようにって尻を叩いてくるから」

「ついでに自分の尻も叩いてもらってきてください。そうだ、エアメールが届いてますよ」

「ありがとう、デスクの上に置いといて」

あれから1年。また東京には約束通り今年も春がやってきていた。相変わらず僕は仕事に追われていて、4月13日が過ぎてしまったことも、それがいったい何の日だったのかということも、そしてあの旅のことも、僕はもうすっかり忘れてしまっていた。


あの日の朝、我々はヴィエンチャンのワットタイ国際空港の空港待合室にいた。フライトの時間が早かったから、早起きをしてホテルで朝食をすませた後、急いでタクシーに乗り込みやってきたのだ。しかしヴィエンチャンの空港は市街からさほど離れていなくて、あっという間に着いてしまった。


前日の朝は、起きるとメコンの街の様相は一変していた。

我々はヴィエンチャンへ向かうため、朝、早々と身支度をしてホテルの部屋を出た。するとあの4階の表廊下にまで、生き物の死骸が熱帯の朝日を浴びて腐り始めてきた、その腐敗臭が熱気とともに込み上げていて僕は思わず吐いた。

階段を降りてメコンの川岸の通りに出ると、人々が道路に降り積もったカゲロウの死骸をスコップでメコン川に投げ捨てている。メコンの街が屍臭につつまれていた。

我々は鼻と口を手でおおい、ちょうど前を通りかかった車を止め乗り込んだ。メコンの川岸のガードには子供たちが座っていて、降り積もったカゲロウの死骸でバイクがスリップして転倒するたびに、大声で歓声を上げはしゃいでいた……。


朝のヴィエンチャンの空港には、相変わらず多くの人たちが行き交っていた。空港はちょうど地球のスクランブル交差点のようなものだ。様々な国籍の、様々な人種の、様々な人々がひっきりなしに素通りする。

でも多くの人々が行き交ってはいるが、お互いの人生に介入することはなく、お互いぶつからないよう最低限の配慮をして無関心に通り過ぎる。もしも不本意に肩なんかがぶつかって「ああ、ごめんなさい」「いや、お気遣いなく」と言葉を交わしたとしても、それ以上の言葉を交わすことはない。

ところがそんな空港の人混みが殺伐としていないのは、多くの場合、その交差点を渡りきった向こう側に夢が待ち受けているからだろう。だから空港には、行き交う人々の様々な夢がザワザワと行き交っている。そう、夢が行き交うスクランブル交差点、それが空港なのだ。

そんな空港の人混みを目にすると、僕はいつもあの夜のことを思い出す。あれはバンコクの空港だ。


僕は当時バンコクにいて、あの夜はバンコクの空港に、日本からトルコ航空の夜行便でやってくる彼女を迎えに来ていた。時計を見るとタクシーの運転手が思いっきり踏み込んだアクセルのおかげで、予定よりもかなり早く着いてしまっていた。

到着ロビーのゲートのあたりには、深夜0時も遠に過ぎた真夜中だというのに多くの人々が行き交っていて、飛行機が到着しイミグレーションで入国手続きを終えた乗客たちがゲートから出てくるたびに、あたりがいっせいにザワつく。どこにでもある空港という非日常の熱気と喧騒がそこにあった。

僕は時折、ゴム草履の音をパタパタとロビーに響かせながら場所を変え、トルコ航空が到着するのを待っていた。そんなことを幾度となく繰り返している内に、またどこかの国から飛行機が到着したらしく、到着ゲートからゾロゾロと入国手続きを終えた乗客たちが出てきた。そしてゲートの外で待ち構えていた人たちは、お目当ての顔を見つけると急いで側に駆け寄り、笑顔で肩をたたき抱き合っている。そういった光景がしばらく続き、ようやく最後の乗客と思われる真新しいスーツケースを仲良くふたりで押しながら出てきた老夫婦が前を通り過ぎた。

ふたりは、やはりロビーで待ち構えていた愛する家族たちと落ち合い、その場でつきない話を笑顔を交えてさんざん語り合った後、「こんなところでいつまでも立ち話なんてしてないで早く家に帰りましょうよ」 とでも誰かが言ったのか、突然クルリと向きを変え、老夫婦は家族に抱きかかえられるようにしてロビーの人混みを掻き分け出て行った。そんな時だった。もういないだろうと思っていた最後の乗客がひとり、到着ゲートから出てきた。

おそらく大学生だろう。そして彼はまず間違いなく日本人だ。なぜ日本人だと分かったのか。それは彼が渋谷のファイヤー通りあたりのショップで買い揃えたような小洒落た服を着ていたからではなく、また、まだ汚れていない真っ白なソールのニューバランスのスニーカーを履いていたからでもない。彼が手に握りしめていた本だ。それはあの黄色い背表紙に空色の小口のペーパーバック「地球の歩き方」だった。

そんな初々しい出立ちの彼はまた、背中には大きな真新しいノースフェイスのバックパックを背負っている。そしてそのバックパックよりもさらに大きな不安を背負い、その不安に押し潰されそうな顔をして、おそらく初めて目にする外国というものに怯えているのが、「地球の歩き方」を握りしめているその両手に込められた力でよく分かった。

彼はあっという間に男たちに取り囲まれた。それは彼の友人でも、彼の家族でもない。彼を取り囲んだのはタクシーの運転手たちだ。

バンコクの空港は市内まで車で高速道路を飛ばしたとしも1時間はかかる。いかにしてバンコク市内までたどり着くか。それは飛行機で初めてバンコクに降り立った彼のような孤独な旅行者にとって、まず最初に乗り越えなくてはいけない関門なのだ。

もっとも日中ならバスや列車といった、バンコク市内まで辿り着くための選択肢はいくつかある。しかし今は真夜中だ。もちろんお金に糸目をつけないのなら、そのまま到着ロビーのリムジンカウンターへ行き、リムジンタクシーを頼めばいい。 でもリムジンタクシーはローカルタクシーの3倍近い料金設定になっている。

そこでローカルタクシーを使うわけだが、もちろん「すべて」とは言わなが、特に真夜中、空港の到着ゲートあたりにたむろしているタクシーの運転手は、右も左も分からない旅行者を引っ掛け、高額な運賃を巻き上げる悪質なタクシーの運転手が多いのも事実だ。そして実際、騙されてタクシーに乗り込んだ旅行者が殺されるという事件も、1度ならず起こっている。そういった客引きにとって、まさに彼のようなウブな旅行者は格好の餌食なのだ。

そんなタクシーの運転手たちに取り囲まれ完全に気が動転し、今にも泣き出しそうな顔をして怯えている彼に僕は、「良かったら君も僕たちと一緒にタクシーに乗って行かないか?」と声を掛けようと、思わず身をのり出した。

でも結局、僕はあの時、彼に声を掛けなかった。それは、もしもここで僕が声を掛け、彼をタクシーに乗せバンコク市内まで安全に送り届けたとしたら、彼の人生に永遠に残るだろう、かけがえのない初めての旅の思い出を、僕が台無しにしてしまうかもしれないと思ったからだ。

試練なんていう大げさな言葉を使うと陳腐になるが、誰にでも大なり小なり、大人になるために自ら越えなくてはいけない、そんな人生のハードルがあるんだ。そして、そのハードルを越え向こう側に一歩踏み出したその瞬間、それは永遠に色褪せることのない忘れえぬ人生の輝かしい思い出になる。今その旅が彼にとって彼が自ら選んだ試練、すなわち大人になるために越えようとしている人生のハードルなんだろうと僕は思ったのだ。

あの後、彼がどうなったのかは分からない。彼はタクシーの客引きたちに取り囲まれたまま押し出されるようにして、空港の到着ロビーの出口から真夜中のバンコクの暗闇の中に消えていった。

「グッドラック」

僕はそんな言葉を心細げな彼の小さな背中に送った……。


「とうとう、我々のハネムーンも終わったな」

「そうですね。終わっちゃいましたね」

我々は待合室のスタンドで温かいコーヒーを買い、ベンチに座ってそれを飲みながら眩しい朝の空港の光景を眺めていた。 

「そうだ。昨日は感激しましたよ。あんな高級ホテルに泊まれて」

「高級ホテルなんかじゃないよ」

「だってベッドは真っ白なシーツのかかったフカフカの羽毛布団だし、バスルームには分厚いフワフワのバスローブが置いてあって、おまけにテーブルにはナイフとフォークを添えてフルーツまであったんですよ?」

「まあ確かに、ここに来るまでに泊まったホテルと比べれば少し高級って感じはするか。でもタケークのホテルみたいなロイヤルスイートじゃなかったけどな」

我々ふたり思い出し笑いをした。

「そうだ。この後、急いでホテルに戻ってチェックアウトしなくていいからな。ホテルの宿泊費はあと2泊分すでに支払ってある。僕の今回の旅はこれで終わるけど、君はこれからやっと君自身の旅が始まるんだ。旅には、時には休息も必要だ。ヴィエンチャンのホテルでゆっくり体を休めて、ここまでさんざん僕に振り回された旅の疲れをとって、また新たに旅の続きを始めればいい」

「マジですか?」

「それは人生も同じなのさ。時には休んで、じっくりと自分をみつめなおして、そしてしっかりと体力をたくわえ、また思いっきり走り出せばいい。ひとつ憶えておくといい。人生を変えるチャンスはどこにでも転がってる。それをチャンスにできるのは、それをチャンスとして受け入れることのできる1パーセントの心の柔軟さと、自分自身を信じきることのできる99パーセントの勇気だ」

「99パーセントの勇気……」

「実は僕もね、君と同じく運命なんてものがあることをまったく信じてないんだ。運命って、たぶんフォーチュンクッキーを割るようなものじゃないのかな。答えが欲しい時にフォーチュンクッキーを割って、良い言葉が出てくればそれを幸運だって思い、悪い言葉が出てくればそれを悪運だって思う。そしてそれを受け入れられれば、それをみんな運命って呼ぶんだ。ようする運命は自分の人生に対する問いへの、答えを出すための理由なのさ」

「フォーチュンクッキー……」

「だからそんな運命なてものに答えを求めないで、人生の中に転がってるチャンスを見つけるために、とにかくいろんな経験をするんだ。多くの経験をして、多くを学び、そして多くを知る。知るっていう行為はまた我々人間にとって、行く手に広がる暗闇の中に明かりを灯して足元を照らす行為でもあるんだ。そしてその明かりは多くの経験をすることによって確実にその輝きを増すはずだ」

「なるほど……」

「そして自分を信じることだ。それが人生のスタートラインなんだって僕は思う。人生は自分を信じることから始まるのさ。自分の歩むべき道はきっとその先にある。だからたとえ自分を信じてくれるのがこの世の中に自分しかいなかったとしても、自分を信じることを恐れるな」

「自分を信じる……」

「もちろん世の中には優秀なヤツがたくさんいる。そしてそんな誰かと自分を比べて自信を失うことだってある。でもね、そもそも誰かと比べる必要なんてないんだ。時としてそうすることによって人って、自分自身の可能性を見失っちゃうものなのさ。その結果、僕は絶対に彼みたいにはなれないんだって自分の人生を挫折してしまう。だから大切なのは、ひたすら自分を信じて、自分が信じる自分であり続けることだ。少なくとも僕はそうして生きてきた」

「自分であり続ける……」

「もしもいつか壁にぶつかるようなことがあったら、あのメコンの流れを思い出せ。メコンは人生に残る川だ」

「人生に残る川……?」


そんな時、僕が乗る飛行機の搭乗案内が始まった。

「ありがとうございました!」

「ありがとうって?」

「隊長のおかげで僕、もう一生分の旅をしたって感じです」

「おい、一生分だなんて何を言ってんだ。大学を卒業して、これからやっと自分の人生が始まるんじゃないか」

「そうですね」

「じゃあ、最後にハグしようぜ」

「何ですか、突然?」

意味も分からず笑い出した彼をハグした。

「グッドラック!」

「何ですか、急にカッコつけて?」

彼がこらえきれずに大笑いする。

「いいんだこれで。じゃあまた偶然どこかで会ったらこの旅の続きをしようぜ」

「了解しました。隊長!」

「おい、もうその隊長はよせ……」

我々ふたり思わず顔を見合わせて笑った。

搭乗ゲートからふと振り返ると、どことなく日焼けをして薄汚れ、少したくましくなったような生っ白い若造が、大きく派手に手を振って笑っていた……。


スタジオでの撮影は予定通りに終わり、我々は途中いつものレストランで食事をした後、渋谷のオフィスに戻った。

「先週末に入稿した雑誌広告の校正、今晩、届くって連絡がありましたよ。あとスタイリストがモデルのオーディションの打ち合わせがしたいって」

「わかった。ありがとう」

「そういえば、さっきのエアメール読んだんですか?」

「アッ、そうだ忘れてた」

そこでデスクに上に山積みになっていた資料をどけて、やっとエアメールを救出した。

「キューバ……?」

消印を見ると確かにキューバからだった。でも名前は書いてない。

「いったい誰だ?」

その疑問はエアメールの文面の最初の一言で判明した。


〈隊長、元気にしてますか。あっという間に1年が過ぎましたね。僕はあれからしばらくラオスを旅して1ヶ月ほどして帰国しました。そして今はアメリカの大学でまた学生をやってます。熱帯病理学を勉強してるんです。これから伝染病の予防に関する仕事に就くために。あの日バンコクの中央駅で隊長と出会ったことによって、僕は自分自身の歩むべき道が見えた。たぶんあの時、僕が割ったフォーチュンクッキーの答えが隊長だったんだ。今やっと少し時間の余裕ができたので、こうして大学の休みを利用してキューバに来てます。ここに来ても相変わらず、毎日、夕方になると海岸に行って夕日を眺めてるけど、隊長とふたりで眺めたあのメコン川の夕日よりもキレイな夕日を、僕はまだ一度も見たことがない。それはきっと、これからも……〉


また相変わらずバカなこと言いやがって。そんなことを考えながらエアメールを読み終わった途端、なんだか思わず笑いがこみ上げできた。

「今、何か言いましたか。ひとりニヤニヤしててかなり変ですよ。それ誰からのエアメールだったんですか?」

「ちょっとね。以前ある部隊の隊長をしてた時の隊員さ」

「なんですかその怪しい部隊って?」

「ア〜っ、ゴメン。それは機密情報だから言えないんだ」

「もう機密情報だか何だか知りませんけど急いでください。5時から代理店でミーティングなんですから。隊長!」

「おい、その隊長はよせ……」

僕は彼のエアメールをデスクの脇のダッシュボードにピンで止めると、そのまま資料を抱えてオフィスを出た。外はまだ4月だというのにまるで真夏のような紺碧の大空におおわれていて、この日もまた東京の気温は過去の最高気温を塗り替えた。




参考文献


『岩波講座 現代』(岩波書店)

『岩波講座 現代思想』(岩波書店)

『岩波講座 転換期における人間』(岩波書店)

『岩波講座 社会学』(岩波書店)

『岩波講座 文化人類学』(岩波書店)

『岩波講座 宗教』(岩波書店)

『岩波講座 宗教と科学』(岩波書店)

『岩波講座 東洋思想』(岩波書店)

『岩波講座 世界歴史』(岩波書店)

『言語起源論』J・G・ヘルダー(法政大学出版局)

『言語哲学の原理』フリードリヒ・ワイスマン(大修館書店)

『普遍思想』中村元(春秋社)

『原始仏教の社会思想』中村元(春秋社)

『原始仏教の生活倫理』中村元(春秋社)

『ヴェーダの思想』中村元(春秋社)

『ウパニシャッドの思想』中村元(春秋社)

『講座仏教の受容と変容』石井米雄(俊成出版社)

『インド・東南アジアの仏教研究』佐々木教悟(平楽寺書店)

『アジアの宇宙観』岩田慶治(講談社)

『インド宇宙論大全』定方晟(春秋社)

『須弥山と極楽』定方晟(講談社)

『聖書動物大辞典』ウイリアム・スミス(国書刊行会)

『エリアーデ世界宗教史』ミルチア・エリアーデ(筑摩書房)

『文化帝国主義』ジョン・トムリンソン(青土社)

『幻影の時代』ダニエル・ブーアスティン(東京創元社)

『比較「優生学」史』マーク・アダムス(現代書館)

『フランシス・ゴールトンの研究』岡本春一(ナカニシヤ出版)

『進化論裁判』ナイルズ・エルドリッジ(平河出版社)

『人間 - この未知なるもの』アレクシス・カレル(三笠書房)

『熱帯医学』北山谿太(中山書店)

『食経』(明治書院)

『肉食タブーの世界史』フレデリック・ジェームズ(法政大学出版局)

『絶滅のゆくえ』ポール・R.エーアリック/アン・H.エーアリック(新曜社)

『動物のいのちと哲学』コーラ・ダイアモンド(春秋社)

『動物の命は人間より軽いのか』マーク・ベコフ(中央公論社)

『動物からの倫理学入門』伊勢田哲治(名古屋大学出版会)

『メコン河』堀博(古今書院)

『三峡ダム』戴晴(築地書館)

『地球白書』ワールドウォッチジャパン

『カワイルカの話』糟谷俊雄(鳥海書房)

『カゲロウのすべて』御勢久右衛門(トンボ)

『水生昆虫学』津田松苗(北隆館)

『東南アジア大陸の言語』大野徹(大学書林)

『消えゆく言語たち』ダニエル・ネトル(新曜社)

『地球語としての英語』デーヴット・クリスタル(枌柏社)

『国民語がつくられる時』矢野順子(風響社)

『風土と建築』宮川英二(彰国社)

『観光学のまなざし』ジョン・アーリ(法政大学出版局)

『東南アジアの華僑社会』ジョージ・ウィリアム・スキナー(東洋書店)

『ヴェトナム戦争全史』小倉貞男(岩波書店)

『ベトナムのラスト・エンペラー』ファム・カク・ホエ(平凡社)

『大航海時代叢書』(岩波書店)

『シャム旅行記』フランソア・ティモレオン・ド・ショアジ/ギー・タシャール(岩波書店)

『オイレンブルク伯バンコク日記』大西健夫(リブロポート)

『王朝四代記』ククリット・プラモート(井村文化事業社)

『東北タイの子』カンプーン・ブンタヴィー(井村文化事業社)

『大君の都』ラザフォード・オールコック(岩波書店)

『太平洋の防波堤』マルグリット・デュラス(河出書房新社)

『インディア・ソング』マルグリット・デュラス(河出書房新社)

『マルグリット・デュラス その愛の行方』佐藤浩子(新評社)

『星の王子さま』サン=テグシュペリ(岩波書店)

『プロタゴラス』プラトン(岩波書店)

『漱石全集』(岩波書店)